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第6話 『がんばれ』の呼吸

 人形のように固まった身体がほぐれてきたら、歩行訓練が始まった。


 それは、言うなれば憂鬱な時間だった。リハビリ用の平行棒を頼りに両足で立ち、ゆっくりと前進する。小さな子供が失敗しながら自転車の運転を覚えるように、バランスを崩して途中で何度も倒れそうになる。


 その度に平行棒を掴んで、ロクに動かない足に歩くという行為を再インストールしてゆく。


 ……やってみて初めてわかったことだけど、歩行訓練は大変だった。


 すぐ傍で水野さんが見守ってくれているとわかっていても、力のこもらない足で歩きだすのは怖い。怖がれば身体が竦む。竦んだ身体では、満足に歩くことができない。満足に歩くことができないから、歩きだせない――そんな負のループが、訓練を遅滞させた。


「今日はもう終わりにしましょう。天音さん、病室に戻って休んでください」

「……はい……」


 今日もまた、同じ言葉をいただいてしまった。


 期待に沿えない申し訳なさに落胆して車椅子で病室に戻ると、ベッドの傍らで萩尾さんが本を読んでいた。どうやら俺を待ってくれていたらしい。


「天音くん、おかえり。歩行訓練の調子はどう?」

「あんまり、かな。歩くの、まだ少し怖くて……」

「足に力を込める感覚、上手く掴めてないんだね」

「それもあるかも。でも一番の問題は、いつ倒れるか知れない恐怖なんだ。いつもふいに力が抜けて、そのまま前に倒れていってしまいそうになるんだよ」

「……そう……」


 見舞い客用のテーブルに置いていた本をパタンと閉じて、この日の萩尾さんはそのまま帰宅した。

 ひょっとしたら幻滅されてしまったのかもしれない。長男なのに勇気が足りないと。ややもすればもう二度とお見舞いに来てくれないんじゃないだろうか。


 そんな風にどよんとした気分のまま、再び病院敷設のリハビリテーションセンターを訪れた翌日、なんとそこには学校指定のジャージ姿の萩尾さんがいた。


「えっ、萩尾さん? どうして?」

「水野さん、今日は急な用事でお休みだって。だから私が代理」

「あー、なるほどそっかー……じゃなくて、それ全然順接してないよ! 代理なら普通、他の理学療法士さんとかが当たるんじゃないの?」


 と言い切ってから、ムスっと萩尾さんが不機嫌になってることに気づく。


「ねえ天音くん、私じゃ不満? 私じゃ、君の力になれない?」

「いや、そんなことないよ。気持ちはとても嬉しいし。けどこういうのは専門職の人にやってもらった方が」

「……そんなの、なんのために私が暇を出したかわからないじゃん……」


 えーっと、今なにか聞いてはならぬ怖いことを聞いてしまったような……?


