10 嘘
王都一の目抜き通り。その南にあるハンスの酒場横から一本路地裏に入り、長くうねる道を道なりに進むと不意に開けた場所にでる。その場にそびえる木は、妖精が宿ると言われ、昔から伐ることを忌諱されていた。その木を中心に、十メートル四方の僅かに開けた広場を右に曲がり、更に細い道へ。そこから真っすぐ進んだ先にある一軒の店。そこは錬金術師の店。
不思議な事に、その店には特定の人物しか辿り着くことはできず、一説には、店の主人に客として認められた者のみが複数回訪れることを許されているのだという。もしもその場所に辿り着きたいのなら、本当に主人の助けが必要となり、純粋な心で願わなくては、けしてたどり着けない。普通に聞いただけの道を歩いてきても、けして辿り着けないその店は、いつしか『魔法の店』と呼ばれていた。
そこに辿り着くには、店主が重ねた条件を満たし彼の『客』になる者、もしくは、店主のお眼鏡に適い、店主が来店を許可し、とあるアイテムを授けた者のみ。
あまりに厳しい条件に、その店の来客を知らせるはずのベルが、来客を知らせることは滅多にない。扉の上に取り付けられた、アンティークゴールドのベルは今日も朝、当たり前のように入り浸りに来た青年を迎えて以来、沈黙を保っている。
店内をいつもどおり、我が物顔で勝手に動き回る掃除用具を眺め、青年――シンはふぁ、とあくびをした。
代り映えのない、塵一つない床の木目を数えるのも、そろそろ飽きてきた。かと言って、店主であるユーリは、今日は朝からずっと隣の部屋にある錬金釜の前から動かない。身の丈程の木べらで、ぐりぐりと中身をかき混ぜている。
いくら温度が一定以上上がらない不思議な錬金釜とはいえ、ずっと正面に立っていれば暑さに汗も滴ってくるのだが、それさえも気にせず、黙々とかき混ぜていた。
物語に出てくる魔法使いのようなローブが、汗でぐっしょりと濡れ、肌に張り付いている。
水分を含み、重くなったそれを気にせず、身の丈程もある木べらを動かす姿を眺め、すげぇなぁ、と感心する段階は既に過ぎて久しい。何しろ、今朝シンがこの店に来た時には、既にその状態だった。
足元に滴る汗を、勝手に動く掃除用具の一つ、雑巾が延々拭いている。
一応声をかけてはみたが、ユーリが気づくことはなく、仕方がないので、いつもの席に陣取り、店番の真似事をしていた。といっても、既に夕方近いというのに今朝から誰一人としてこの店を訪れない。
退屈だ。
退屈は人を殺すというのに、ただひたすらに退屈だった。
こういう時に限ってポンコツ騎士ならぬ、王国一の聖騎士長カインはこない。その他の顔なじみの客も誰一人としてこない。
ちらりとカウンター裏の壁にある本棚へと視線を向けた。色とりどりの背表紙がずらりと並び、隙間の一つもない。
二人で店番をするとき、ユーリはその中から適当に本を選び、静かに読んでいる。
なかなかの分厚さのあるそれは、既に一度以上読み終えたものばかりで、新しい知識を得ることはないとは言っていたが、ならば何故読むのか、と尋ねた時、そこから改善点を思いつくこともあるからだ、と笑っていた。それがどういう意味なのか、シンには理解ができない。
薬品を扱うためか、自ら採取をするからか、意外と荒れた指先で、パラパラとページをめくる。その静かな音に耳を傾けるのが好きだった。
この店は、ユーリの本をめくる音と、天井近い梁の部分にかけた小さな時計の音、それと掃除用具が微かにたてる音、それに奥の部屋にある錬金釜のぐつぐつと煮える音が聞こえる。それらは耳に心地よく、ゆったりとした時間を感じるので、シンはとても好きだ。
ハンター通りの喧噪や、孤児院の子供たちのはつらつとした声も悪くはないのだが、目まぐるしく過ぎていく感覚がして、どうにも落ち着かない。
緩やかで穏やかな時間が好きだなんて、まるで年寄りだな、と自分で自分に笑ってしまう。
不意に、カランカラン、とベルが鳴り、来客を知らせた。
ぼんやりと遠くへと馳せていた意識は、一瞬で現実へと戻り、来客を確認する。
