17 陰に隠れた悪意3
誘うように飛ぶフクロウについていく。
星と月が紫紺の夜空を彩り、ひんやりとした空気が纏わりつく。冷たい空気は上空の景色を澄み渡らせ、星と月の輝きさえ眩しく感じさせた。おかげで殆ど羽音をたてずに飛ぶフクロウを見失う事はない。
月の高さから、それほど夜に侵食されていない時刻だと解るが、教会通りと呼ばれる東側の通りは明かりが消え、静かだ。風に乗って西側のハンター通りの喧噪が微かに聞こえてくる。そんな中、静かに飛ぶフクロウと、その後を足音一つたてずついていくユーリ。
辿り着いた先は教会。
闇夜に沈むような質素な外観。その門の陰、普通の人間ならば確実に見過ごしそうなほどひっそりと立つ人物に、ユーリはにっこりと微笑んだ。
「やぁ、リーン神父。昨日ぶり」
「こんばんは、ユーリ。急にお呼びだてして申し訳ありません」
軽く手を上げて声をかければ、深々と下がる頭。それにユーリはゆるく左右に首を振った。
「いやいや。僕は君を待っていたんだよ。今日一日ずっとね」
「でしょうね。こちらへどうぞ」
いつもどおり、薄暗い教会の庭を横切り、隠し扉から屋内へと入る。
ふと、思い出したようにリーニャがユーリを振り返った。
「そういえばユーリ。昨日、また窓から出ましたね? 扉があるのですから、そちらから帰ってください、と何度言えば覚えてくれるのですか?」
「いやぁ……だってこの扉くぐるより窓からの方が楽しいんだもん」
苦言を呈しても改善しようという意思を見せないユーリに、リーニャは呆れたようにため息を零す。
「ユーリ。貴方は子供ではないのですよ」
「知ってるよ。でもいつまでも童心を忘れずに、若々しくいるべきだと思わない?」
「思いません。年相応という言葉を覚えてください」
ぴしゃりとはねつけられ、ちぇーっと唇を尖らせる。
その仕草が既に幼いのだ、という言葉を飲み込み、いつものように目の前の自室へと案内する。そうすればユーリは、当たり前のように部屋を横切り、小さな椅子に腰かける。
普段はゆったりとしたローブを身に纏っているのに、今日はシャツとズボンという格好のユーリが、いつもどおりにいつもどおりの場所に座っている違和感。
「今日はいつものローブではないのですね」
「ああ。シンを追い返しちゃったからね。洗濯してもらえなかったんで捨てたんだよ。明日着る分がなくなるから、今日はもう着ないの」
「……。貴方は、自活という言葉を覚えるべきですね」
額に手を当て、呆れたように紡がれた言葉に、ユーリはふいっとそっぽ向く。
「僕はできないんじゃない。やらないんだ」
「尚悪いですよ」
まるで子供のような言い分に、いい年した青年が何を言っている、という呆れが先立ち、つい溜息を幾度も零してしまう。
問うた事はないが、既に出会って十年。ユーリが成人している事は間違いないだろうと思っている。そんな相手が子供のような言動を『あえて』繰り返しているのだ。そう、わざとやっていると知っていても、溜息が零れてしまうのは、リーニャが良識ある大人だからかもしれない。
以前にも何故そのように振舞うのか、と尋ねた事がある。その時ユーリはなんと答えただろうか、と記憶を探り、ああそうだと思い出した。彼は、自分は童顔だからそれに合わせている、と言っていた。そして、子供だと思えば油断する大人は多いから役に立っている、とも笑っていた。
つくづく性格が悪い。可愛げないのは貴方の方だと言ってしまいそうになるのを堪える。ユーリと同じフィールドに立つのは、年を重ねた己がしてもよい行動ではない、と。結局それ以上は何も言わず、いつものようにユーリの対面の席に座る。
正面にいるユーリではなく、僅かに斜め上を見上げ、壁と天井を見た。そして口を開く。
「街に、ネズミが出ましたね」
ぴくりとユーリの片眉が上がった。
口元がゆったりと弧を描く。
それを横目で確認しながら、独り言のように続ける。
「人食いのネズミ……モルテトーボだと思われる固体。その数、四百七十。住まいは南城門近くの下水道。周囲一帯を探りましたが、モルテトーボが行軍した形跡はなく、地下道が掘られた気配もないようですね」
「突然何もない空間から現れたモンスター、か。これは召還石確定だね」
「もう一つ、可能性としては、飼育されていたモノが逃げ出した、という可能性がありますよ」
リーニャの顔がユーリの方を向いた。
冷たい光を携えた目が、真っすぐにユーリを捕らえる。そこに、神父リーンはいない。王に仇為すならば身内でさえもその手にかける事が出来る、最凶の剣が居た。
