13 ティータイムは友人と1
では、また、という聞きなれた別れのあいさつに、後ろ手でひらりと手を振り返すと部屋を出た。扉を閉め、行儀悪く廊下の窓から外へ。
今は秋。
空に輝く月は白く、夜風は夏の残滓を纏いつつも、冬の到来を感じさせるようにひやりと冷たい。木々は夏の青さを忘れ、真逆の赤に染まる。
過ごしやすく心地よい空気を堪能しながら夜道を歩き、曲がりくねった路地を抜けたユーリは、ふと、店の近くの妖精の住む、と言われる樹が色づいているのに気づいた。
この樹は妖精が住むと言われるだけあって、年中青々と葉が生い茂る謎の樹。ユーリが店をあの場所に構えたのも、この樹があったから。しかし、この国の人間は、何故この樹が『妖精が住む』とまで称されているのかは知らない。その実が不思議な力を持ち、錬金術に有用な素材であることを。それも仕方がないのかもしれない。この樹が実をつけるのはおおよそ十年に一度。それも、十分な栄養が与えられてようやく、なのだ。
月に一度、ユーリが特性の植物用栄養剤を与え、こまめに水をやり、時折肥料を混ぜた土で辺りを耕したからか、葉が色づいた。これなら、冬になる前に実が成るだろう。
よしよし、と一人納得したように頷き、店へと戻る。
教会から帰り着いたユーリは、店をつっきり、奥の部屋にある釜の前に立った。
ぐつぐつと煮え続ける釜の中身は、虹色に次々と色を変え、僅かな輝きを放ち、暗い室内をぼんやりと照らしている。不思議な釜の効力なのか、それとも、火種の効力なのか、釜の中にそそいだ液体は、減ることもなければ、いくら素材を投入しても溢れることもない。
この世の理屈の範囲外にある、これこそ魔法というのかもしれない、等と下らない事を考えながら腕を組む。
右の足先で、たん、たん、とリズムよく床を鳴らし、考えるようなそぶりを見せるユーリの表情は、酷くつまらなさそうだった。
実際にユーリはとてもつまらなく感じている。
彼の中で色々なものが色あせて久しい。
錬金術に対する情熱も、意欲もない。ただそれ以外できることがないから続けているだけ。最早惰性なのだ。
あちこちを旅して、各地の錬金術を見てきたが、もうユーリを楽しませるような知識はどこにも転がっていない。だから錬金術師にとって最も魅力的な、素材の宝庫であるこの国を訪れ、居を構えた。
彼が直面しているのは、己の技術による知識の限界ではなく、真実、どうしようもない限界。無限とも言えそうな素材の組み合わせを重ね、永遠とも言えそうな調合を繰り返した。その果ての限界に達していた。
子供の頃のようなドキドキワクワクとした気持ちが湧き上がらない。好奇心が刺激されない。それでもそれに縋るしかない苦痛に、彼の中の何かが死んで久しく、ぽっかり空いたその穴を埋める何かを探していた。
そして辿り着いた先が人間観察なのだから、変わり者としか言いようがない。
最初はそれなりに楽しんでいた。
人間という生き物は面白い。それは間違いない。何しろ尽きない欲望、終わりの見えない悩みに囚われている。
そうした人々を眺めて居れば、探求心という名の欲と悩みに囚われ、暗闇に転がり落ちた者が、自分独りではない事を知れ、心地よかった。しかし、この解決法は、常に誰かが側に居なくては成り立たない。その上、似たような悩みを抱えた者を見続けてもつまらない。
自分の我儘にあきれるばかり。
だから求めた。人間らしい『生きている』人間の観察対象を。
ただ普通でも、まともでもダメなのだ。普通でまともでありながらも問題を抱え、少々歪んでいる。それくらいがいい。
シンは実にユーリ好みだった。
リーニャのように主を決めていない分自由で、リーニャによりまっとうに育てられた為に真面目。自己を持ちつつも柔軟。それなのに自ら、自己で解決できない問題を抱え、くだらないほど大真面目に悩む。どれだけ周りが諫めようとも、導こうとも、けして頷かない頑固さ。
極めて興味深い観察対象。
それを汚すものは許さない。例え、シン自身が望んでいたとしても。
それを執着心というのだと、頭の良いユーリは知っている。だが、それがいったい何だというのか。どういう形であれ、ユーリにとってそれは、神聖なほど愛しいモノなのだ。守ろうとして何が悪い。
「あの子はシンには相応しくない……邪魔なんだよなぁ……ああ、でも、まだダメかな」
剣呑な色を含んだ呟きは微かで、錬金釜の中でボコボコと沸騰した液体の音にかき消されてしまう。それでもしばらく考えるように足先で床を叩いていたユーリは、不意にふぅ、と溜息を零し、ゆるく首を左右に振った。
