赤色セピア
カーテンの隙間から うっすらと光が漏れているから多分5時あたりだろう…
汗びっしょりだけど何故か清々しい気分だ。
シャワーを浴びたいと思ったが浴びようとは思わなかった。
この時間 多分下の階には両親がいるから、僕が大学に通ってると信じてる両親がいるから、クーラーのスイッチを入れて僕はもう一度逃げるように目を瞑った。
ーピピピピピ
目覚ましの音が鳴り響く。
毎朝僕はうるさいな、と思い目を覚ます。うるさくない目覚まし時計に果たして意味があるのか、なんて事は考えてはいけない。
いつの間にやら外はすっかり明るくなって数時間前まで静かだった筈の蝉が思い出したかのように喧しく鳴いている。
7時30分。準備をして出れば丁度約束の時間に彼女の家に着くだろうと思い、誰もいないリビングを通りシャワーを浴びる。
朝起きてすぐに風呂に入るとハゲる。と誰かが言っていたので僕は極力朝に入らないようにしていたが今日くらいは いいだろう…
適当に朝食を済ませてチラリと時計を見る。
8時丁度。うん、いい時間だ。
僕は靴を履き替えて家を飛び出す。まあ飛び出すと言うのは過剰表現で正確にはいつも通り家を出たのだけれど、何故だか知らないが僕の心はそう言っても差し支えないくらいには躍っていた。気を抜けば鼻歌を歌ってスキップしそうになるくらい、はやる気持ちを抑えて僕は努めて平静を保つ。
正直、彼女の家まで30分もかからないので僕は10分ほど早く到着した。8時30分まで待とうと思ったが暑いので僕は耐えきれずインターホンを押す。
ーピンポーン
今日もドアから…ではなく今日はインターホン越しの返事だ。
「鍵空いてるから上がってー」
何かの作業中のようで、ガチャガチャという音がインターホンから聞こえて僕はちょっと嫌な予感がした。
「そんなはずはない、昨日掃除したばかりなんだ…」
そう自分に言い聞かせ僕はドアを開ける。
僕は玄関に入り息を飲んだ。そこには溢れんばかりのゴミ……ではなく"匂い"があった。
ガチャガチャという音はキッチンの方から聞こえる。
恐らく昨日交わした約束のために彼女が作ってくれたのだろう、味噌汁の優しい香りを一杯に吸い込んでみた。腹が減る、朝食はさっき食べたけれど自然と腹が減る。案外僕の胃袋は僕が思っているよりも単純なヤツなのかも知れない。
匂いに吸い寄せられるように僕はキッチンへ向かうと赤いエプロンを来た彼女と目が合う。
彼女は魅入ってしまいそうな程 優しい顔で僕に微笑みかけたが僕は目を逸らす。
「美味しそうな匂い」
そう言ってから自分も微笑んでいることに気がつき、そして驚いた。
笑う事なんてもう無いと思っていたけれど
そうか、僕はまだ笑えたのか、笑ってもいいのか…
「ちょっとそこで待っててねー」
彼女は楽しそうに言う。
さしあたって することの無い僕は椅子に座り、三日前と見違えるほどに変わった部屋をぐるりと見渡すことにした。それより他にすることも無い。
散乱していた絵は綺麗に収納されている。自分の作品はこうあるべきだと僕が言ったのだ。
「ねぇ、いつから絵を描いてるの?」
黙っているのも良くないと思い僕は質問する。
三日間たっても僕は名前を聞けずにいるので"ねぇ"と呼びかけるより他に無かった。もっとも、二人しかいないのだから名前を聞いたからどうと言うことは無いけれど…
「うーんと、確か小学校3年の頃に書いた絵が校内で最優秀賞を取ってそこら辺から描き始めたかな?」
誇らしい経歴である筈なのに彼女は何故か残念そうな表情でそう言った。
描き始めてしまった、 そんな風に僕には聞こえた。
「そっか…」
流石に僕も"最優秀賞!凄いね!"なんて野暮な事は言わない。かと言って粋なセリフを言うほどロマンチックでも無い。
僕が窓の外をぼんやりと眺めていると彼女が料理を運んできた。
「お待たせ!味の保証は…」
3秒程 間を開けて彼女は続ける。
「あるよ!ありまくり!絶対美味しい!」
「あるのかよ!」
思わず突っ込む。あるのかよ、そこは照れくさそうに"味の保証はないけどね"ってはにかむべきだと思う。
そうであって欲しかった…
「だって昨晩から研究した味だもん」
ふうん、と適当に相槌を打ち手を合わせて
「いただきます」
味噌汁を一口"ごくり"と飲み、僕は驚愕する。
彼女は謙虚なんじゃないかと思う、それ程に美味い味噌汁だった。レポーターなら"芳醇な味噌の香りがー"なんて言うのだろうけれど、彼女の味噌汁は言葉では語れない"絶品"以外の言葉が見つからない程のものだった。じんわりと体が、心が温まる。
「めちゃくちゃ美味しい」
我ながら子供のような感想だが、彼女はにっこりと嬉しそうに笑いこう言った。
「愛情がこもってるんだよ、愛情が」
情けない事に僕はたった1杯の味噌汁で涙を浮かべていた。愛情…愛情ね、ダメだ。何だか考えが纏まらない。水を飲んでひとまず落ち着こう、
「泣いてるの?」
彼女が僕に問いかける。とてもじゃないけれど答える余裕がなかった。溢れる涙が止まらない。
僕は訳が分からず混乱する。
彼女は黙って僕の背中をさすった。
僕は涙が止まるのを待つほかになかった。
ゆっくりと時間が流れる、一体どれくらい時間が過ぎたのか僕には分からない。5分かもしれないし1時間かもしれない、もう一度飲んだ味噌汁は冷えてしまっていたけれど僕の冷えた心を温めるには十分だった。
「ご馳走様でした」
僕が手を合わせると彼女はやっぱり嬉しそうに お粗末さま、と微笑んだ。
時間だけが流れる。
やかましく鳴いていた蝉すらもこの時ばかりは空気を読んだのか静かにしている。
部屋に西日が差し込み、燃えるような夕陽を僕は眺める。彼女は僕の隣に座り、そっと独り言のように呟いた。
「私ね、実は××××××の」
そう言ってむけられた笑顔は今にも消えてしまいそうな程儚く、抱きしめたら壊れてしまいそうで、崩れてしまいそうだった。
「……え?」
かすれた声で僕は答える。答えたと言うより、喉から声が漏れただけだった。
時間が止まる。