22.「一本のヒット、されど」
【三回表:浅井・朝倉ベースボールクラブ 攻撃】
三回表、静かな緊張が再び球場を包む。
マウンドに立つ明智光秀の表情は変わらない――だが、足元の踏み出しがわずかに鈍い。
「……くっ」
小さく息を呑んだその瞬間を、見逃さなかった。
打席には浅井軍の7番ファースト赤尾清綱朝倉軍の古参/安定感あるベテランである。
初球から振ってくる気配はなく、あくまで見極める。光秀の球を。
「また……粘るか」
長可が低くつぶやいた通り、四球目までに既にファウルが三つ。
そして五球目、浮いた変化球を逃さず――ライト前ヒット。
尾張ベンチにざわめきが走る。
「……明らかにタイミングが合ってきておるな」
久秀がつぶやいた。信長は無言で睨む。拳を握ったまま。
続くバッター8番セカンド山本義次にも四球を許し、無死一二塁。
迎えるは9番ライト小川祐忠、犠打の名手として知られる選手――
だが、ここでもバントではなく強攻策。
「浅井・朝倉、ここで仕掛けてくるか」
そして――内野を抜けるゴロヒット。
一人が帰り、ついに先制点を許した。
「一点……!」
尾張ベンチが重く沈む。
その後、ランナーを溜めたまま、一死満塁。
ここで9番が大きく打ち上げたライトフライ――
「タッチアップくるぞッ!」
長可が叫ぶ。
バックホーム体勢に入った――
本塁上、外野からの返球がわずかに逸れ、
浅井軍の走者がスライディングで突っ込んでくる――
キャッチャー・森長可が立ちはだかる。
「させるかぁっ!」
体ごとブロックしながらタッチ――
激しい衝突音がグラウンドに響く。
ドォン!
「うっ……がッ!!」
ホームを死守した長可が吹っ飛ばされた。
ランナーは生還。2点目。
「セーフ!」
審判のコールとともに、長可が土煙の中で仰向けになる。
「長可……!」
信長が立ち上がりかけたその時、長可は手を挙げ、地を蹴って吹き飛ばされた土煙の中で起き上がり、口元をぬぐいながら立ち上がる。
「へっ、大丈夫……っスよ……」
笑みを浮かべるが、その口元にかすかな苦痛の色。
戻るとき、小さくつぶやいた。
「ちっ、いまのでやっちまったか……?」
ベンチの片隅、腕を組んで座っていた柴田勝家が、眉をひそめる。
「……今、左の背、押さえたな」
低く呟いた声に、隣の前田利家が振り返る。
「あの長可さんが吹っ飛ばされた…浅井・朝倉軍のプレーヤーはどんなフィジカルしてるの…」
一巡して最後の打者をなんとかセンターフライで仕留め、チェンジ。
だが光秀の肩が――わずかに落ちていた。
呼吸は乱れ、膝に手をつく一瞬の動き。
「はやくも限界かの」
久秀が、意味ありげに呟いた。
「……まだだ。次の回までは光秀に投げさせる」
信長の声に迷いはなかったが、その拳は深く沈む。
蘭丸の指先が震える。
タブレットには、光秀の投球数「75」、球速の減少、制球率の変化――無慈悲な数値が並ぶ。
そして――
【三回裏:尾張デビルズ 攻撃開始】
倒れかけた流れを止めるため、尾張打線がバットを握り直す。
次こそ――反撃の狼煙を上げねばならぬ。
三回裏の展開
【三回裏:尾張デビルズ 攻撃】
尾張の攻撃、ようやく巡ってきた7番バッター――佐々成政。
七番・レフト、佐々成政がバッターボックスに立つ。
冷たい目線をマウンドのお市に向けると、小さく息を吐いた。
「たとえ、あんたがお市でも……関係ないわ」
スイングの構えは無駄がなく、美しい。
初球、インコースに食い込むストレート。
振り抜いたバットは、ボールの上をかすめ――ファウル。
二球目、変化球。食らいつくも、バットの先。
フラフラと上がった打球は、浅井軍のショートが難なくキャッチ。
アウト。
打球はそのまま左中間のグラブに収まり、
成政はゆっくりとバットを戻してベンチへ向かう。
「次は打つわよ、きっとね」
続く8番――マウンドを守る明智光秀が打席へ。
その顔色は冴えず、ユニフォームの背にはうっすらと汗が滲む。
肩で息をしながら、光秀はゆっくりとバットを構えた。
(……投げ疲れてなどいない。ただ、……この一打に、すべてを)
お市の初球、外角低めへのスライダー。
光秀は動かず、見送りボール。
二球目、内角ストレート。ギリギリのコースをカット。
三球目、再び外へ逃げるスライダー。ファウル。
(……来る。この感じ……)
四球目、カーブ。見極めてボール。
カウントは2-2。球場全体が静まる。
そして五球目――お市の得意球、鋭く曲がるスライダー。
だが光秀は一歩踏み込み、迷いのないスイングを放った。
カキィィィン――!
