18 踊るよ踊る、誰が策にて1
燦燦と輝く太陽。鼻をつくドブの臭い。
ゴミの浮く下水入り口に立ったユーリは顔をしかめた。そっと鼻と口を覆うように布を巻く。
ユーリはちらりと自分が下りてきた梯子を見上げた。丁度ユーリの身長程度の高さの壁。そのすぐ向こうには貧民達が暮らすスラムが広がっている。きっと、普通に生活する者達は知らないのだろう、とユーリは思った。街中で一段低いところにあるスラム街。そのすぐ隣を下水が流れていることなど。彼等は綺麗に整えられた街中でしか生活しない。そのすぐ隣には、こんな衛生的に難がありそうな汚い場所があるなど、想像もしたことがないのではないのだろうかと考える。
視線を正面へと戻した。空を見上げることのできるぽっかりと開けた下水道入り口。目の前にはトンネルのように奥に続く下水道。その先は次第に闇に侵食され、全てを見ることなど、できやしない。
こんな事錬金術師の仕事じゃないよ、とぼやきながらゆったりとしたローブの袖で、既に布に覆われた鼻と口元を隠した。そうしても尚、ドブの臭いが鼻につく。くそったれ、と心中で悪態着きつつ、中を覗き込む。
奥に続くにつれ、光がなくなるその穴は、まるで地獄への入り口。ドブの臭いに交じり、微かに腐った血の臭いが漂ってきた。ぷかりと浮くゴミの中に、あからさまに何かの骨。見えなくなりつつある辺りには夥しい数が浮いている。
あーぁあ、と溜息を零し、袖口を探る。直ぐに目当ての物を見つけ、取り出した。
乳白色の液体の入った丸底フラスコ。それを奥の壁へ向かって投げ捨てた。ガシャリと音をたてて割れ、発光した。
まるでその場に新しい太陽が産まれたかのように眩い光。普通ならば目が眩んだだろうが、それを求めていたユーリは、既に目の上に手をかざし、影を作っていた。細めた目に、暗闇に蠢く異形の姿が映る。
体調三十センチメートル。鋭く長い爪。赤くぎらつく目は異様な光を放っている。長い歯がぎちぎちと奇妙な音をたてていた。突然の光にギィギィと上がる耳障りな声。より暗い方へと逃げていこうとする姿。日の下でも動けない事はないが、どちらかと言えば夜行性。暗がりを好む。
「あーぁあ……モルテトーボなんてモンスター、よくもまぁ、街中に召び出したもんだよ……」
うんざりしたように呟き、ユーリは先程探ったのとは反対側の袖に手を突っ込んだ。ごそごそとかき回し、袖から三本の試験管を取り出すと、大きく振りかぶる。ユーリの手を離れ、くるくると回りながら飛んで行った試験管は、やがて失速し、落ちていった。三本とも割れる音がする。それを聞いて、ユーリは急いでその場を離れた。
割れた試験管の中に入っていた液体は、飛び散るとあっという間に霧状になり、広がる。赤、青、緑の煙はまじりあい、複雑な色を経て、汚らしい黒とも言えない黒へと変わりながら、モルテトーボ達を覆った。
一匹、また一匹と、煙に巻かれたモルテトーボが痙攣し、喉を掻きむしりながら倒れていく。
ユーリが投げた試験管。その中の液体は、シン曰く「混ぜるな、危険」
一つ一つの効果は低い。しかし、他の物と混ざると、途端、凶悪な毒となる。効果時間は短く、およそ一分。一分を過ぎてしまえばあっという間に空気中に溶けて消え、その効果はなくなるのに、その一分で確実に死に至らしめる劇薬。触れた者はもれなく呼吸困難となり、窒息死する。そんなものを、まるで気にしたふうもなく、街中で使うユーリ。
壁に背をもたれさせ、ゆっくりと一分を数え、再び中を覗き込んだ。
多くは水のない通路部分で倒れているが、淀んだ水の中でぷかぷかと浮いているものも少なくはない。
ユーリの手には更に三本の試験管。それを手に、中へと足を踏み入れた。
一歩、二歩、と頭の中で数を数え、試験管を投げ捨てて、全てが割れたのを確認したのち、自分が走って逃げれるだけの距離を計算する。その数約十五。ユーリは自分自身をよく理解している。そして、慢心はしない。たった十五。されどその距離が自分が走れる精一杯だと認識した。その距離は小さな子供でも走破可能な僅かばかりの距離。それでもユーリはその場で大きく振りかぶった。
ユーリの手を離れた試験管は、風車のように回りながら飛んでいき、やがて失速して落ちた。三つの音を確実に聞き分け、急いで走って逃げる。そして一分と三十秒後、今度は松明を手に、中へと踏み込んだ。
転がる死体を一体ずつ数えていく。その数、四百八十二。昨晩リーニャは四百七十と言っていた。微妙に数があっていないが、それもまぁ仕方がない事だろう。リーニャは人間で、完璧などありえない。むしろ四百七十まで固体識別ができたことの方を驚くべきだろう。何しろ、この場に転がる死体のどれもが同じで、寸分違わない。どうやって識別して数えたのか今度聞いてみようかとさえ思う。