 俺がどうリアクションしたらいいやら戸惑っていると、ふはあっと溜息を吐いて萩尾さんがこちらの様子を窺ってくる。


「確認だけど、嫌じゃないんだよね? それとも天音くん、私なんかと一緒じゃリハビリがんばりたくない?」

「そりゃあ……そんなことないけど……」

「だったらお願い。私、天音くんの力になりたいんだ。今日一日、君のリハビリのお手伝いさせて。この通り、一生のお願いだからっ!」


 頭まで下げられては、こちらから断りを入れることなんて不可能だ。

 頷くと、萩尾さんは見惚れてしまうほどの笑顔を浮かべた。



 ここ最近の歩行訓練は、一定のやり方に沿っていた。


 車椅子を操縦し、まずは平行棒の端に乗りつける。それから車椅子の肘掛けと平行棒を頼りにその場に立ち上がり、ゆっくりと前方に向かって歩きだす。

 バランスを崩したり、足から力が抜けた場合は、即座に平行棒を持って姿勢を保ち、一休みする。


 そんな段取りだったのだが――。


「あの……なんでそんなところにいるの、萩尾さん?」


 普通、理学療法士さんは患者の隣に立ち、危険がないよう横から補助に入ってくれる。

 水野さんとの歩行訓練もそんな感じだった。


 だというのに今、萩尾さんは車椅子から立ち上がった俺の前方、二本の平行棒の真ん中に立ち、真正面から俺と向き合っていた。


 俺の質問に、逆に不思議そうな顔をして萩尾さんは答えた。


「なんでって、私、天音くんの補助をするためにいるよ?」

「それはそうなんだろうけど……なんで前方にいるのかなって」


 至極もっともな疑問のはずだ。

 だが何故か、この質問は萩尾さんの心象を損ねたらしい。


「むー、そんなのもちろん前から補助するために決まってるじゃん」

「でもさ、そこにいたら絶対危ないよ。昨日も言ったと思うんだけど、俺、歩きながらつんのめって前に倒れる癖があるんだ」


 術後の経過は悪くない。

 けれど、足の感覚は未だに鈍いまま。


 いつ力が抜けて前に倒れてもおかしくない現状、正面からの補助はかなりのリスクを伴う。

 きっとこの方法は俺自身のみならず、萩尾さんまでも怪我させてしまう危険性がある――そのはずだったんだけど。


「――いいよ、倒れてきても」


 ケロっとした顔で、とんでもないことをのたまう萩尾さんだった。

 意味不明の返しに、思わず訊き返す。


「あの、それどういう意味?」

「だからそのものの意味だよ。急に足の力が抜けて倒れそうになったら、そのまま倒れてきて。私が、絶っ対に受け止めるから!」


 シュバっと両腕を開き、ハグ2秒前の姿勢を取る萩尾さん。


 まさか男子が好きな女子にされたいポーズNo.1(俺調べ)をこんなところで見ることになろうとは――じゃなくて、さすがにそれはいただけない。


「やめた方がいいと思うよ。普通に危ないし」

「信用ないなあ。こう見えて私、クラスのスポーツテストじゃ女子の中で一番なんだよ」


 なんかズレてるなあ……。

 けど、ここは俺も譲ったらダメなところだ。


「術後で多少体重は減ってるかもだけどさ、俺の身体は萩尾さんより重量がある。そんなのが前からぶつかってきたら、きっと萩尾さんが怪我してしまう。そうなったら俺、責任取りたくても取れない」


 たぶんこの補助は、やり方として間違っている。

 だから考え直してほしいと言いたかったんだけど――。


「なにそれ? 天音くん、私の身体が固いって言いたいの?」

「いや、違くて」

「平気だよ。私……結構あるし……」

「へ?」


 まるで自分のものではないような、素っ頓狂な声が出た。


 萩尾さんは視線を下方に外し、白磁のような頬を桜色に染めてボソボソと。


「ちゃんと比べて見たりしたわけじゃないけどさ、私クラスの中でもたぶんおっきい方だから。だから天音くんが倒れてきても大丈夫だと思う。うん、ちゃんと守るし。もし顔から突っ込むようなことがあっても、絶対に怪我とかさせないから。柔らかい、たぶんクッションみたいなものだと思うから……」


