第1話 もし夜の学校の屋上に人影を見かけたら
うたた寝をしてたら、いつの間にか遅い時間になっていた。
夜闇と化した高校の校庭。ひとり、そこを歩く俺がそれを見つけたのは、きっと偶然なんかじゃなかった。
ふと見上げた視界に映るは人影。闇の中、一際濃い影を投げかける校舎の屋上のフェンスの外側に立ち、孤独に佇んでいる。
迷いか、恐怖か、あるいはその両方か。
風に吹かれる草のように頼りなげな人影はまだ、幸運にも決定的な事態を起こしてはいない。
さりとて、この先起こさない保障も存在しない。
人影の内側に巣くっている消えない絶望が、彼か彼女をそこに連れてきているはずだった。
――でも、今ならきっとまだ間に合う。
俺は踵を返すと、呼吸を整えて校舎へを足を踏み入れた。
◇◇◇
……何故だろう、一階から屋上まで急いだだけだというのに、早くも息が上がって身体も悲鳴を上げているのは。
それはきっと心理的な作用も関係しているのだと思う。だって、これから俺は救わなければならないのだ。絶望に心を蝕まれ、死を覚悟した人物を。
勇気、それが必要だった。
俺が心を奮い立たせて説得しなければ、金網フェンスの向こう側にいる人影は、きっとあっさり境界線を飛び越えてしまうことだろう。
とんでもない重責が俺の双肩にかかり、寒さと相まって身体が震える。
そんな俺の脳裏に思い浮かぶのはもちろん、国民的大ヒットアニメの長男キャラの顔だ。
長男は言う――人は心が原動力だから、心はどこまでも強くなれると。
この難事に際し、俺も心を強く持つ必要があった。
だから、俺は脳内長男に問いかける。
本当に俺でも強くなれますか? 長男は秒で答えた。もちろんだよ、だって君だって長男じゃないか。
そうだった。外見は頼りなく見える俺だって、一応は長男だった。
次男では耐えられないことにだって耐えられる。だから――。
「――救わなきゃ」
覚悟の一声とともに、俺はあまりにも手ごたえのある扉を開いた。
◇◇◇
びゅおお、と気圧差による風が、耳元を掠めた。
階下で想像した通りの光景がそこにある。
金網フェンスの向こう側、そこに人影が立っている。空を流れる雲が月や星々を覆い隠し、光が少ないせいで性別は判断がつかない。
でも、ともかく人がそこに立っている。
そして、本来なら禁止されているそこに立つことの意味は、たったひとつだけ。
人影は、この世界に絶望している。もう完全に終わらせたがっている。その先にある境界線を飛び越えて、心の内側にある絶望から解放されたがっている。
でもダメだ。
今そんなことをしちゃいけない。
俺は深く息を吸い、吐く。
焦燥感を拭い去るため、脳内長男と呼吸を揃えて――。
「――全●中、水の呼吸」
俺は人影を刺激しないよう、足音を殺して近寄ろうとした。
しかし死に際して敏感になった感覚が、それを捉える。
「……こないで」
たった一言の諫言が、距離を詰めようとする俺の足を止めた。
その場で立ち往生する俺に、少女の声は自嘲的に続ける。
「ドラマで、よくあるよね。今にも飛び降りそうな人に、やめろって声かけるやつ。私、あんなのずっとお話の都合だって思ってた。だってそうでしょ? 飛び降りなんていつだってできるし、すぐに終わる。それなのに、助けが間に合っちゃうなんておかしい。声をかけられた瞬間に、きっと弾みで飛び降りちゃうって、そう思ってた」
でもね、と少女の声はさらに自嘲の声音を強くして。
「いざ自分がやる段になって、そんなことないって思い直したよ。だって怖いよ。自分がこの世界から消えちゃうなんて。自分が自分じゃなくなっちゃうなんて――こんな気持ち、きっと君にはわからないだろうけど」
いいや、わかるよ――咄嗟にそう言おうとして、ギリギリで留まる。
それは実に教科書的な判断だ。今にも自殺しようとしている人を、安易に刺激しちゃいけない。どこにその人の地雷が潜んでいるかわからないからだ。
たとえ、否定ではなく肯定の言葉であっても、相手の心に波風を立ててしまうことだってある。
だから俺は第三の選択肢――『逸らす』を使った。
「ごめん、こんなとこ見ちゃって。帰ろうとしたら、たまたま目に入ったんだ。それで……」
