第4話 月のキレイな夜だから
――絶句、まさにそれだった。
俺の発言を受けた萩尾さんは信じられないといった感じで固まり、さっきから微動だにしていない。それほど俺の言ったことがショックだったんだろう。
やや待つと、萩尾さんは表情を変えずぽつりと呟いた。
「ウソよ、ウソ……だって天音くん、これまで私の自殺を止めようとしてたじゃない……?」
唖然とする萩尾さんに、俺は首を振って答えた。
「してないよ。ねえ萩尾さん、少し思い返してみて。俺は一度だって君に自殺を思い留まるよう言ってないと思うから」
「でも天音くん、私のこと救うって……」
ああ、そうは言ったかな。
どうやらこの言い方も、かなり誤解を招いてしまったらしい。
「君を救いたい、それは本当だよ」
「……だったら!」
「でも自殺を止めろとは言ってない。信用してとは頼んだけどね」
「――――!!」
萩尾さんの真摯な視線が俺を射抜く。
それは証拠だ。心理的距離がなくなったことの。なによりの。
だから俺は動き出せる。前に進める。
月光の下、俺は痛む足を引きずって一歩踏み出した。忘れていた激痛が稲妻のように体内を走り、俺を萎えさせようとする。けどそんなの些細な問題だ。だって俺は、萩尾さんを救うためにここまでやってきたんだから。
半分まで距離を詰めたところで、ハッと萩尾さんが事態に気づいた。
「こっ、こないで!!」
慌てて制止をかけるけど、もう遅い。
心の距離は、物理的な距離なんかより、もうずっと近いんだ。
「悪いけどできないよ。だってこのままじゃ萩尾さんは救われない」
「飛ぶから! それ以上近づいたら、私ここから飛ぶからね!」
「――飛んだらいいっ!!」
俺の叫びに、ビクっと身体を震わせる萩尾さんが見えた。
そう、飛んだらいい。終わらせたらいい。こんな苦しみなんて。
でも今、そこからは飛んじゃいけない――。
叫びに呼応したように、全身が痛み出す。
けど俺は最後の力を振り絞って、歯を食いしばって、萩尾さんに笑顔を向けた。
「飛んだらいいよ。だって俺も知ってる。死ぬことでしか消えない絶望があるってこと。心が強ければ、裏切りの痛みだって我慢できる。けど裏切られ続けたらいずれ無理になる。どんな心の持ち主も砕けてしまう」
――失恋したって、前を向ける人間だった。
けど想い人を失って、奪われ続けて、やがて無理になった。
長男なのに、無理になってしまった。
俺は、だから投身自殺したんだ。
「萩尾さんの言う通りだよ。俺にはそれがわかる。だから止めない。止める気もない。けどこのままじゃ萩尾さんは救われない。だから、そっちに行かせてほしい。俺に、君のことを救わせてほしい」
一歩、一歩、激痛に耐えながら歩く俺の姿がどう映ったのか。
惑う素振りを見せた萩尾さんは、決心したように告げた。
「……本当に、私のこと止めたりしない?」
「誓うよ。それとも、まだ信用できないかな?」
「ううん、わかった」
萩尾さんに見守られながら、俺は金網フェンスまで歩んだ。
遅々として進まぬ歩みを、萩尾さんは静かに見守ってくれた。だから俺もがんばることができた。
砕けた右腕は使えない。左腕一本と、あとは怪しい両足の力のみを使って、ギシギシと揺れる金網フェンスをどうにか乗り越える。
萩尾さんの手を借り、外側に降りると、半ば力尽きたように金網フェンスに背中をもたれさせた。
心配そうにこちらを見つめる萩尾さんに、俺は微笑して告げる。
「アハハ、やっとこっちにこれたね?」
「……天音くん……」
「そんな顔で見ないでよ。もうすぐ全部終わるんだから」
そう、もうすぐ終わる。
俺に残っている時間も、そう多くない。
「萩尾さん、ちょっとついてきてもらえるかな?」
おずおずと俺の側に近づいてくる萩尾さんを案内するように、俺は屋上の縁へと寄った。
下方を見下ろしつつ、その場にしゃがむ。夜半の冷たく清涼な空気が、吹き上がる風を送ってくる。
「……ライト」
「え?」
「スマホのライト機能使ってもらえる? 上着のポケットの中に俺のも入ってるから、それも一緒に」
「わ、わかった!!」
俺の分も併せて、ライトを灯したスマホを両手持ちした萩尾さんが、同じく俺の隣にしゃがんで下方に注目する。
薄く小さな筐体から発せられる二つの光。集中したそれは距離による減衰をものともせず、地表の一部を闇の世界から白く浮かび上がらせる。
「萩尾さん、もう少し右で」
「うん」
「ストップ。今度は手前側に戻して……」
俺の指示に従い、スマホを操作する萩尾さん。
やがて該当箇所に光が辿り着いたとき、萩尾さんが息を飲む音が聞こえた。
「あそこ、砕けて……」
「そう、あそこが俺が落ちた場所だ。俺はちょうどこの場所から飛んで、あそこに叩きつけられた」
「そっ、そんなはずないっ!! だってここからあそこまで、かなりの距離があるよ! ここから飛んだら、真下にあるコンクリートに叩きつけられるはず……」
もっともな疑問に答えるため、俺は萩尾さんに頷きを返す。
「俺もそう思ってた。この真下には障害物がない。飛べば確実に死ねる。そう判断して、決意してここから飛んだんだ。でもそれは違ってた。ここはね萩尾さん、夜半をすぎると、校舎と地表の間に複雑な風が吹く。俺は風に流され、落ちてる最中に一度校舎に叩きつけられて、それから花壇に落下した」
