第3話 つらい過去を語ろう!
ひまりを失った俺は、それまで疎遠だった図書室に通い始めた。失恋の痛手を、形而上的な思索で回復しようと思ったためだ。
昼休みになると図書室に赴き、放課後になると図書室に赴く。ともかく本を読み漁る。中でも特に難解な本、哲学書の類を浴びるように読み、先人の古き教えに学び、運命の失恋からの脱出方法を探ろうと躍起になっていた。
ただひたすらに本を読む日々。だけどそんな変わり映えのしない日常の中から、見えてくるものもある。
それは、図書室で形成される本好きのコミュニティ。俺と違って、生まれながらに本好きの人たちと、いつしか交流を持つようになっていた。
そんなある日のこと。俺は運命の出会いを果たすことになる――。
「あのぅ、いつもその席で本を読んでますよね? 本のこと、お好きなんですか?」
「ええっと、君は?」
「あ、すみません。いきなり話しかけちゃって。私、いつもは向こうの本棚の近くで本を読んでるんです。名前は――」
おとなしい雰囲気を纏った少女は、吉住るかと名乗った。
本好きが高じて図書委員に立候補した、筋金入りの文学少女だ。
親しくなった俺たちは、互いについて話すような間柄になった。
「そうですか。天音くんは、失恋されて本を読まれるようになったんですね」
「うん、実はそうだったんだ。好きな子を失ってから心が痛くて……本になら、この痛みから抜け出すヒントが書いてあるんじゃないかなと思って」
心の傷はまだ癒えてない。失恋のことを語るには少し勇気が要った。
けど吉住さんは、そんな俺に優しい眼差しを向けてくれたんだ。
「それで、答えは見つかりましたか?」
「いや……けど心は少し楽になってきたよ。ひょっとしたら吉住さん、君がいてくれたからなのかも」
「えっ? 私がですか?」
「だって吉住さん、いつも親身になって俺の話を聞いてくれるじゃない。お蔭で俺、ここにくるのが毎日の楽しみになったんだ」
「そっ、そう言っていただけて、私もうれしいですっ!!」
その日を境に、俺たちは放課後一緒に帰宅するようになった。
帰り道、いろんなことを話した。吉住さんは自分が好きな本について饒舌に語ってくれた。ツルゲーネフの『はつ恋』、ドストエフスキーの『白夜』、ヘッセの『春の嵐』――俺の知らない古典文学作品が吉住さんの好みらしかった。
書物の中の空想と創造の世界に思いを馳せ、話をしている時間はとても楽しかった。けどそれは違ってた。吉住さんと一緒にいるから、俺は楽しかったんだ。そのことに気づいたとき、想いはもう止められないほど膨らんでいた。
そうして出会ってからしばらく経った帰り道、俺は吉住さんに訊いたんだ。
「ねえ吉住さん、君は俺といて楽しいと思う?」
「どうして? すごく楽しいです。本についてこんなに語り合える男の人って、天音くんが初めてでしたから」
「そう……嬉しいな。じゃあさ吉住さん、もうひとつ訊いてもいいかな?」
うん? と小首を傾げる吉住さんに、俺は思い切って――。
「ごめん、俺ずっと前から君に嘘を吐いてた。こうやって本について語り合う時間が俺も好きなんだと思ってた。でも違ったんだ……俺、君と一緒にいられるからこの時間が好きだったんだ!」
止まらない俺の想いに、一歩引きさがる吉住さん。
「ごめんなさい、私、天音くんがなにを言いたいのかわからなくて……」
「君のことが好きなんだ! どうか、俺と付き合ってくれないか!」
真正面から見つめる俺の前で、吉住さんはぽろぽろと涙を流し始めた。
「うれしい……私もずっと、そう思ってた……」
「じゃ、じゃあ!!」
バッと近づく俺に、吉住さんは手で涙を拭って告げた。
「もちろん、いいです。ねえ天音くん、私のこと、大事にしてね?」
固く手を繋ぎ合う二人。
この絆は永遠なのだと思った。
そんなわけで翌日、吉住さんは俺と違う男と一緒に下校したのだった――。
「ちょっと待って! 待って待って待って待って待って!!」
なんだろう、またしてもノリノリでカコバナしてるときに横槍が入ったぞ?