身を切るような鋭利な殺意が、ただただユーリに向けられる。普通の人間ならばそれだけで、恐怖のあまり命を落としてしまいそうな、そんな殺意。冷たく鋭い気配は実際に空気を振動させ、窓ガラスがカタカタと音をたてていた。しかし、ユーリはそれを意に介した様子もなく、口元に弧を描かせたまま、優しくリーニャを見ている。
視線だけで続きを促した。そんなユーリに、リーニャはふぅ、と一つ溜息を零す。それだけで薔薇の棘のように鋭く、冬の湖に張った氷よりも冷たい気配は霧散して消えた。
途端にのしかかっていた重圧が消える。
部屋を照らす蝋の火が、先程までかき消えるのではないだろうという勢いで揺れていたのだが、落ち着き、揺れていた影が止まった。
「モルテトーボが確認されたのが八月三十日。事件が起きた日ですね。しかし、私の耳に入ってきたのは昨日。貴方の口から」
「つまり、九月二十七日まで、君が知らなかったわけだ。この王都を汚す存在を」
ぎり、と歯がきしむ音。
一度は神父の顔を取り戻したリーニャの顔が、屈辱に歪んでいた。
彼の仕事は王家の剣。この王都を乱す輩を秘密裏に屠る者。その為に、どんな情報も漏らさず集めていた。それが及ばなかった。これほどの屈辱はない。
まるで獣のような顔。それほどリーニャの矜持を傷つけたのだ。ユーリは嫣然と微笑む。
駒は、揃った。
恍惚とした笑みが形を変え、歪な笑みへと姿を変える。
「傑作だね。敵に足元をすくわれないよう、あれこれ網を張っていた僕も、人知れずこの国を守っていた君も、見事に出し抜かれたわけだ、悪党、に」
「ユーリ。その笑い声、止めてください。癇に障ります」
聞いたことのないような低い声に、これは失礼、とピエロのように大仰な動きで謝罪する。普段のユーリの行動。それが異様に気持ちを逆なでした。
膝の上で組んだ拳が、ぎちりぃと歪んだ音をたてる。噛みしめた奥歯から血が滲み、滴った。
「ふふ、落ち着いて、リーン神父。ここは君の聖域だろう?」
「っええ、そうですね」
ふーっと深く長く息が吐きだされ、手と口から力が抜ける。それでも額に浮いた青筋が消える事はない。そして、その顔に笑みが戻ることもない。
冷たい目は緩むことなく、ユーリを見る。
「さて、僕の知りうる情報を渡そう。その対価に君は君の知る情報を僕に渡してほしいところだね」
「では、召還石、とはなんですか?」
「危険な石だね。核にしたモノのホムンクルスを延々と召還する、錬金術師三大禁呪調合の一つだ」
「ホムンクルスを、延々、召還……?」
「ホムンクルスってのは錬金術で生み出す人工生命体のことだよ。核となった生き物の、生殖能力以外のほぼ全ての能力を持っている」
ぴくり、とリーニャの肩が跳ねる。
ユーリの顔からは笑みが消え、先程までの不真面目な態度は鳴りを潜めていた。酷くつまらなさそうな顔をして、吐き捨てるように説明していた。
ホムンクルスには生殖能力以外にも、老いという概念がない。老いないまま核となったモノの、核となった時の状態を常に維持している。寿命もあるが、その寿命は錬金術師の腕次第。だが、ドブネズミサイズのモルテトーボくらいならば、平均三か月はもつ。大きくなればなるほどその寿命は短くなる。人間だと長くもって一週間程度。
所詮使い捨て。使い捨てだからこそ、用途多様。
それが滾々と湧き出す石。それが召還石。
説明を一通り聞いたリーニャは一つ頷いた。
「成程……大体、理解しました」
「今度はリーン神父。貴方の番だよ」
わかりました、とリーニャは頷く。
「最近、はぐれの錬金術師がこの国に現れてないかな?」
ユーリの問いに、首を傾げる。
唯一のはぐれの錬金術師と言われている者ならば、今目の前にいる。
「貴方以外で?」
「僕は十年以上昔からこの国にいるよ。最近には当てはまらないだろう?」
「そうですね」
少し考えるような仕草に、ユーリはかくっと首を傾げた。
「いない?」
「いえ、三名程居ります。ただ……錬金術を使っているのが確認できた者はおりません」
「なら質問を変えよう。奇妙な接触をしたはぐれの錬金術師はいるかい?」
「奇妙な……ああ、それなら。アランという名を名乗る、自称魔物研究者の浮浪者がいます。彼はここ最近、とあるご家庭に毎日のように顔を出している。確か……南城門近くの貧民の家ですね。そして、その貧民の家には、時折錬金術学校の教頭が訪れるのです……山ほどの材料を抱えて」
ほほぅ、と声を上げるユーリに、リーニャは「ただ」と言葉をつづけた。