 冷静に内容のみを抜き出すと、萩尾さんの話は色々おかしかった。


 ――俺が問題にしてるのは萩尾さんの怪我であって、俺自身の怪我は割とどうでもいいとか。


 ――顔から倒れようとする前に先んじて手を回して、そうならないようにするのが本来の補助の仕事だとか。


 ――なにかについて語っているように見えて、そのものを単語として呼んでないので意味曖昧な話になってしまっているとか。


 要は会話のキャッチボールになっていないことは理解していた。

けど、実際のところそんなのは些細な問題だ。


 萩尾さんがなにについて語っているのかくらい、それが身体のどの部位なのかくらい、普段から鈍いと言われている俺にだってわかる。


 そして、わかってしまえば、現状はとても気まずいわけで……。


「あっ、あのね天音くん、そろそろリハビリ始めないっ?」

「……そう、だね……」


 萩尾さんがはにかみながら搾りだした一声が、まさかの助け舟となった。



 そんなこんなで、リハビリ開始十五分。


 血の滲む訓練の甲斐もあり、俺は全●中・常中を会得しようとしていた。

 もとい、平行棒の中ほどまで手がかりを使わずに歩んでいた。


 既に額は汗だく、息は乱れ、足は震えに震えている。


 これがもし、国民的アニメの特殊呼吸法の訓練だとしたらたぶん0点だ。

 けどここは現実で、俺は大怪我のリハビリ中。うん、よくやってると思う。


 そして肝心かなめの萩尾さんはというと――。


「ホラホラ天音くん、さっきから足が止まってるよ! がんばれ♪ がんばれ♪」


 かろうじて自立している俺の真正面に立ち、にぱーっと最高の笑顔を浮かべながら、音をさせず拍手をして俺のことを絶賛応援中だった。


 その姿を人様が見れば、きっと100人中100人がリハビリの補助員だと思わないだろう。

 もしそうなんだよと俺が伝えた場合、「よもやよもやだ!」などと言って呵々大笑されるのがオチなんじゃなかろうか。


 そんな、もはや俺専属の応援団団長兼部員となってしまった萩尾さんが、立ったまままんじりとも動かない俺を心配し始めてくれたらしい。


「ひょっとして天音くん、本当に限界きてたりするの?」

「……いや、限界って言ったら、最初からとっくに限界なんだけど」

「またまたあ。さっきまで順調に歩けてたじゃない。私、そういう嘘にひっかかるつもりなんてないよ?」


 とまあ、萩尾さんはまるで冗談のように笑顔で言ってくれるものの、こっちは本当の意味で冗談じゃなかった……。


 リハビリ開始からこちら、萩尾さんは俺の正面50センチの距離を保ち、俺が歩いた分だけ、後ろ歩きで後方に下がっていた。

 俺が倒れたら確実に巻き込んでしまう距離だ。それがずっと維持されていることになる。


 このまま俺が先に進み続ける限り、萩尾さんの身も危険に晒され続ける。

 平行棒を掴んでスタミナを回復しつつ、どうにか最後まで歩ききるしかない。


 ……けど、やっぱりもう限界だ。


 俺は平行棒を両手で掴んで一時休止し、何度目かになる懇願を行った。


「……ねえ萩尾さん、やっぱり横から見ててくんないかな?」

「だから信用してって。私、ちゃんと天音くん受け止めるし」

「あの、聞いて欲しいんだけど……実は今、最高到達点まできてるんだ」


 平行棒を使っての歩行訓練を始めて長い。


 ラインを引いて記録したわけじゃないけど、周囲の光景で自分がどこまできているかは把握できる。ここからの光景は見たことがない。


 いつも歩き始めで倒れかけたり、徐々に足から力が抜けて地面に手と膝を突いてしまったりしていた。視点を高く保ったまま、ずっと立っていられることすら稀だった。ましてや歩いてこんなところに辿り着けたこともなかった。


「足とか、もうほとんど感覚なくって。下手に倒れて、萩尾さんを巻き込みたくない。俺、萩尾さんに怪我させちゃうのが、一番怖いんだよ……」

「……天音くん……」


 俺の名を呼ぶと、萩尾さんは屈んで平行棒の外へ出た。

 よかった、わかってくれた――。


 そう安堵した矢先、立った萩尾さんが上着のチャックを勢いよく下まで降ろした。


「あ、あのー、萩尾さん?」


 突然の出来事に、思わず呼びかけてしまう俺。

 萩尾さんは、上着をふぁさっと華麗に脱ぎ捨てて、決意を秘めた目で俺を見た。


「――天音くんっ!」

「は、はいっ!」


 思わず背筋を伸ばしてしまう俺。

 萩尾さんは力強く声を出す。


「前にも言ったと思うけど、私、天音くんと一緒にリハビリがんばりたいの。君のこと応援したい。だから、ただ見てるだけなんてできない。もし君が倒れそうになったら、私が前に出るよ。前から抱き留める。だから天音くんは安心して、しっかり前だけ見て進んで」


 あまりにもひたむきでまっすぐな萩尾さんの言葉を聞いて、思う。

 ああ、これは、俺の言ってることがまるきり伝わってないヤツ……。


 唖然とする俺の元に帰ってくると、萩尾さんは改めてこう言った。


「天音くん、長い道のりもあと半分だよ! 一緒にがんばろっ!」


 ……そんなこんなで、現状がなにも改善しないまま、俺のリハビリは第二フェイズへと移行したのだった。



 さっきから、俺の脳裏にひとつの疑問がぐるぐる巡っている。

 えーっと、なんの訓練だったっけこれ……?


