失敗する話
ネルはライラ・リンドヴァルに作られた人型使い魔である。
ネルはかつて白皙の美少年であったが、主人であるライラがとある事情で三百年間眠っている間、急成長を遂げた。愛らしい少年の声は精悍な青年の声へ、丸みを帯びていた頬はよりシャープに、雪のようなつやつやの髪と海の青を湛えた瞳はそのままに、ライラの背を抜かしてぐんぐん育った。そんじょそこらの舞台俳優にも負けていないな、とネルの主人であるライラが密かにナチュラルに親馬鹿を発揮してしまうほどネルは美しい青年に成長した。
人間であるライラならともかく、使い魔であるネルに年齢の概念は無いがあえて歳を数えるなら彼の年齢は三百歳超になる。三百年もあれば精神が老成していそうなものだが、主の悪いところをきっちり受け継いでしまった使い魔はプロフェッショナルの引きこもりであったため、命じられた責務をこなすこと以外ではほとんど外に出ることがなかった。
結果、三百年の時を過ごしたのにも関わらず、彼は人間のことがよく分かっていなかった。だから、失敗してしまった。人でないネルにはとても判断の難しいことだった。親しい人間にする行為であるというソレを彼は寝起きのライラに行った。
結果、あまりにも驚いたライラは朝っぱらから無様にもベッドの上から床の上に転がり落ちてしまったのである。主人の一大事にネルはすぐ助け起こそうとしたがライラは手のひらをネルヘ向けて静止を促す。
「どこで覚えてきたの」
簡単に一言。今しがたネルがした行為について。ネルはぱちりと一つ瞬いて「本に書いてありました。親しい相手にするのだと」と端的に答えた。綺麗な形の、人ではない生き物もどき。人に似た形を持ったネルが形だけ人の行為を模倣する。そのちぐはぐさは、見た目に反していて歪だった。人と在る、という道を進むのならきっと人のことを知ったほうが良い。もう少し人の機微について学んだ方が良い。そう思いライラはネルに読書を薦めたのだ。
ライラはもともと研究職についていたため持ち家は論文集や学術書に溢れていたが、物語の記された本は全くと言って良いほど無かった。だから先日、ライラはネルのために本屋へ出向き店主に流行りの本を見繕ってもらった。
「なんかこう、適当に流行りの本を五冊くらい包んでください」
という雑な指示で包んでもらった本を中身をろくに確認せず彼女はネルへと流し、今に至る。
「それ、恋愛もの?」
「はい」
「ちなみに、他にはどんな本があった?」
「運命の相手が呪われていて、その呪いを解く話と……医療分野で活躍した魔術師の伝記と、劇場で公演されていてとても流行っている身分格差ものの恋愛の話と、建国英雄物語と……悪い魔法使いライラ・リンドヴァルの本がありました」
「最後のは……」
「三百年前までご高名であったライラ様ですが、時代は変わってしまったので」
「まぁいいけどさ。そういう本が出てるのもなかなか面白いし。いやでもやっぱり本は私が見繕うべきだったかな」
ネルへ与える本について、というテーマで思考の海へと沈んでいこうとしたライラを引き止めたのはネル本人だ。未だ床の上で座っているライラのすぐ側に寄って、彼は彼女を視線で縫い留めた。
「していただけないのですか」
何を、と言うのは野暮だろうか。一瞬悩んで、ライラは手を伸ばし彼の陶器のような額を剥き出しにした。触れた彼の額は冷たくはないが別に温かくもない。そしてそこに、うやうやしい、羽みたいに軽い口付けを一つ。
「これは、口にするものなのでは」
そう本に書いてあったから、ネルはお手本通りにソレをした。けれどライラのソレはお手本通りではなくて彼は首を傾げることしかできない。場所に、意味があるのだろうか。額に口付けをし終え立ち上がるライラを、上目づかいでネルは見上げた。悪戯な笑みでライラはネルを見つめ、今度は彼がその場に縫い留められてしまう。ライラはネルを置いて洗面台の方へと歩いていったが、しばらくネルは動けなかった。彼女が撫でた自身の髪をそっと触って、ネルは何故本のような、口への口づけがされなかったのか考えた。
ネルはライラ・リンドヴァルに作られた人型使い魔である。人の機微に関して目下勉強中の、使い魔である。