早口になった萩尾さんは、息も絶え絶えに訊いてきた。
「い、今のおかしいでしょ? 天音くん、その吉住って女の人に告白して上手くいったんだよね? なのになんで次の日に別の男と帰宅してるわけ?」
それは実にもっともな疑問だけど、少々答えにくくもあった。
なので、当たり障りのない答えで対応することにしよう。
「えーっと、それはNTRされたからじゃない?」
「NTRって……だってその吉住って子、本好きの図書委員なんだよね?」
「うん」
「おしとやかで、おとなしそうで、ひまりさんみたいな派手めな美人なんかじゃないんだよね?」
「それはそうだけど」
「NTRれる要素なんてどこにもないでしょ! それ!」
と、グイグイくる萩尾さんだが、その辺の事情は俺も踏まえていた。
「ああ、いや、違うんだよ萩尾さん、これにはややこしい経緯があるんだ」
「経緯? どんな経緯があればそんな外道なマネができるというの……?」
なんだか怖い感じの雰囲気を纏った萩尾さんだが、ちゃんと順を追って説明した方がよさそうだ。
「吉住さんはね……無類の『曇らせ』好きだったんだ」
「『曇らせ』? どういうこと?」
つまりね、と俺はまだ動く左手人差し指を立てて、用語の説明に入る。
「『曇らせ』っていうのは、これも一部界隈で有名なんだけど、好きな人が苦しんだり悲しんだりしてる様に興奮する一種の性癖なんだ。ほら、小さな男の子とかよくやるじゃない。好きな女の子につい意地悪しちゃうってヤツ。ちょうどあれの強化版みたいな感じかな?」
「……な、なにその救いがたい性癖は」
既にドン引きした様子の萩尾さんだが、まだ説明は途中だ。
俺は再び過去に思いを馳せ、起きた事実を顧みる。
「実はね、吉住さんが曇らせ好きだって知ったのは、彼女が他の男と帰宅した翌日なんだ。ちょうど二人で連絡用に使ってたLI●Eに、吉住さんとその男がキスしてる写真が届いたんだよね。ショックだった。心が根元からへし折れるかと思った。でも本当に地獄だったのは、どうしてそんなことをしたのか吉住さんを詰問しようとしたそのときだったんだ……」
さすがに胸を痛ませつつ、俺は当時を振り返る。
校舎裏に吉住さんを呼び出した俺は、涙ながらに訴えた。
「ねえ吉住さん! どうしてこんなことしたのさ!」
「……こんなことって?」
「とぼけないでよ! この写真、君が送ってきたんじゃないか!」
俺はスマホごと証拠の写真を吉住さんに突きつけた。
少しは悪びれてくれると思った。でも吉住さんは、妖艶な笑顔を浮かべたんだ。
「ああそれ、よく撮れてるでしょう?」
「えっ? なに言ってるのさ? 君、なんのためにこんなことを……?」
泣きながら訊ねる俺の涙を指先で拭って、吉住さんは心からしあわせそうにこう言ったんだ。
「その顔、その目が見たかったんです。だって天音くん、今あなたが傷ついて、胸も張り裂けんばかりに悲しんでるのは、私を愛してくれているからですよね? 他の男の人に私を取られて、悔しくて仕方がないからですよね? でも天音くん、きっとその痛みこそが愛なんです。だから、私は君の彼女ですけど、これからも他の男の人と付き合うつもりでいます。誘われたら、素直についていきます。だってその傷ついてる顔をもっとずっと見ていたいんだもの……うふふ、今の天音くん、最高にかわいい……」
耳元でそう囁いて、くず折れる俺を置いて優雅に去っていった吉住さんの後ろ姿は、未だに瞼の裏に焼きついている。
……思えば、兆しは既にあったんだ。
あとで調べたところによると、吉住さんが好きだと言ったツルゲーネフの『はつ恋』も、ドストエフスキーの『白夜』も、ヘッセの『春の嵐』も、全部が全部主人公が意中の女の人を取られて曇る話だった。おそらく、吉住さんはそんな主人公たちの曇ってる姿を見て興奮していたんだろう。
俺が悲惨な過去話を終えたとき、萩尾さんがボソッと呟いた。
「く、クソ女……はっ!?」
とそこで、萩尾さんは慌てて口を両手で抑えた。
「ごっ、ごめんなさい! 別れたとはいえ、元カノさんのこと口汚く罵っちゃって!」
申し訳なさそうな萩尾さんに、俺は首を振って答える。
「いいよ、実際、褒められた性格の人じゃなかったと思うし。それに、そういう人だと見抜けず告白した俺にも責任があるんじゃないかな」
「そんな……そんなことないよ、絶対……」
しゅん、と俺と一緒に凹んでくれる萩尾さん。
心の距離は随分と縮まったかもしれない。今なら――。
俺は気を取り直し、再び前を向くことにした。
「どうかな? これで俺のことさっきより信用してくれた?」
すると萩尾さんは、こっくりと深い頷きを返してくれた。やった!