 ここは病院敷設のリハビリセンター。

 俺は怪我人で、萩尾さんは臨時の補助員。


 うん、だとすれば明らかだ。これは怪我人が日常生活に戻るためのリハビリであって、それ以外の訓練じゃないことになるな。

 考えるまでもなく、他に含むところなどなにもない。あくまでリハビリの一環としての、歩行訓練であるはずだ。


 あるはずなのだけれど……。


「がんばれ♪ がんばれ♪」


 俺の眼前50センチ。

 相も変わらず笑顔で、音のしない拍手をしながら応援する萩尾さんがいる。


 ままならない足を騙し騙し、既に行路の四分の三は踏破した。

 けどもう、本当に余力がない。今すぐ倒れたい。萩尾さんがいなければ。


 そして、そんな俺へと追い打ちをかける応援方法に、俺はとうとう文句をつけることにした。


「あっ……あのさ、萩尾さん。ちょっといいかな?」

「うん? どしたの天音くん。あ、ひょっとしてギブ~?」


 何故だかちょっと嬉しそうに言う萩尾さんだけど、たしかめる余裕なんてない。今は慌てる時間だ。


「じゃなくて。さっきからずっと気になってたんだけど、その『がんばれ、がんばれ』っていう応援、やめない?」

「ええーどうしてさー?」

「なんだか、その……俺、まるで赤ちゃんみたいじゃない。ちょっと恥ずかしいっていうか……」


 嘘である。俺は思いっきり言葉を選んで不服を唱えた。


 問題の本質は、この『がんばれ、がんばれ』という二回ワンセットで応援するスタイルが、一部界隈では美少女が男の下世話な処理を進んで手伝う際に口にする文言だということだ。


 いや、こういうのって知らなければ知らないでなにも問題がないんだけど、幸か不幸か俺は既に知っていた。存じ上げてしまった。ゆえに脳に引っかかる。すわそっち方面の応援かと、脳がバグって誤認識してしまう。


 いいか天音卓己、このリハビリはお前の身体機能回復訓練であって、決して男性機能回復訓練などではない――提唱者には失礼ながらそう何度も頭の中で言い聞かせてきたものの、いかんせん疲れで色々とボロが出かかっていた。


 そんな男の懊悩を、きっと萩尾さんは知らない。

 不服そうな顔を隠そうともせずに、ぷくっと頬を膨らませて不満を示す。


「……天音くん、そんなに私に応援されるの嫌?」

「い、嫌っていうか、その方法がちょっとっていうか」

「でも、現にがんばってるじゃん。天音くん、すごくがんばってる」


 断定口調で言って、萩尾さんは真っ直ぐな瞳で俺を見た。


「ずっと見てたからわかるよ。今までずっとここに通って、やっと身体を動かせるようになったんだもんね。だから、あと少し。もう少しだけがんばろ? 自分の足で歩けるようになって、元気になって、ここから出ていこうよ」

「……萩尾さん……」


 俺の胸に熱いものが込み上げてきていた。


 そうだった。これまで萩尾さんは俺のことを毎日見舞ってくれた。俺の身体が徐々に回復してゆくのを、傍で見守ってくれていたんだ。

 応援しないで、なんて俺から言う権利なんてない。だって、これまでだってずっと、萩尾さんは俺のことを応援してくれていたんだから――。


「ごめんね萩尾さん。俺、萩尾さんに変なこと言った」

「ううん、こっちこそ。変な気分にさせちゃった」


 素直に頷いてくれる萩尾さんの期待に、どうにか応えたい。

 俺は呼吸を整える。ここから先は未踏峰。全集中だ!


「俺、がんばるよ! 絶対に最後まで歩ききって見せる! 萩尾さんに、約束する!!」


 心が燃えていた。不退転の決意が吐き出した言葉だった。

 だけど何故だろう――萩尾さんの表情が少しガッカリして見えるのは。


「えっと……本当に最後まで?」

「うん、もちろんだけど。どうしたの?」


 どうも様子がおかしい。俺も思わず懐疑的な口調になる。


「いやあの、さっきから天音くんを見てて思ったんだけどさ、ここまで歩いてすごく疲れたんじゃないかなあって。ほら、これまでの最高到達点とかもう越えてるし、足だって限界でしょ? もうちょっと歩くにしろ、なにも今日、最後まで無理してがんばり通さなくていいんじゃないかなあって、その……」


 歯切れ悪く、さっきまでとは逆のことを言う萩尾さん。

 うーん発言の意図が掴めないな。なら――わかってもらうしかない!