ネズミを駆除しろと言われたが、死体を片付けろとは言われていないな、と勝手な事を独り言ち、くるりと踵を返す。戻り掛けに一体、尻尾を掴み、引きずりながら出た。
「ああ、嫌だな。僕、痛いの嫌いなんだよな」
ぶつぶつと呟きながら下水道を出て上へあがろうとしたとき、頭に衝撃。吹き飛ばされ、下へ落ちる。幸いにも汚水の中へ落ちる事はなかったが、目の前が衝撃に眩んだ。ぐらぐらと揺れる視界に、ニタニタと笑いながら見下ろす男達の姿がある。
手に持ったこん棒に、あれが凶器か、と考え、頭を打ったばかりだし、無理に起き上がるのは止めておこう、とその場に寝転がり続ける。
「やっと出てきやがったかよ」
「たくよぉ……オメェのせいでエイナんとこのガキが死んじまっちまったじゃねぇか」
「モンスター逃がしてんじゃんぇぞ、クソ錬金術師が!」
大声で怒鳴りだす。
成程、とユーリは理解した。
どうやらわざわざこの貧民達にわざと大声で状況を説明させ、好奇心でやってきた野次馬たちに聞かせる。そして野次馬たちが噂話をバラまき、嘘を真実と民衆に思わせる。そういう計画のようだ。
ユーリは毒を使い、駆除をした。毒を使うのに近くに住む貧民達に警告はしていない。心証は悪いだろう。もしかしたら、貧民全てが金か何かで雇われていて、毒の件がなかったとしても悪意のある噂をたてられるのかも知れない。
「おい!! 何してる!!」
響き渡る声に、遅いよ、と思わず呟く。いや、遅くはない。完璧なタイミングともいえる。何しろ、彼らが一方的に手を出した、という事実の後且つ、自分がいっさい手を出していない証明にもなる。
「なんだテメェは!」
「俺達は街中にモンスター逃がしたクソ野郎の被害者だぞ!」
「あそこにいる錬金術師が慌てて駆除しに来た奴だ!」
「あいつのせいでエイナんとこのガキは死んじまった! エイナも気が触れちまったんだ!」
怒鳴り声に、そうか、と笑う。
ユーリが見に行った女は包帯塗れで、傷を見、モルテトーボにかじられた傷であることは確認した。その時、女は気が触れたりはしていなかった。子供を失ったことを嘆いてはいたが、しっかりした目をしていたし、会話もまともだった。
そうか、ともう一度笑う。
「おい! 大丈夫か!?」
立ちはだかる男たちなど歯牙にもかけず、駆け寄った相手。声でわかっていた。
片膝ついて覗き込むシンに視線を向ける。
「頭、殴られた……」
「わかった。そこで大人しくしていろ」
頭を殴られた相手を無駄に喋らせる気はない。無理に起こしたりもしない。
流石はシン、と心中で称賛しつつ、言葉に甘え、その場で寝転がり続ける。
「テメェ、そこの犯罪者を庇うのか!」
「構わねぇよ、アイツも殺っちまえ!」
「犯罪者? 何故ソイツを犯罪者と言うんだ?」
「はぁ!? そんなの、そいつが飼っていたモンスターが逃げ出して、子供が死んでるんだぞ!?」
立ち上がり、男達を振り返り見上げる。
睨みつける目に、う、と男達が怯み、一歩後ずさった。その気配に、流石はシン、と再び心中で称賛する。殺意を出さずとも、眼光一つで相手を退けさせる事が出来る。流石にハンター歴が長いだけある、と。
シンの視線がユーリの横に転がるネズミの死骸へと移動し、再び男達を見た。
「そこにいるネズミがコイツのだって証拠は? 証拠もなく、しかも私刑は犯罪だ」
「お、おかしいじゃねぇか! こ、こんな街中にモンスターがいるなんて!」
「そ、そうだぜ! 子供が死んだら急にコイツがそのモンスターを退治しに来た! コイツが飼い主じゃなきゃなんだってんだ!」
「急に?」
シンの片眉が跳ね上がる。警戒は一切解かず、くつり、と笑いを零した。
「急に? 子供が死んだのは八月三十日だと聞いているぞ? 今日は、何日だ?」
「な、なんでテメェがそれを!?」
「さ、宰相の野郎が裏切ったのか!?」
「アイツが緘口令とかいうのを敷いたんじゃなかったのか!? 黙っとけって」
「裏切る? 変な事を仰いますね……。私は、確かに貴方達にこの件に関して黙っておくように命じましたが、それ以外は何も言っておりませんよ?」
涼し気な声が響き渡る。
建物の陰から姿を現す一人の男。
茶斑の髪を短く整え、後ろになでつけるようにしている。身長百七十センチメートルと平均的な身長で、細身。灰色の目は実に冷たい光を放ち、銀縁の繊細なメガネと共に彼の知性を強く印象付ける。
宰相、ルルク・フォン・ベルト公爵。