「あの家の主人は錬金術師ではなく、あの家には錬金釜さえないのです。アランも錬金釜を抱えて移動はしておりませんので、あそこで調合がされているとは思えません。しかし不思議な事に、教頭は山ほどの材料を持ってくる。一度あの家に入ってはみたのですが、材料は跡形もなく消えていました」
首を傾げるリーニャに、ユーリは笑った。関係ない、と。
リーニャは王家の剣だが、錬金術に関しても知識はそれなりにある。時に錬金術学校にだって潜入する事もあるのだから。それでも、全てを知っているわけではない。表面上、取り繕える程度の知識だ。だからユーリが何に対して『関係ない』という言葉を使ったのか、理解が出来なかった。
「リーン神父。君は、錬金釜の形状を知っているかな?」
「釜? ええ。錬金術学校にも、その辺にも売られていますから……この王都内で知らない人間はいないのでは?」
「ふふ。成程。君は、知らないんだね」
目を伏せ、穏やかに微笑んで頷くユーリに、リーニャは訝し気に眉根を寄せた。
たった今知っていると答えたのに、何故知らないという事になるのか、理解ができない。それとも、何か間違えた返答をしたのだろうか、と質問と回答を思い返すが、やはり、何が間違えていたのかはわからなかった。
ゆっくりと目が開かれる。
何故だかわからないが、粟立つ肌に、震える身体に、咄嗟に左手で右手首を押さえた。そうでもしないと、目の前の、突然得体の知れない存在になった相手に、暗器を取り出し、斬りかかりそうだった。
「錬金釜の形状は、実はなんだっていいんだ」
「……どういう?」
「フライパンでも、鍋でも、なんでもいいんだよ。形は、ね」
錬金釜の素材は、実際に使いたい道具を投げ込む。調合する釜に入りさえすれば、どんな形状の、どんなサイズのものでも構わない。ただ、一般的にはユーリの半身ほどの大きな壺状のものが多い。何故だか不明だが、その形状が最も質の良いアイテムを錬成できるからだ。しかし、他の形状でもできないわけではない。質が下がるという難点がある為、殆どの錬金術師は使用しないが。
水が入り、原初の火種にくべることさえできれば、それがどんな形状だろうと構わない。そんな事、今では殆どの錬金術師が知らないけれども、百年ほど昔は当たり前だったらしい。そして、錬金術の歴史を知る者ならば、今ではあまり知られていないその事実を知っていてもおかしくない。
「教頭が提供したのか、アランという錬金術師が持っていたのか……まぁそんなことはどうでもいい。ただ、僕に喧嘩を売るためだけに錬金術三大禁呪を調合したことはいただけないね……」
ユーリの唇が弧を描く。しかしそれは、優しげでも、嫣然とも、ろくでもないものでもない。怒りに満ちていた。
ユーリは錬金術師だ。例え、錬金術に飽きていても。それ以外の事は知らないし、それ以外を身に着けようと思えない程生粋の錬金術師。錬金術師には錬金術師の矜持というものがある。犯してはならない神域というものがある。
相手がただユーリに喧嘩を売っただけならば、別にユーリはそれほど怒る事はない。笑いながらちょっとした悪戯程度の報復をする。だが今のユーリにそんな優しさはない。
「リーニャ・グルフェリック。知っているかい? 昨日言っていた『病気のお母さん』はね、隣国の人間だと」
「知っています。その『病気のお母さん』が、アランが通う家の家主です」
「では、これは? 『病気のお母さん』は、秘密裏に白い粉をバラまいている。南城門近くの貧民達に、ね」
リーニャの肩眉が跳ね上がる。
ぎろり、とユーリを睨みつけた。
「この国に麻薬がばらまかれている、と言うのですか?」
「僕は白い粉だと言ったが、それが麻薬だとは言っていない。そして僕は錬金術師だ。白い粉、と言われれば様々な可能性を考える」
相変わらずのもったいぶった話し方に、視線だけで先を促す。
ユーリは硬い背もたれに背を預け、ゆったりと足を組んだ。
「残念ながら粉自体は入手できなかったのでそれが何かはわからない。けれど、錬金術師が扱うものの中に、幾つか危ない白い粉がある……それは……」
ユーリの口から紡がれる、錬金術の脅威の数々。そのおぞましい内容にリーニャは顔をしかめ、忌むべきもののように睨みつけた。そんなことをしたところでユーリに何ら変化があるわけもなく、ただただ淡々と説明は続く。
やがて説明を終えたユーリが、ようやく口をつぐみ、代わりにリーニャが口を開いた。だから、錬金術は嫌いなのだ、と。