「も、もちろんだよ! 天音くん、つらい目にあったね! 死んじゃいたいって思うのも無理なんてないよ! 私なんかより、きっとずっとつらい……」
後ろめたいのか、下方に視線を外す萩尾さんだった。
でも俺としては、萩尾さんには前を向いてほしい。それが願いだ。
だって、俺の話はまだ終わってなんていないんだから――!
「いやあ、ありがとう萩尾さん。これで俺も、心おきなく次の話にいけるよ。次はね、年上のお姉さんのお話なんだ。これは俺が雨の日に、道端で三角座りして凹んでたときのことなんだけど――」
その日は季節外れの大雨が降っていた。ひまりに吉住さん、好きだった女の子を相次いで失った俺は前後不覚だった。普通に歩くだけで足が縺れて、転んでしまう。電信柱に手を添え、自販機を支えとし、ガードレールなどを伝ってどうにか歩いていたけれど、限界がきた。
道端に倒れた俺は、動けなくなった。大の字に寝転がり、空から落ちてくる雨を全身で受けていた。このままじゃマズいと思って、三角座りの体勢に移行したところで固まった。
ああ、ひょっとしてこのまま石像にでもなってしまうのか。すわ新たな町おこしオブジェの完成か――湯だった脳がそんな益体もないことを考え始めたとき、ふと降りしきる雨が止んだ気がした。
だけど不思議なことに音はする。見上げると、そこには赤い傘をこっちに差し出した、大学生と思しきキレイなお姉さんの姿があったんだ。
「どうしたんだい少年、立てるかい?」
「ごめんなさい、大丈夫です。俺、すぐに立ちますから――うわっと!?」
「ほら言わんこっちゃない。お姉さんの肩に掴まって」
「あ、ありがとうございます」
お姉さんは自宅のアパートに俺を案内し、親切にもシャワーまで貸してくれた。
湯上がりで身体の暖まった俺は、お姉さんからホットコーヒーをご馳走になる。
マグカップを両手で包んで暖を取りながら、俺は話し始めた。
「お姉さん、神は死んだって言葉、知ってますか」
「ニーチェだね。知ってるよ。私は哲学専攻だからね」
「俺、神様はいるって思ってました。空から見守ってくれてると。でも最近思い直したんです。ひょっとして神様なんていないんじゃないかって」
このとき、すすっと音がして、お姉さんが三角座りする俺に密着してきた。
「お、お姉さん!?」
「話、続けて。少年はどうして神様がいないって思ったのかな?」
心が弱っていた俺は、気づくと見知らぬお姉さんに自分を見舞った不幸について、洗いざらい打ち明けていた。
同情してくれたのか、お姉さんはそんな俺の掌にそっと触れて、こんなことを言ってくれたんだ。
「そうか、少年もつらかったね。ひとりぼっち……私と一緒だね」
「え? お姉さんも?」
「人の本質は、きっと孤独にある。でも素晴らしいのは、それを他人と共有できることだ。ねえ少年、君は私の孤独を癒してくれるかな?」
優しく俺に微笑むお姉さんに、俺は完全に見惚れてしまっていた。
この契約関係が、のちにあんな悲劇に繋がるなんて、夢にも思わなかった――。
「あのー、ちょっと聞いていい?」
はいっ、とばかりに右手を挙手して萩尾さんの質問タイムだ。
「天音くんを襲ったその悲劇って、パターン的にやっぱアレなの?」
「うん、NTRだねえ。あ、萩尾さん、経緯とか気になる~?」
先二例に負けず劣らず、お姉さんとの破局もつらかった。なにせ何度目かに訪ねていったら、アパートの中に服を着てない元カレとお姉さんがいたわけだし。
だがそんな俺のコソコソNTR話が日の目を見ることはなかった。
ブルンブルンと音を立てるくらい首を振って、萩尾さんが全否定したからだ。
「まったく気にならないです詳細不希望っ! むしろ絶対に言わないでっ!!」