そんな困惑の言葉に、少女は振り返ってふふっと鼻笑いをした。
顔や表情は暗くてよく見えないが、機嫌を損ねずに済んだらしい。
「いいよ、だって誰だってそうすると思うもの。人の命って重いよね」
「……そう、だね……」
「死のうとしてる女をみすみす見送ったら、君も良心が咎めるよね。どうしてあのとき止めに入らなかったんだろう、もしあのとき自分が止めてたら、命が助かったのかもしれないのにって」
けれどね、と少女は声のトーンを変えた。
「そういう安っぽいヒューマニズムが一番迷惑なの、わかんないかなぁ? 私がここにいる時点で、フェンスを乗り越えた時点で、もう誰にも止めて欲しくなんてないの。誰だかわからない人の、三文小説や昼ドラから引っ張ってきたような言葉なんかじゃ、もう心は震えない。だって私は、死ぬって心に決めてここにきたんだから。だから君も、もう諦めて。ここからいなくなってよ……さぁ早くっ!!」
夜闇に放たれた、まるで恫喝のような言葉。
その重みは俺の腹の中心を抉った。生の、本物の悲鳴に聞こえたからだ。
左右の肋骨と心臓の辺りまで引き絞られたみたいに痛むのは、きっと少女の心の痛みが伝わったせいなんだろう。
わかったような口ぶりなんてもうできない。もしそんな素振りを見せれば、少女はきっとすぐに屋上から飛び降りてしまう。
それでも……制止しなければ!
「申し訳ないけど、それはできないよ。だって俺、君の味方になりたいんだ」
「味方? 呆れた。それもドラマみたいな臭いセリフだよね?」
「ごめん、これだけしか抽斗がなくて」
「……謝るくらいなら、今すぐここから消えてよ」
そう言った少女の眼が、俺を射竦める。
夜闇に刃物のように蒼く光る瞳。とんでもないプレッシャーが、俺の全身を襲う。
それでも、ぶっきら棒な少女の言葉を実行することなんてできない。
覚悟を新たに、俺は次の手順へと移行することにした。
「なあ、聞いてくれないか。俺の名前、天音卓己って言うんだ。所属は2年3組で、出席番号は2番。部活動はなにもやってなくて、帰宅部」
「は、はあ? なにいきなり自己紹介を始めてるの……?」
唐突の自己紹介に困惑する少女だったが、その答えなら今しがたの自分の言に含まれている。
「だって君が誰だかわからない人の言葉じゃ心が震えないっていうから……さあ、これで俺は名乗ったよ。もし嘘だと思うなら学生証だって見せる。だから今度は、君の名前を教えてくれないかな?」
「そ、そんなの! ……教えるわけないじゃない! 私、今から死ぬ女よ? 今さら誰かに名前を教えたって、そんなことに意味なんてない! 君の好きな風に呼んだらいいじゃない!」
もちろん、胸に手を当て、声を荒らげる少女の悲痛な訴えを無碍になんてできようはずもない……。
なので俺は次善の策で対応することにした。
「じゃあ、君の名前は名無しの権兵子さんだ」
「へ? 名無しの……なにって……?」
おっと、どうも風が吹いたせいでよく聞こえてないみたいだぞ。
今度こそちゃんと伝えないと――俺は声を大にして言った。
「だから、名無しの権兵子さん。とりあえず、君の名前はこれでいこうと思う。実に偽名って感じでわかりやすいしね。ところで権兵子さん、話の続きなんだけど……」
と、俺がなおも話そうとしたところで、妨害を受ける。
「待って! ちょっと待って待ってよ! な、名無しの権兵子さんって、いくらなんでも女の子につけるネーミングセンスとして狂ってるでしょ!」
「え? そうかな? とっても素敵な名前だと思うけど……クラスじゃゴンちゃんって呼ばれて、男女問わず人気があったりしそうだし」
「ご、ゴンちゃんって、私一応女の子だよ!? タンスに納まってるアレなんかとは違うんだよ!?」
「あ、権兵子さん今の上手い~。タンスのアレと自分の名前をかけたギャグだよね? これにはクラスメイトも一同大爆笑!」
「しっ、しなくていいっ!!」
……思いのほか大きな拒絶を受けてしまった。
何故だろう、素敵だと思うんだけどな名無しの権兵子さん。だってこの名前、たぶん昼食にうどん人の主食を食べるだけで最強に周囲の笑いを誘うだろうし。メチャクチャに美味しい……いやむしろ、採用しない手はない名前だと思うんだけど。