寝転がるユーリからその姿は見えないが、一瞬で粟立つ肌に、間違いない、と確信した。そして同時に、あああーと心の中で声を上げる。カインには彼に声をかけないように言った。しかし、リーニャには言っていない。言ったとして、リーニャがその頼みを聞くとは思えないから。
やっぱり無理かーとぼやきながら、シン達に見えないようにこっそり袖の中から小瓶を取り出す。薄黄色の液体の入ったそれに口をつけた。
パチパチと口腔で弾けるような感覚。清涼感のある味だが、どこか薬草臭いそれ。回復薬の一種。飲んですぐに頭の痛みがじんわりと和らいでいく。けれども起き上がることはしない。まだしばらくは大人しくしておくか、と片目を閉じた。瓶はいつの間にか手の中から消えている。誰にも気づかれることなく。
「お、お前が言ったんじゃねぇか、この件は錬金術師に任せるって」
「ええ、言いましたよ。ですが、私は貴方達からネズミが出てきて子供を食ったとは聞いたので、錬金術師には害獣駆除を頼みましたが? 何故、貴方達はそれをモンスターだと?」
モルテトーボの見た目はただのドブネズミ。ただ見ただけでは判断はつきにくい。
「み、みりゃわかるじゃねぇか! 子供を食うネズミなんて異常だろう!?」
「古今東西、ネズミが人間に害をなした話はいくらでもあります。第一、私は八月三十日に調べて、九月二十五日に依頼を出しています。モンスター相手なら、こんなに時間をかけるとお思いですか? 貴方達は、あのネズミがモンスターだと、何故、言ったのか、誰に聞いたのか、是非、聞かせていただきたいところですねぇ」
がちゃがちゃと音をたてる足音。沢山の金属鎧を着た者がやってくる音に、寝転がるユーリに、ルルクが引き連れてきて隠していた騎士たちが姿を現したのだと推測された。
ぬぐぅ、と小さな呻きがユーリから零れる。あの野郎、という苛立ちがユーリの胸中を占めていた。
どうやらルルクの手の上で踊っていただけだ、と気づく。そして、自分は餌として放り出されていた。流石は無駄が嫌いな宰相様。使えるモノはなんだって使う。しかも、自分の言う事を聞かないユーリだ。遠慮の欠片もなかった。となると、リーニャがグルなのか、リーニャの目さえも欺く手腕を見せたのか、気になるところ。まぁどっちでもいっか、と思考を投げ捨てる。
「な、なんだよ……テメェは味方じゃねぇのかよ……」
「お、おい、ガルダ、変だぞ……」
「宰相はこちら側だって、あの黒づくめ、言ってなかったか?」
「そ、そうだぜ。ここであの錬金術師を殺すか、盗賊の烙印を押せるよう騒ぎ立てても、宰相が守ってくれるって……」
「なんの話ですか? 私は、この国の法を犯す者、仇為す者は一切許しませんよ。是非、その黒づくめ、とやらの話を聞いてみたいところですねぇ」
ひやりと冷たい微笑み。
戸惑う男達はひぃ、と声を上げた。それに、起き上がらなくてよかった、と心からユーリは自分の怠惰さに感謝する。ユーリでさえ悲鳴を上げたくなる、あの氷よりも冷たい笑みを見ずに済んだのだから。
気配だけでも、何とか収まってきていた肌が再びじわじわと粟立ってくる。
「シン、聞こえる?」
「ああ」
小さく声をかければ、視線も向けずに答えを返す。
流石はシン、と本日三度目の称賛を心中で呟いた。
「気を付けて。僕の勘が正しければ、あの貧民達、人間ではなくなるから」
「何!?」
「彼等、とある女から白い粉を受け取っていた。そして、その女の家に運ばれていた錬金術の材料から推察できる、錬金術で作れる白い粉は、ゾンビパウダー」
「ゾンビパウダー……?」
なんだそれ、と聞きなれない薬の名前に、眉根を寄せるシン。ユーリは手短に説明する。
ゾンビパウダー。禁呪ではないが、現在の錬金術書からは名を消しているアイテム。人間をモンスター――屍食鬼化させる、忌むべき薬。形状は白い粉。摂取した量により、いつグール化するかが決まる。
依存性はないが、服用の際に高揚した気分になる。麻薬ではない分、手は出しやすい。そう安易に考えてしまう。ユーリが調べた限り、彼らは相当回数受け取っていた。一回一回の量は少ないが、回数的に考えればかなりの量となるだろう。可能性を考慮すると、そろそろ、といったところ。
説明を受けたシンは、不愉快そうに眉根を寄せた。
「……錬金術を嫌いになったかい?」
「錬金術よりも、そんなもんを作り、平然と与える人間の方が嫌いだ」
即答。それに、そうか、と笑ってしまう。
君のそういうところが好きだよ、と微かに呟くが、それは音とはならず、僅かに空気が震えるだけだった。代わりに、咆哮のようなうめき声と、驚愕によるどよめき、ざわつく気配が押し寄せた。




