10.原点回帰
不在の革命児
敗北から、数日が経っていた。
尾張デビルズは、いつも通りの時間に練習を開始し、いつも通りのメニューをこなしていた。
だが――その「いつも通り」の中には、決定的に欠けているものがあった。
信長の姿。
キャプテンであり、エースであり、革命の象徴だったその人は、
この数日、グラウンドにもブルペンにも姿を見せることが少なくなっていた。
ブルペンの片隅。軽く肩を回しながら、控え投手・明智光秀が肩をすくめた。
「信長様、どうしたんだろうな……ふふ、まあ、いいけどね」
その口元には、冷ややかな笑み。
「私の登板機会が、増える。“革命”もいいけれど、私が投げて勝利するこそが、真実だ」
彼の視線は、空っぽのマウンドを見つめながらも、
何かを探るような、読み解こうとする鋭さを帯びていた。
一方、内野ノックを受ける柴田勝家は、無言だった。
球を捌く姿は相変わらず正確で、力強い。
だがそこには、以前のような、仲間を鼓舞する威勢も気迫もない。
ただ、淡々とこなす。まるで、歯車のように。
「ナイスキャッチ、勝家先輩!」
そう声をかけた利家にも、彼女は一瞥だけを返し、何も言わなかった。
その様子に、利家は視線を伏せた。
(……勝家さん、あのときのこと、まだ引きずってるんだな)
近くにいた藤吉郎が、いつもの調子で話しかけてくるが、
利家の返事は上の空だった。
竹中半兵衛は、ノートを片手にベンチに腰かけていた。
静かに、冷静に、しかし何度も同じページを行き来している。
そこに書かれているのは、お市の投球データ。
対戦映像の解析結果。信長の打席での傾向。
(……あの革命野球が、通用しなかった。
いや、“あの子”だけが異常なんだ。あの集中力、制球、心理誘導。まるで別人だ。
そしてそれを浅井長政が引き出した。理想のバッテリーだ。)
彼は無意識に拳を握る。
(理屈が通じないほどの“覚醒”――それこそが、革命に対するアンチテーゼ)
思考を深めるその表情の裏には、焦りと、それを隠そうとする自制があった。
「……焦ってますね、半兵衛さん」
不意に、隣から声がした。
振り返れば、同じく分厚いノートを片手にした少女――森蘭丸がいた。
「見えてましたか?」
「はい。何度も同じページを行き来する人、初めて見ました。」
半兵衛は苦笑した。
蘭丸は相変わらず淡々としていて、だが本質だけは容赦なく突いてくる。
「革命野球って、仮説と実証で動くじゃないですか。
でも今の私たち、その仮説が“感情”や“覚醒”に上書きされている気がして。
……半兵衛さんは、今の私たちの革命野球に、魅力を感じてますか?」
その問いに、半兵衛は沈黙した。
少しだけノートを閉じ、静かに蘭丸の方へ目を向ける。
「……感じてるさ。ただ、それが“本物”かどうか、まだ判断できないだけだ」
「“本物”……ですか」
「革命は、一瞬の奇跡ではない。論理と蓄積の果てにある、世界の再定義だ。
だから僕は、信じたいんだ。あの自由なプレースタイルが、理屈に還元できる日が来ると」
「でも、今は理屈じゃない何かが勝っているように見える、と」
「そうだ。あのバッテリーは……理屈を超えてた。理屈に屈しなかった。
そういう野球があるなら――俺たちはどうすべきか、考えないといけない」
蘭丸はノートをパタンと閉じた。
「じゃあ、私たちは次の仮説を立てましょうか。“理屈を超えるロジック”を、仮にでもいいから」
半兵衛は、ようやく少しだけ笑った。
「森蘭丸、君はほんとに厄介な方だよ」
「最高の褒め言葉です、半兵衛さん」
二人の静かな会話は、革命野球の次なる段階への“前振り”に過ぎなかった。
午後の小休憩の時間。
グラウンド脇の木陰で、藤吉郎はこっそりと蜂須賀小六と何かを食べていた。
「へへ〜、今日のはね、干し芋の黒糖がけ! 信長さまにはナイショね!」
「なにこれ……スイーツ通り越して、もう反則やん。台所で革命起きとるやろ、藤吉郎家。」
二人で笑い合っていたその瞬間――
「……さっさと練習に戻れ」
背後から低く、短く、しかし異様に冷たい声が響いた。
「――!!」
振り返ると、信長が立っていた。
汗もついていなければ、ユニフォームも着ていない。
ただ視線だけが、突き刺さるように鋭かった。
「ぎゃあぁぁぁ〜〜〜っ!! ご、ごめんなさ……え?」
しかし、信長は一言だけ言うと、そのまま通り過ぎていった。
「……雷、落ちなかった……?」
ぽかんとする藤吉郎。
「いやいや、あれが一番怖ぇだろ……あの静かさ」
蜂須賀がぼそりと呟いたその瞬間――
「こら小六っ! おやつ返せぇぇ!!」
「気が緩んでんのはお前の方だろ!」
と走り出す小六を、藤吉郎が全力で追いかける。