などと、顎に手を当て思わず俺が悩んでしまいかけたところで、権兵子さん――もとい、少女がぶすっとして口を開いた。
「……もとか」
「へ?」
「だから私の名前、萩尾もとか。クラスは2年7組で、出席番号は28番」
「7組ってことは国立狙いだね。すごいな、頭良いんだ。部活動は?」
「い、言わない……」
勢いで訊いてしまったが、案の定そこまでは教えてくれなかったみたいだ。
でも、プライベートな情報を安売りしないのは、女の子として正しいと思う。
「ねえ萩尾さん、ひとつ質問していいかな? 君、どうしてそんなところにいるの?」
「そんなところにって……バカな質問! そんなの最初から決まってるでしょ!!」
ああ、それは萩尾さんの言う通り。
俺は、彼女の口から確認するまでもないことを質問していた。
答えなんて――最初からたったひとつだけ。
「死にたいくらいにつらいことがあった。こんなにつらいならもう生きていられないと思った。だから投身自殺するために萩尾さんは今そこにいる。そうでしょ?」
「そうよ……わかっているなら、最初から訊かないでよ……」
消沈したような声になったのは、ひょっとしたら俺の口から改めて自分のしようとしていることを聞いて、その罪深さを自覚したからかもしれない。
……けれどそんなの、今さらすぎる。
だってそれは、死に向かう人なら誰だって自分に問いかける類の質問だから。
自殺は悪。けれど、彼らが心に巣食う絶望から救われるためには、自殺という最終手段を取るしかない。彼らには、もうそれだけしか手が残されていないんだ。
「……お願いだから、もうほっといてくれないかな。私、天音くんの知り合いでもなんでもない。顔も知らないし、たぶん会ったこともない。完全な他人だって、これでわかったよね? ここで私のことを見過ごしたって、君とは接点のない、知らない女がひとり死ぬだけ。だからもう、諦めて帰って」
消沈したような声のまま懇願してくる萩尾さんだけど、その要求は俺としては断固として飲めない。
俺は彼女を救いたい――萩尾さんが投身自殺するためにここにいるように、俺もまた譲れぬ目的があってここにいる。
だから俺は、首を振ってこう答えた。
「ダメだよ、ほっとけない」
「どうして? 私が死んだって天音くんとはなんの関係もないって、これでわかったはずでしょ?」
「ううん、関係あるよ。だって俺になら、君の気持ちは少しはわかるはずだから」
「……私の、気持ち?」
俺の一言に萩尾さんはハッとしたらしく、そこでいったん言葉を区切った。
一瞬、泣いているのかと思った。けど違った。萩尾さんは笑っていた。
嗚咽のような音が大きくなり、シームレスに大きな笑い声に繋がる。
「あははははっ! すごいっ! 本っ当にすごいね天音くん! わかっちゃうんだ私のことが! 毎日苦しくて、絶望しかなくて、死ぬしか残った道のない私のことが本当にわかっちゃうんだ! あはははは……あー、おっかしい……」
身体をくの字に折ってケラケラと笑う萩尾さんはしかし、突然笑うことをやめた。
目尻に浮かんだ笑い涙を指で拭って、俺に向き直って続ける。
「これでやっと理解できたよ……天音くん、本当は知りたいんだよね?」
「ちょっと待って。知りたいって、なんのことかな?」
マジで心当たりがない。素で訊き返してしまった。
これは明らかな悪手だ。ドスの利いた声で、萩尾さんが不機嫌に言う。
「白々しいね。野次馬根性でここまで足を向けたのに、その理由まで私に話させるつもりなんだ? けどいいよ、教えたげる。君が知りたいのは、私の絶望。どんな不幸のせいで私が自殺しようとしてるのか、その理由が知りたいんでしょ」
「いや本当に待って。俺は別にそんなつもりじゃ……」
闇夜に光る二つの双眸が、そのあとの言葉を潰した。
俺が黙ったのを見て、得意げに萩尾さんが話し始める。
「運命の恋をしたの。ぱっと火花が散って、即座に燃え上がる、激しい恋。天音くん、私はね、その恋の炎に身を捧げたの」
過去形で言った萩尾さんは、ひとつの恋の顛末を語った。
それは道ならぬ、許されざる恋の物語。
――恋愛悲劇の主演は、教師と生徒。