そこにはボロとまでは言わないが、平均以下の麻のシャツとズボンを身に纏った少年がいた。
細い手足は、少年の栄養状態が良くない事を如実に示していて、一瞬シンは顔をしかめた。孤児院の子供達だってもっとふくよかだ。
「やぁ、錬金術の店にようこそ」
シンが声をかけるまでもなく、いつの間にかユーリがタオルを手に、隣の部屋から顔を出していた。
カウンター越しに少年と対峙すると、手にしたタオルで顔や手足の汗を拭う。ユーリが歩いた場所は、まるでなめくじの這った跡のように汗の線が出来ており、それを拭いながらついてくる雑巾を足元に纏わりつかせている。
シンが声をかけてもまるで気づくことなく、それ以前に、シンが入ってきたのに気づきさえしなかったのに、少年の来店には即座に反応するユーリに首を傾げながらも、店主である彼が接客に出てきた以上、シンが何かを言う事はない。ただ黙っていた。
「れ、錬金術? 魔法のお店じゃ、ないんですか?」
「ここは錬金術の店だよ。ただ、錬金術の店には不思議なアイテムが多いから、いつからか魔法の店と呼ばれるようになったのさ」
戸惑う少年に、ユーリは優しく説明をする。
少年はそうですか、と呟き、口を閉ざした。そのまま一切話さず、無言の時が流れる気配が濃厚に漂った。普段のユーリなら、少年が自ら話し始めるまで待っただろうが、現在調合中の為、手を止める時間をできるだけ短くしたいのだろう。少年を促した。
「それで、君は何が欲しいのかな?」
「あ、ぼ、僕……あの……えっと……」
困ったように言い淀み、俯く。
「大丈夫。怖い事は何もないよ。それともそこにいる彼が心配かい? 安心して構わないよ。彼は凶暴だけれども、頭は悪くない。ただの無類の子供好きだよ」
「おい。人を微妙にヤバい奴みたいに言うな」
冗談めかして笑うユーリに、口をへの字に曲げてしまう。いくら少年の気持ちを軽くしようとしての行為だとしても、今一つ納得のいくことではない。しかし、ユーリはにんまりとした笑みを向けただけで特にフォローすることもない。
なんてやつだ、とむくれたとしても悪くないはずだ。
二人のやり取りに、少年は少しだけ戸惑い、それから、意を決したように口を開いた。
「ぼ、僕の、おかーさんが、病気なんです。治すためのお薬をください」
「そう。それなら、三日後にまたおいで。薬を準備して待っているよ」
「え?!」
ユーリの言葉に少年は驚いた。当然シンもだ。
少年は『母親』は病気だ、とは言ったが、その症状について何も言っていない。にもかかわらず、ユーリは三日後にまた来い。と返したのだから当然だろう。まだ何も聞いていない段階で、少年の母親の病気に効く薬なんて用意できるものなのか。
以前、万能薬はあると言っていた。しかし、それは非常に高価で、その支払いは国王でさえようやっとだ、と言っていたはず。そんなものを用意するわけがない。では、何故、母親の状態を確認せずに三日後、と言ったのか。
「君の望みは、君の母親の病に効く薬だろう? それなら、三日後においで」
「で、でも、僕、まだ、おかーさんの病気、何も……」
「大丈夫だよ。安心しておいで。もし君のお母さんに薬について尋ねられたら『錬金術師はお母さんの病気に必ず効く薬を約束してくれた。後は三日後に取りに行くだけだ』と正直に答えなさい」
「う、うん……」
穏やかな微笑みを浮かべながらも、有無を言わさぬ雰囲気のユーリに気圧され、少年は頷く。それにユーリは、いい子だね、と優しく声をかけ、帰宅を促した。
少年は大人しく扉の方へと向かうが、それをシンが止める。
「おい」
「な、何?」
「これやるよ」
大きく肩を跳ねさせ、いかにもおどおどとした調子で振り向く少年に、椅子から立ち上がり、大股で近寄ると、腰に回したベルト状のポシェットから小さな布袋を取り出す。それは少年の掌程度の小さな袋。不思議そうに首を傾げる少年の前で片膝をつき、視線を合わせると、少年の手を取り、袋を押し付けた。
再び、何、と困惑して問う少年に、袋を開けて見せる。