だが、その騒ぎさえも、グラウンド全体にどこか空疎に響いた。
信長は一人、ブルペン奥の階段に腰掛けていた。
練習の声も、騒ぎも、遠くに聞こえる。
手元には、一冊のメモ帳。
そこに何かを、ひたすら書き殴っている。
「革命とは、手段だったのか?」
「お市の野球は、理想を否定していない。ただ……結果を支配した」
彼は、自らの野球を、根本から見直していた。
“打倒お市”ではなく、もう一度、自分の“革命”の意味を探していた。
「――しばらく、尾張デビルズの指揮を頼みたい」
練習後のミーティング室。
織田信長は、静かにそう切り出した。
斎藤道三は、一度だけまばたきをして、答える。
「……承知した。では、当面は私がチームを預かる」
信長はうなずいた。
「それと――」
道三は、ホワイトボードに視線を向けながら口を開く。
「控え投手・明智光秀をエース起用で組み立てるということで、よいな?」
「……ああ。好きに采配してくれて構わない」
そして今、信長は三河を訪れていた。
信長にとっては唯一、感情を晒せる相手であり、彼もまた信長に対しては他人には見せぬ軽口や皮肉を交える。お互いを誰よりも理解しつつも、決して完全には交わらない、特異な距離感の友情。
――旧友、徳川家康のもとへ。
三河・徳川邸敷地内 特設グラウンド
陽だまりの中、芝の上でゆったりとキャッチボールが続いていた。
「浅井・朝倉ベースボールクラブ……あそこ、そっちの地方じゃ最大規模のチームだよね」
ボールを軽く放りながら、徳川家康が口を開いた。
「君の“革命野球”は本当にすごいと思う。でも……その分、どこかで何かを置いてきたように思うんだよね」
信長は球をキャッチし、そのまま黙って握ったままだ。
「覚えてる? 小さい頃、一緒に観に行ったよね。甲斐レッドドラゴンズと、越後ブリザードエンジェルズの対決」
家康の言葉に、信長がほんの少しだけ表情を動かした。
「……忘れるはずがない。今でも目に焼きついてる」
信長は遠くを見るように言う。
「一球ごとに空気が揺れた。打球がグラウンドを裂いた。スライディングの砂ぼこりまで、今でも思い出せる」
その声には、遠い記憶の熱があった。
(※注:甲斐レッドドラゴンズと越後ブリザードエンジェルズの対決は外伝『天下布球 〜美少女戦国ベースボーラーズ 外伝 最強対最高の対決〜』にて執筆予定)
「ふふ。そのときの気持ちも、ちゃんと覚えてる?」
家康は問いかける。
「……」
「球場に入った瞬間から、二人とも目を輝かせてたよ。
そのプレーに全身で憧れて、夢中になって、ずっと座席から立てなかった。試合が終わっても、二人とも黙ったまま余韻に浸っててさ」
信長は少しだけ、目を伏せた。
「帰り道、誰も何も言わなかったよね。でも、君がぽつりと言ったの。
“あんな野球がしたい”って。私、今でもはっきり覚えてる」
「……ああ、言ったな」
「そのあと、うちに寄って――延々キャッチボールした。あの日の熱を冷ましきれなくて。君のボール、あの時、ほんとに楽しそうだったよ」
家康はふっと微笑んで、少しだけ速球を投げた。
信長が無意識に構え、パシッと受け止める。
「今の君からは……あのときのワクワク、ちっとも感じられない」
家康の声はやさしく、しかし静かに刺さる。
「勝つことも、革命を起こすことも大事。
でも――“野球を楽しむ気持ち”、どこかに置いてきたままじゃない?」
「……!」
信長の目が大きく見開かれる。
「ねえ信長。原点に帰るのも、悪くないんじゃない? “革命”って言葉だけじゃなくて、“野球”そのものを、もう一回見つめてみるのも」
その瞬間、吹き抜ける初夏の風が、どこか懐かしい匂いを運んできた。
一方、尾張デビルスグラウンドにて。
「ふっ、ふふふ……。いよいよ私の出番、ということですね」
明智光秀が、口元に扇子を当てながら微笑む。その瞳は笑っていない。
「信長様が不在の今――ええ、まさに好機です。私の理論と采配、そして“忠誠心”を見せることで……ふふ、このチームにふさわしいのは誰か、周囲にも理解していただきましょう」
彼女の言葉には、一歩先を読んだ者の冷ややかな計算が滲んでいた。
その背後――。
淡々とバッティング練習を続ける柴田勝家の姿がある。
声は出さず、表情も変えず、ただひたすらにバットを振る。
だが、彼女の足元には、いつもより深く抉れた踏み込みの跡が残っていた。
その額には滝のような汗。
一度だけ、タオルでそれを乱暴に拭うと、目を閉じて、何かを押し殺すように息を吐いた。
次のボールに向けて、黙々と構えを取る。
誰に見せるでもない“意地”と“忠義”が、音もなく燃えていた。