禁忌とされる二人に芽生えた恋愛感情と、その道行きに当然のように待ち受けていた破綻が、訥々と萩尾さんの口から紡がれた。
すべて語り終えたとき、あれほど自嘲的だった萩尾さんの声は涙声で掠れ、悲壮な響きを帯びていた。
「ね? これでわかったでしょ。あの人が本当に大事だったのは世間体だった。あの人は、私との間に見えない壁をずっと作ってた。最後までそれを飛び越えてくれなかった。私の告白を一度は受け入れたのに、私の側に立ってくれなかった……」
完全に鼻声になった萩尾さんが、そこで俺に水を向けた。
「ねえ天音くん、どうだったかな? 哀れで愚かな女のお話は?」
自分の一番暗い部分を話してくれた萩尾さんに、俺も誠実な返答で応えるべきだと思う。だから――。
「そうだね。一言に言って、本当にひどいと思うよ」
「ひどい? アハハ、そうだよね? 本当にひどくて滑稽だよね? でも、これで君にもわかったでしょ。私は死を選んで当然の女だってことが」
「うん」
「…………」
ひょっとすると、素直に頷かれるとは思ってなかったのかもしれない。
萩尾さんは数刻、完全に沈黙して呆気にとられた感じだった。
けれど、これが俺の素直な感想なのだからしょうがない。
妹はかつて言っていた。女の子はお砂糖と、スパイスと、すてきなものがいっぱい混ざって出来ていると。
それに照合すれば、今の萩尾さんは明らかに不純物が混ざりすぎている。
相手役の教師側の裏切りで、ひさんなものがいっぱい混入されていた。
泥水が一滴混じったワインが既にワインではない例を引けば、今の荻野さんもまた到底女の子であるとは言えないだろう。なるほど、これでは死を選ぶのも無理はない。
よって今俺の心を席巻しているのは、深い納得だ。
俺は腕を組もうとしてできなかったのでやめ、その場でうんうんと深い頷きを繰り返した。
「……いや、本当に得心いったよ。萩尾さん、マジで悲惨な失恋しちゃってる。たしかにこれはつらい。死にたくなるのもわかる。今、死のうとしてるのだって全然自然なことだと思う。てかそんな状況で、よくこれまで死を選ばなかったね?」
けどね、と今度は俺が一息を挟んで続けた。
「それでも俺は、君の気持ちが少しはわかると思うから、飛ぶのはもうちょっとだけ待ってくれないかな? 俺は君ともう少しだけ話がしたいんだ……あれ? 萩尾さん?」
金網フェンスの向こうでプルプルと肩を震わせ、萩尾さんは呪詛のような言葉を吐き出した。
「バッ、バカにして……やっぱり天音くん、それが目的だったんでしょ? 今にも自殺しそうな私をからかって、玩具にしてやろうって、そんな魂胆で……」
あわわ、なにやら、とんでもない誤解を受けている様子だ。
不文律に逆らい、俺は思わず否定の言葉を使ってしまった。
「違うよ全然違うよ? てかどうしてそうなるのさ。俺はただ君と話を……」
「うるさい! そうやってまだ私で遊ぶつもり? 私は自分の不幸を語った! これで好奇心は満たされたでしょ! さっさとどこかに消えて!!」
言い終えると、ぶおん、と風切り音までさせて右腕を薙ぎ払う。
それはこれまでで一番大きな声だった。
努力虚しく、俺と萩尾さんの心理的距離は離れてしまったようだ。
けれど、ここで諦めてはいけない。きっと後悔が残ってしまう。
それだけはどうあっても避けたい――。
そんな俺の気持ちが天に通じたのか、その瞬間、上空を流れる風が強まって月を覆っていた雲を吹き流した。
これを好機と、俺は痛む身体を引きずって月明かりの下へと移動し始める。
「悪いけど、俺は消えないよ。それにまだ目的は達成してないから」
「目的? さんざんからかっておいて、まだ私で遊ぶつもりだっていうの?」
「だから違うよ。俺は萩尾さんを救いたいんだ」
「そうやってキラキラした言葉を使ってまだなにか企んでいるんでしょ!」
「違う、本当に違うんだ。だって俺は――」
とそこで、俺の身体が月光の作り出す光の下に出た。
萩尾さんの瞳が驚愕に丸く見開かれるのを遠目に見ながら、俺はこう続けた。
「――さっきそこから、飛んだんだ」
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