中には琥珀色の小さな塊が三つ。
スライムシロップを、粘りが出るまで延々と煮詰めて、固めただけのべっ甲飴。一個作るのにもスライムシロップが十五体分は必要で、サイズと量の割には少々高値だが、ハンターにとっては大切な非常食。それを少年に渡した。更に、腰のポシェットからもう一つ袋を取り出す。そちらには干し肉の欠片。少年の小さな口でも頬張る事が出来そうなほど、小さく砕かれた物。どちらももしもの時の非常食で、大した量ではないが、外に出るには必需品。それを二つとも少年に押し付ける。
「こ、これ……」
「持っていけ」
「でも……」
「少年。言ったろう? その男は無類の子供好きだって。君のような子供が、やせ細ってるのは我慢がならないんだ。彼の為にも貰って、帰り道にでも食べたらいいよ」
笑い声。
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたユーリがシンを見ている。シンはその鬱陶しい気配を隠しもしないユーリの事を完全に無視して、少年に引き攣った笑みを向けた。
「ほら、食え」
べっ甲飴を一つ取り出し、指でつまむ程度のそれをぽん、と少年の口に放り込む。咄嗟の事に対処できず、反射的に口を閉じた少年は、舌先でころりと転がした途端広がる甘みにぱっと顔を輝かせた。
「美味しい!」
「だろう?」
「少年。それは必ず君が全部食べるんだよ」
「え?」
「君はどうも栄養状態が良くない。僕は三日後、君以外に薬を手渡す気はないからね。だから、それらをしっかり食べて、三日後、必ずここに来るんだ。いいね?」
「あ……は、はい……」
くどいほどに念を押すユーリに、少年は少し驚いたように目を見開き、それからしっかりと頷く。
「あの、ありがとう、ございました」
両手に握らされた袋胸にかき抱き、ぺこりと頭を下げる。それを満足げに眺め、シンは少年の頭を一度くしゃり、と大きく撫でた。そうすれば驚いたように跳ね上がる頭。
その姿にシンは、おっとしまった、と手を離しかけ、止めた。そのままガシガシと撫で続ける。
少年の小さな頭を撫でる、少年からすれば大きな手。それをするシンを困惑気味に見上げていた目は、次第に照れくさそうに潤み、そっと伏せられた。
「あ、りがとう、ございます。また、三日後に、必ず来ます」
「おう。待ってるぞ。飴と肉はちゃんと食えよ」
「はい」
口元に僅かに浮かぶ笑顔。それは少年がこの店に来て初めて浮かべた笑顔。それにようやく満足して、シンは手を離した。
「気を付けて帰れよ」
「はい」
お邪魔しました、と今一度頭を下げ、少年は店を出ていく。
夕暮れが間近に迫っていた。
日の色を映し、赤く焼けていく建物の壁を眺め、少年は口の中のべっ甲飴をかみ砕く。甘い、甘い甘い砂糖の味が口の中に広がって、幸せな気持ちになった。それから、もう一つの袋の口を開き、中を覗き込む。ころころと小さな赤茶色の塊が五つ。べっ甲飴同様、指でつまめる程度のそれをそっと取り出した。
鼻を近づけ、スンスン、と鳴らしながら匂いを嗅ぐ。
もう長い事嗅いだことのない、肉のいい香りがした。ぐぅ、と腹が鳴り、口の中に唾液が溢れてくる。
ごくり、とつばを飲み込み、ドキドキしながら口に放り込んだ。口の中に入りこんだ硬いそれを噛みしめた途端、先程とは真逆のしょっぱさが口の中に広がる。
予想外の塩のきつさに目を白黒させつつも、何度も歯で噛みしめた。その度に肉の旨味が後から後から押し寄せてくる。
不意にぽろりと涙があふれた。それをシャツの裾で無理矢理拭いてなかったことにして、家路を急ぐ。
時折干し肉を口に放り込み、路地裏を抜け、目抜き通りを避けるように城壁の方へと抜ける。
夕日に照らされ、影がぐっと伸びていくのを眺め、顔を上げれば、少し遠くに、賑やかな喧噪に包まれた通りが見えた。その頃には干し肉は全て食べ終わっていて、通りから漂ってくる食欲をそそる、何とも言えないいい香りに、いいな、と呟きかけ、慌てて首を左右に振ると、べっ甲飴を口に放り込んだ。