一度俯き、すぐに上げた顔には口角を上げただけの笑み。
「さて、おかーさんの病気を治す薬を作らなくちゃね」
壁際に所狭しと並べられた棚の中を漁り、次々と必要な素材を取り出す。
白い液体が入った小瓶、シロツメクサの名で知られる小さな白い花、茶色の液体のようなものが入った小瓶。そして、釜の中の液体のように、虹色に輝く液体の入った三角フラスコを手に、錬金釜の前に戻った。
まずシロツメクサを釜に投げ込む。湯だつ液体の中へ、ゆっくりと沈んでいくのを眺め、木べらでかき混ぜる。湯だつ液体が虹色から白へと色を変えた。そこに小瓶に入った白い液体を流し込み、再び木べらでかき混ぜる。
白い液体に変化はない。けれども、時折浮かぶシロツメクサが溶けてなくなるまで、延々とかき混ぜた。
シロツメクサは十分ほどでその姿を完全に消す。木べらで底を何度も攫い、本当にないことを確認すると、茶色の謎の物体が入った小瓶を釜の中へとひっくり返した。
まるで固形に近いペースト状のそれは、ぼちゃりぼちゃりと音をたてて釜の中へ沈んでいく。
小瓶から、はっきりと土の臭いが漂った。
釜の中の色が灰色に濁る。直ぐに最後の液体を投入すると、釜が最初と同じ虹色になった。そこで再び木べらを掴んだ。
ぐい、と木べらを動かす。
急に重くなったそれに、足を踏ん張る。そうしなければユーリ程度では重さに耐えきれず、逆に木べらにもっていかれるだろう。その結果は釜の中へ一直線だ。
謎の錬金術の釜。そんなものの底へ、誰が好き好んで入りたいと思うものか。原初の火にくべ、ただの水を入れただけで虹色に発光させるような謎の釜。何が起こるか不明すぎて、恐ろしくてとてもではないが、その中へは入りたくない。
無心でかき混ぜ続け、やがて夜が明けるが、ユーリがそれに気づくことはない。
まるで物語の魔法使いのような真っ黒のローブが汗で肌に張り付く。しかし、それをものともせずかき混ぜるユーリの足元には、いつの間にか勝手に動く雑巾が蠢いている。
アンティークゴールドのベルが軽やかな音をたて、来客を告げるが、ユーリは気づかない。
「うぉい、ユーリーって、また調合かよ……好きだな、錬金術」
出迎えないユーリに、顔をのぞかせたシンが呆れたような声を上げる。
「一応聞くが、飯、食うかー?」
出迎えず、挨拶さえ返さないとき、寝食忘れて調合しているのを知りながら、本人も言うとおり、『一応』声をかける。声をかけた事実がないと、意識が戻ったユーリが文句を言うのを知っているから。
当然、ユーリから返事はない。
「勝手に食わすからなー」
軽く手にしたバスケットを掲げる。
ひょい、と持ち上げられたバスケットの中からパンのいい香りが漂った。
バスケットの中身はメリルのパン屋で一番人気のサンドウィッチ。焼きたてのパンにハムとトマトとキャベツを挟んだ、所謂レタスサンド。それから卵を挟んだタマゴサンドの二種類。どちらも十食分しかなく、過酷な争奪戦必須のはずのそれを、当たり前のように買ってくるシン。いったいどれほどの早朝から待てば買えるのかは不明だ。
シンがこれを買う事は非常に珍しいが、理由は単純。調合を始めたユーリが食事を忘れてしまうから。一つずつ紙に包まれ、食べさせやすく、野菜もきちんと摂れるこれを選ぶのは必然だろう。
大股でユーリに近寄り、バスケットを左手に通す。中から包みを取り出し、開けた。
レタスサンドだった。
口元に差し出す。まぐっとユーリが食いついた。輪切りのトマトが入っているが、サンドウィッチは崩れない。
意外な事だが、ユーリは食べるのが上手い。料理が中々の速度で減っていくが、けして下品な食べ方ではない。散らかすこともなく、綺麗に片付いていくのを見るのは気持ちよい。今だってパンくず一つ落とすことなく口を動かすが、これは全て無意識下の行動。咀嚼するとまたすぐに口元に運ばれたサンドウィッチをかじる。
まるでヒナへの餌付けだな、と苦笑しつつも続ける。
小一時間程かけ食事を摂らせると、そっとその場を離れた。後はユーリの調合が終わるのを待つだけ。いつ終わるかは知らない。何を造っているのかも知らない。ものによっては名前を聞けば、どれくらいの時間調合にかかるのか判断できるものもある。しかし、今の状態のユーリは集中のし過ぎで話すこともできない。錬金釜を覗き込んだところで、虹色の液体しかないので、本当に調合中かと悩むくらいしかできないだろう。