「疲れてることはたしかに疲れてるよ。けど俺、がんばりたいって思ったから。萩尾さんが応援してくれたお蔭だよ。だからどうか見ててほしいな。俺がちゃんと最後まで歩ききるところ、君に見ててほしい」


 萩尾さんを真っ直ぐに見つめ、誓いの言葉を告げる俺。

 そんな俺の発言を受けて――萩尾さんは一瞬だけ表情を曇らせた。


「……あー、とちった。私バカだ。天音くんならそう言うに決まってるじゃん」

「萩尾さん?」

「ああ、いや違うのこっちの話。それじゃあ天音くん、続きがんばろっか」

「うん!」


 勢いよく返事をし、俺は再び歩行訓練を始める。


 既に予想は付いていたことだけれど、最後の四分の一の行程は最初の四分の一の行程とまるで違った。


 限界がきている足に鞭を入れて、どうにか動かそうとするもままならない。真っ直ぐに地面に足を突いたつもりでも、膝から折れてしまいそうになる。その度に平行棒を掴んで姿勢を正し、再度挑戦することになる。


「……う、ぐ……」


 ポタポタと額から頬をを伝った汗が、床に落ちる。

 体力の限界は近い。というか、とっくに超えている。


 けれど歩き続けさえすれば、終わらない道のりなんてない。

 俺はゴールまであと数歩というところまできていた。


「あともう少しだよ、がんばって!!」


 萩尾さんも固唾を飲んで応援してくれている。

 その背後には、車椅子が回されてきている。


 あそこまで歩けば、俺は萩尾さんの応援に応えることができる。

 けれど――。


「……萩尾さん、ごめん。次の一歩で、俺もう本当に限界かもしれない」

「え? どういうこと?」

「さっきから、右足が震えていうことを効いてないんだ。立ってる状態から、いつ膝が折れたって不思議じゃない」

「あの……私補助しにいった方がいいかな?」


 そう言って近寄ろうとする萩尾さんを、俺は手を上げて制止した。


「待って! 最後までやらせて。俺、ここまで歩けたの初めてだし。萩尾さんの前で、ちゃんとゴールまで辿り着きたいんだ」

「……天音くん……」


 後ろ歩きで、俺から離れてゆく萩尾さん。

 その足が、車椅子のところで止まる。


「萩尾さん?」

「つらかったらごめん。だけど、ちょっとだけ待ってて。すぐに帰ってくるから!」


 その言葉の通り、萩尾さんは一分もしないうちに帰ってきた。

 両手で引きずってきたマットを、車椅子を横にズラして敷く。


「これでよし、と」


 再び平行棒の端に立ち、俺に向き直ると、その両腕を大きく広げた。

 そして――。


「――飛び込んできて。ここに」


 萩尾さんは、俺に笑顔を向けて言った。


「私、天音くんががんばってるの知ってる。つらいリハビリに耐えて、毎日歩く訓練をして、身体を回復させるために努力してきたのを知ってる。今日も、ここまで一生懸命歩いてきたのを知ってる。だから……最後に、私に見せて。一番の特等席で、君がゴールするところを、お願いだから私に見せて」


 そう語ってくれた萩尾さんの瞳は潤んでいて、思わず見惚れてしまう。


 恥ずかしかった。男なら、長男ならひとりで歩き通さなければならない。

 けれど俺にはもう、その力が残ってない。


 だから最後の最後で他人の力に頼ってしまう。

 あと少しのところで、萩尾さんの力を当てにしてしまう。


 けど……それがなんだっていうんだ。


 ひとりだったら死んでいた。

 もし萩尾さんがいなければ、俺はここで、こうしていることさえ叶わなかった。


 生きて、呼吸して、身体を動かすことすら二度とできなかったんだ。


 だから――俺は、覚悟を決めて言った。


「待ってて! 俺、必ず君のもとまで辿り着くから!」

「……うん、待ってる!」


 それから、これまで以上の時間をかけて歩ききった俺を、萩尾さんはやさしく抱き留めてくれた。


 マットの上に転がったあと、俺たち二人は、天に向かって笑っていた。

活動報告でもあとで通知しますが、最終話が伸びすぎたため8話完結になりそうです

申し訳ありませんがご了承くださいませ

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