夜空の下でもわかるほど顔色を青くした萩尾さんに、指で校舎の位置を示す。
スマホのライトが後を追い、痕跡を如実に浮かび上がらせる。
「本当だ……窓ガラスにヒビが入ってる……」
蜘蛛の巣状に割れた窓ガラスを見て、言葉を失う萩尾さん。
そのリアクションを受けて、俺も説明へと戻った。
「俺の身体はあそこでバウンドし、当初の目測から逸れて花壇に落ちた。花壇の一部を壊しつつも、柔らかな土がクッションになって死にきれなかったんだ」
「まさか……ここから飛んだら私もそうなってたってこと……?」
ゾッとしたような声を出す萩尾さんに、俺は深い頷きで応えた。
「その可能性は高いと思う。だから信じて欲しかった。ここから飛んでも上手く死にきれないことを。苦しみが続いてしまうことを……」
言いつつ、頭がぼうっとしてくるのを感じる。
血を流しすぎたのか。それとも時が近いのか。両方か――。
気づくと、萩尾さんが驚いた表情で俺のことを見ていた。
「ひょっとして天音くん、それを私に伝えるためだけにわざわざここまで来てくれたの……?」
ああ、なんだ? そんなこと。
言わずとも気づいてると思っていた。だって俺たちは同類なんだから。
「俺には君の苦しみがわかるよ、萩尾さん。今ならこんなセリフを言っても信じてくれると思う。だからこのことも君ならきっとわかってくれると思うんだけど、これまでだってつらくて死にそうだったのに、死ぬときまでつらいなんてシンドイじゃない。そういうの、萩尾さんには味わってほしくなかったから」
「――天音、くん――私ね――」
ああ。なにか、続けて言ったのだろうか。
耳までバカになったのか、よく聞こえなくなってきた。
「俺、最初は死ねると思ったんだ。意識を失って、うたた寝のような微睡みの中に沈んでた。でもあまりの苦しみに目を覚ました。身体中が痛くて、転げ回って、また気絶して。もう一度目覚めたとき、屋上に君の姿が見えた。だから伝えなきゃって思った。痛い思いをさせたくなかった」
感覚が遠のく足を動かし、片膝を立てる。
無理矢理立つと、心配そうな表情をした萩尾さんの顔がある。
――ああ、どうかそんな顔をしないでほしい。
俺はどうにか笑顔をかたち作って、彼女に笑みを投げかける。
「あのね天音くん、私……」
「そんな顔しないでよ。俺はきっともうすぐ死ぬけど、確実に死ねるポイントなら予想ついてるからさ。ほら、あそこの給水タンクの下から飛べば、たぶん苦しまずに死ねるはずだよ。萩尾さんはあそこを使ってほしいな」
「あり、がとう……けど、そうじゃなくて――!!」
萩尾さんがなにか言おうとした、そのタイミングだった。
上空を吹き渡る風が強まり、月を隠した雲を取り払う。
闇の底から、月の光が俺と萩尾さんを照らし出す。
……俺らしくないことを言ってしまったのは、きっと失血と気の迷いのせい。
「ねえ萩尾さん、俺はもう死ぬけど、萩尾さんは死ぬの明日にしない?」
ストレートの艶やかな長髪が春の風に揺れ、端正なその顔に戸惑いが兆す。
一拍置いて、胸の前できゅっと両手を握った萩尾さんが告げる。
「……どうして?」
月の光は強く、萩尾さんの桜の花びらのような唇の動きもつぶさに捉えられる。
あとから思えば、次のセリフはこっ恥ずかしいにもほどがあった。
「どうしてって、だって萩尾さん、すごいかわいい女の子だし」
「――――!!」
宙を見上げ、見事な満月を目に入れながら俺は続けて――。
「それに、今日はとても月がキレイな日だから。こんな夜だって知ってたら、きっと俺は死ぬのをやめてた。もっと闇の濃い日へ後回しにしてたよ」
しみじみと言いつつ、思い浮かぶは国民的アニメの名シーンだ。
任務を受け、那●蜘蛛山に辿り着いた某女性柱が、これまた別の某男性柱にそう話しかけるこのシーンは、たしかSNSなどでファンの憶測を呼んでいた。
なんでも月がキレイという表現はなにかの隠語らしく、界隈はこの一言で非常な大盛り上がりを見せていたそうだ。
だが俺は長男キャラが推しゆえに、その辺りにはまったくもって詳しくない。うーん、たしかなんて意味だったか……。
まあいいや。それ以外にも、俺と萩尾さんの同日自殺を回避すべき理由ならちゃんと存在するわけだし。
できることなら萩尾さんは、俺と同じ日に死んじゃいけないんだ。
……さて、辞世の句(?)も読んだし、俺も自分の苦しみに幕引きをすることにしようか。
「それじゃあ萩尾さん、俺はそろそろ逝くね。実はがんばって元気ぶってるけど、割と限界だったりするんだ。今の俺ならここから飛んでも必ず死ぬから、ここを使わせてもらうね?」
最後の笑みを浮かべ、許可を取ろうとしたその瞬間だった――。
不意に俺の視界が歪み、足元が覚束なくなった。
瞼が岩のように重い。目の前の光景が、上から黒く塗りたくられる。
意識が、電源を切ったように突如として消失する。
――ダメだ、ちゃんと死ななきゃ。
義務感に駆られて、残った力で横合いに向かって飛んだ記憶を境に、俺の意識は完全に消失したのだった。
 