簡単な調合ならば錬金釜の側を離れたり、会話くらいはできるのだが、昨日と言い、今日と言い、そんな調合でないのは一目瞭然。シンにできることと言えば、精々ユーリの面倒を見つつ、黙って調合が終わるのを待つだけ。そしてその間の店番くらい。
暇だな、と呟きながらいつもの場所に腰を下ろす。バスケットは足元へ投げ置いた。
カランカランと軽やかな音が鳴った。その音は、ユーリがこだわったと言っていた来客を知らせるベルが奏でる音。アンティークゴールドなどという、少し重たそうな黄金色に反し、奏でる音は非常に軽やかで美しく、シンもとても気に入っている。
ちらりと店内への出入り口へと視線を向ければ、窮屈そうに入ってくる、ご立派な鎧に身を包んだポンコツ騎士。
「邪魔するぞ」
「おーう。おっさん」
低く、下腹部の辺りにずしりと重い声に、軽く挨拶を返す。
カウンターに右手をつき、その上に顔を乗せ、左手をひらりと上げれば、重々しい頷きが返った。とはいっても、本人が意識しての事ではない。涼し気な顔立ちとは裏腹に、彼が身に纏う空気が重々しいので、一つ一つの所作がどうしても重く感じてしまうのだ。
店内に一歩入った場所で視線だけを左右にゆっくりと動かし、確認したカインは、ほんの僅か、首を傾げた。
「ユーリはどうした?」
「ちょーごーちゅー」
挨拶の為に上げた左手を握り、親指で奥の部屋を指し示せば、ああ、と納得した声がかえった。
シンほどではないが、カインとてこの店の常連。シンに「仕事しろや、おっさん」と言わしめた過去があるほどには、この店に来ている。シンの反応に、成程と頷けるくらいにはユーリがどういう状態なのか理解できた。
「ユーリ? それともなんか入用?」
「回復薬の補充と、ここ最近で何か変わったことがないのかの確認だ」
「回復薬はどれくらい欲しいんだ?」
「そうだな……八つ欲しい。今月の遠征で、前回購入した分は全て使い切った」
「全部使ったのなら、予備も含めて十にしときな」
ハキハキとした応えに、確かに、と頷き、そしてそれで頼む、と店主でもないシンに頼んだ。シンもシンで当然のように椅子から立ち上がり、足元にあった箱を手に、商品棚へと移動する。
「爆弾は?」
「小さくて普通の威力のものがあればいいんだが……」
「どっちがいい?」
箱を床に置き、両手に持った爆弾が差し出される。
一つは丸い形の普通の爆弾。シンの掌で軽く握りこめる程度、もう一つは細長い筒状のもの。
「こっちが一般的なヤツ。ま、硬い岩にヒビが入る程度で、俺達ハンターも良く持ってるやつな。で、こっちはダイナマイト。硬い岩なら粉砕する。ちょっと使いどころを間違えると大惨事だ」
「うむ。普通の方を七、そちらを三、もらおう」
「あいよ」
ポイポイと箱の中に放り込む手際の良さに、うむ、と頷く。
「そうか。ここはお前の店だったか」
「ちげーよ、ポンコツ騎士。知ってんだろうが、ココがユーリの店だって」
すぐに返る呆れた声に、いやしかし、とカインは首を傾げた。
カインだってここがユーリの店だと知ってはいるのだが、それにしたってシンの手際が良すぎる。思わずバカな事だと解っていても口にしてしまいたくもなるのだ。わかっているシンとしても軽く肩を竦めるだけで済ます。
「おい、おっさん」
「なんだ?」
「この後は暇か?」
「仕事だ」
「なんだそうか……」
珍しい、という言葉を辛うじて飲み込んだ。
今目の前にいるシンが、珍しく、拗ねたような表情をしているのだ。
シンは基本的に感情が豊かで、はっきりと顔に出る方だ。だが、それでも、他者に対して迷惑となるような我儘は口にしないし、顔にも出さない。そんなシンが、非常に珍しくも、自分が仕事で付き合えない事に対し、とてもつまらなさそうに、拗ねた表情を浮かべた。ただそれだけのことだが、それが妙に嬉しく、成程、これが友人関係というものか、としみじみとした気持ちになる。
「……君が、淹れた茶を飲むくらいの時間ならある」
「そうか。なら淹れてやるから待ってろ」
ぱっと顔を輝かせたシンに、思わず小さく笑い、頷いた。
表情の変化が非常に乏しいカインのその笑みに、シンは気づくことなく、箱に入れたアイテムの中身をカインに確認し、料金を受け取るとレジ箱と呼ばれる箱の中に放り込む。それは、重さで勝手に種類別してくれる、店の必需品。
料金がきちんと仕分けされる音を聞きながら、帳簿に売れたものと、受け取った金額を記入し、間違いがないのを確認する。その姿に、やはりこいつが店主だろう、という確信を得つつも、邪魔してミスが出ても仕方がない。カインは黙って、普段シンが腰かけている丸椅子に腰かけた。