打球は左中間の深いところへと弾丸のように飛ぶ。
外野手たちが必死に追うが、打球はわずかにグラブをすり抜け、芝を転がった。
光秀――一塁へ、よろめくように走る。
それでも、最後の一歩を力強く踏み込み、ベースに滑り込んだ。
「セーフ!」
審判のコールとともに、尾張ベンチが歓声を上げる。
だがその歓声の中――光秀は息を切らせながら、無言で立ち上がる。
疲労は明らかだった。それでも、彼女の瞳だけは、燃えていた。
「やったーーっ!! 光秀ーっ!!」
「ナイスバッティングです!光秀さん!」
蘭丸も、いつもの冷静な調子を忘れたかのように立ち上がり、声を張り上げた。
データ分析どころではない、抑えきれぬ高揚が、その頬を紅潮させる。
藤吉郎がバンザイしながら飛び跳ねる。
「くぅ~っ、まさかのピッチャー初ヒットぉっ!! これは来ておるぞ! 流れ爆来中ぅ~っ!!」
「やっぱりさすがよな、裏切りの鬼ぃ!!」
「反逆のバットが火を吹いたーっ!!」
ベンチから次々に飛ぶ、半ば伝説扱いのヤジと歓声。
光秀は苦笑を浮かべつつも、胸の奥に込み上げるものを必死に押し殺しながらヘルメットを脱いだ。
「反逆でも謀反でも、何とでも呼ぶがいい……今は、尾張の一員として、勝つために打っただけだ」
その目はどこまでも冷静で、どこまでも闘志に満ちていた。
……だが、その喧騒をよそに、マウンドのお市は冷ややかな目で見下ろしていた。
「……たかが一本、まぐれでヒット打っただけでしょ」
呟くその声音に、冷たい棘があった。
氷のような瞳が、次の打者を見据える。
尾張ベンチの熱狂とは裏腹に、試合の空気は一気に冷たさを増していった――。
すぐさま構えを取り直す。
打席には9番、丹羽長秀――守備と選球眼に優れた“堅実型”。
しかし、お市の立ち直りは早かった。
丹羽の慎重な構えに対して、緩急とコーナー攻めで翻弄。
最後はアウトローに沈むスライダーで見逃し三振。
二死一塁、続くは一番打者・滝川一益。
初回、三球三振を喫したクールなセンター。
今度こそと意気込むも――お市は完璧な配球で追い込んでいく。
フルカウントからのスライダー――
空振り三振。
チェンジ。
一瞬盛り上がった尾張ベンチだったが、再び沈黙が戻る。
信長は光秀に歩み寄り、帽子のつばを目深にかぶりながら囁いた。
「……ナイスヒットだ。だが、ここからだな」
光秀は息を整え、ただ小さく頷いた。
こうして試合は――四回表へと進んでいく。