「うーん、そこまで念押しされたら仕方ないね。じゃあ次の話だけど――」
とそこで、恐ろしきものを見る目で萩尾さんが俺を見てるのに気づく。
「……あのね天音くん、すっごい怖くて訊けなかったんだけど、そのお話ってまだまだ続くの?」
「え? 続くよ?」
「それって、あとどのくらい?」
訊かれて初めて思う。
ああ、そういえばちゃんと数えたことなかったっけ。
1,2,3……右手が完全に死んでるせいで、月明かりの下で指折り数えるのはそのもの骨が折れたけど、だいたいのところは出た。
「今まで話したのは中学時代の分だし、まだたくさんあるね」
「そこ、なるべく具体的に」
「俺のNTRは一〇八式……にちょっと届かないくらい?」
「せまるのっ!? せまっちゃうんだっ!?」
驚愕の声を発した萩尾さんは、うーんと考える素振りを見せた。
迷いながら、それでも言わなきゃと思ったのか、おずおずと切り出す。
「……天音くん、そんないっぱいひどい失恋してさ、本当につらかったよね」
「そりゃあまあ。だけどホラ、俺って長男だからさ! ちょっとやそっとのつらさくらいなら我慢できるし! 負けないし! 挫けないし!」
なんだか別のが混ざってしまった感があるが、まあよし。
俺はスパッと気持ちを切り替えた。
反して、萩尾さんの雰囲気が深刻さを増す。
「あの……」と一拍おいて、話し始める。
「さっきまでの話、信じてないわけじゃないんだ。だって天音くん大怪我してるし。投身自殺しようとしたのも本当だったって、今はそう思ってる」
「そっか、良かった!」
俺は心が通じた嬉しさに、つい晴れやかな笑顔を浮かべた。
だが萩尾さんは何故か腑に落ちない表情だ。月光を反射する瞳で、俺を見る。
「でもね、よくわからないんだ。私ね、人を好きになるのってすごくパワーを使うことだと思ってる。直感したもの。先生を好きになったとき、これは運命で、命がけの恋なんだって。だから彼に切り捨てられたとき、もう死ぬしかないって思った。屋上に来て、ここから飛び降りて、全部終わりにするしかないって、そう思ったの」
萩尾さんは振り返り、フェンスの向こう側から、地表の様子を窺う。
下方からの風に靡く髪を手で撫でつけ、もう一度俺をまっすぐに直視した。
ここに来て初めて、俺たちは真正面から見つめ合った。
「――ねえ、天音くん。君も同じなんだよね?」
萩尾さんの一言は、きっと答えを期待したものじゃない。
自分の同類へと向けられた、共感に似た同情。
「失恋して、それでも前を向ける人もいる。でも、そうじゃない人も絶対に存在する。私、自分がそうなんだって知ってる。あの人なしの人生なんて考えられない。だから死ぬ。天音くんもそうだったんでしょう? 好きになった人に何度も裏切られて、苦しくて、だからここから飛んだんだよね?」
そうだ。それは萩尾さんの言う通り。
俺は胸を苛む苦しみから解放されたくて、この場所から飛んだ――。
強い光を宿した萩尾さんの瞳が、佇む俺に訴えかける。
「だったらきっと、わかるはず。私の心を蝕む絶望は、死ぬことでしか消えてくれない。だからお願い、私を逝かせて。もし私を少しでも不憫に思ってくれるなら、このままなにも言わずにそこから見ていて。もう、止めたりしないで……」
そう言った萩尾さんの頬を、二筋の涙が伝う。
美しい宝石のような涙は胸を打つ。思わず酔わされそうになる。
けれど誤解は誤解なので、俺はちゃんと解いておくことにした。
「わかった、俺は君の自殺を止めたりしない」
「そう……ありがとう……」
涙目で、不器用に微苦笑する萩尾さんに、俺は続けて――。
「てか、最初から止めてなんていないし」
「……はへっ?」
そんな素っ頓狂な声が、俺たちの間に響いた。