口の中に広がる甘く、幸せな味をしっかりと味わいながら、城門前を俯いて駆け抜ける。そこから反対側の路地裏へと入れば、そこには穴倉のようなみすぼらしい家があった。
家に入る前に口の中のべっ甲飴は噛み砕く。
「た、ただいま……」
朽ちかけた扉をそっと押し開く。
僅かな音も立てないように注意深く開き、成功したのに安堵したのもつかの間、耳に飛び込んできた声に大きく肩を跳ねさせた。
「遅いよ! 何やってたんだい?! まさか遊びに行ってたんじゃないだろうね?!」
「ち、違うよ……ちゃ、ちゃんと、魔法のお店に、行ってきたよ……」
ズボンのポケットに、袋を押し込み、ズボンが膨らんでいない事を確認すると、すぐに薄暗い廊下の先で、唯一僅かな明かりの漏れる部屋へと駆けこんだ。
「た、ただいま、お母さん」
「遅い!」
「ぎゃっ」
部屋へ入るなり、肉厚の掌が飛んできた。それに頬を打たれ、乾いた音が響く。
たまらずよろけた少年は、壁に頭を打ち付けた。薄汚い壁がごつりと鈍い音をたてて僅かに凹む。
少年を叩いたのはえらく恰幅の良い女で、あちらこちらの肉が垂れ下がり、肉のお化けのような、実に醜い女だった。
「ご、ごめんなさい、お母さん……」
叩かれたはずの少年は、すぐにその場できちんと立ち、おどおどと頭を下げる。
もともと薄汚い壁に、赤い色をした汚れが付着していた。しかし、女はその壁にちらりと目をやり、ちっと大きく舌打ちする。
「このグズ! アタシがアンタを吹き飛ばしてケガさせたみたいじゃないか! アンタが勝手に転んだ、そうだろう?! それで?! 魔法の店に行けたんだね?!」
「は、はい」
壁に打ち付けた頭から僅かに血が滲む。しかし、女はそれに忌々しそうに顔を歪めるだけ。少年は女の機嫌を損ねないよう、小さくなりながら頷く。
「薬はどこにある?」
「み、三日後に、取りに来いって」
「いくらだい?」
「お、お母さんが病気だって言ったら、三日後に取りに来いって……代金は何も言わなかったよ……」
「へぇ……?」
ぎらり、と女の目が輝いた。
その顔は明らかに欲にくらみ、歪んだ獣のような醜い笑みを浮かべていて、少年は真っ青になって俯く。
「お涙頂戴の話に、タダにしてくれたのか! こいつは良い! これだからガキを使うのは良い! アンタみたいな貧相なガキ、それだけで同情を買える。まぁもっとも、それ以外役には立たないけどね! 三日後、店まで案内しな!」
「れ、錬金術師さんは、僕に取りに来いって……僕以外に渡す気はないって……」
慌てて顔を上げ、首を振る少年に、女は少々不思議そうに鼻を鳴らした。
「ふん? 何だいそりゃ。まぁいい! なら三日後、しっかり受け取ってきな。あの店の薬は高く売れるんだ。絶対になくすんじゃないよ。ああ、そうだ。お母さんは病弱で、まだ薬は要りそうだっていうのを忘れるんじゃないよ! そうすりゃ、これから定期的にタダで貰って、よそで売りさばけるんだからね」
強欲な女に、それでも小さくなりながらはい、としか答えられない自分の弱さに、じわりと目の前が滲む。
「わかったらさっさと部屋に行きな! アンタは帰ってくるのが遅かったから夕飯は抜きだよ!」
はい、お母さん、と返事をし、少年は薄暗い廊下を抜け、とぼとぼと奥の小さな小さな自室へと引き上げた。
この家に明かりがあるのは女のいる場所だけ。すっかり闇に飲み込まれた真っ暗な室内では何も見えない。何の迷いもなく、箱を二つ並べ、藁で覆っただけのベッドにどさりと寝ころんだ。そういった芸当ができるのも、ここは少年がずっと暮らしている家で、椅子やら何やらと言ったような、進路を妨害するような家具もないからだろう。
脳裏によみがえる、優しい手の感触。
優しい二人の顔。
ポケットの中にねじ込んだ袋を取り出す。その中に残った最後のべっ甲飴を口の中に放り込む。口腔に広がる甘さに涙が滲む。
三日後には、自分によくしてくれた二人に、更に嘘を重ねなければならないのかと思い、少年は涙した。




