灰色モノクロ
僕が大学生になって初めての夏休みの事だった。
僕は彼女に出会った。偶然だったのかもしれないし、必然だったのかもしれない、あえて言うならば運命だったのかも知れない。
泡沫の様に儚く、花火よりも切なく、太陽よりも眩しい僕の想い出。
瞳を閉じれば今でも鮮明に思い出せる。決して色褪せない景色がそこに映し出される。
テレビからは毎日酷暑と言う単語が聞こえる。
そんな事は聞かなくても身にしみてわかる。じりじりと照りつける太陽と、焼きつけるアスファルトに挟まれながら僕は図書館へ向かった。
それなりに名の通った大学ではあったが始まって数ヶ月で僕は卒業する気を失っていた。大学に来なくなる生徒には二種類あって、やりたい事が見つかって中退する奴と 単に怠けて廃人になってしまい、留年留年で退学する奴。
その点で言えば僕は紛れもなく後者だ。見つかった訳ではなく、失ってしまった。やる気や元気や本気と言ったいわゆる前向きな感情とやらを…
そもそもそんな感情なんて持ち合わせていなかったのかも知れない。
そんな訳で僕は大学へ通うふりをして朝っぱらから図書館へ向かい、夕方になったら帰宅する生活を二ヶ月ほど続けていた。
夏休みに入ってもやはりする事はなく、家にいるのも嫌なのでいつもの如く僕は図書館へ向かうのだった。
その日に限って図書館は閉まっていて涼む場所もなく行く場所もない僕は木陰にあるベンチでしばらく休憩することにした。
その時、
「蝉ってさー暑い暑い!って言ってる様に聞こえない?」
近くでそんな声が聞こえた。よく通る女性の声だ
「図書館閉まってるから路頭に迷ったの?」
また聞こえる。質問された側は答えないようだ。
これじゃ彼女が少し可哀想だな、返事くらいしてあげればいいのに…
誰かが僕の肩をポンと叩く。
「ねぇ 聞いてる?」
"質問された側"とはどうやら僕の事だったらしい。
それにしても誰だろうか?会った記憶は無いけれど…
恐ろしい程の美人がそこに居た。
「えっと、多分人違いですよ」
「人違いも何も私は君を知らないんだけどね、それとも人じゃ無いって事?」
そんな事有ろう筈もございません。
僕は多分生物学上、紛れもなくヒトだ。バカバカしくなってきたので僕は答えない。
彼女は僕の隣に座り、
「あまりの暑さに溶けちゃいそうだよ」
果たして意味があるのか微妙なところだが彼女はパタパタと手で扇ぎそんな事を言った。
「酷暑だからね、無闇に無意味に出歩かない方が良いってニュースで言ってたよ」
「それってお互い様じゃない?君も意味無く出てきんでしょ?」
「僕は図書館に用事があったから目的はあったよ」
この会話自体に意味が無いように思えてきたが僕は一応反論する。
「図書館に行くって事は暇なんだよ。暇潰しに図書館に来て暇を潰せないんならそれこそ無意味の極地だよ」
図書館に来るのが暇かどうかはさておき、僕の場合確かに当てはまっていた。暇を潰せないからこんなところで休んで居るんだ。僕は何も答えずに遠くに見える入道雲を眺める。
「あー!もう!暇潰しに出かけたんだからちゃんと暇潰そうよ!」
急に彼女は立ち上がる。
ちゃんと暇潰すって何だろう?ひつまぶしって言うつもりだったのだろうか、ちゃんとひつまぶし?それにしても文章がおかしいよな、
「うじうじしてないで行くよ!」
僕は見ず知らずの美女に手を引かれて歩き出す。
されるがままに僕は側から見たらカップルに見えるんだろうな、なんて馬鹿な事を考えていた。
「私ね、絵描いてるんだけど観る?」
美しい人が描くのだからさぞかし美しいのだろうなと思い承諾。実際何を言われても僕は断らなかっただろうし、彼女も僕が断っても連れて行くように感じた。
再び 熱と熱にサンドイッチされながら僕は彼女の家に向かった。図書館から小走りで約15分、僕が卒業した小学校の近くにその家はあった。
見た感じ僕とそれほど歳も変わらなさそうだしもしかしたら小学校や中学校の廊下ですれ違っていたかもな…
いや、それは無いな。無いと断言できる。
こんな超絶美女と同じ学校に通っていて気付かない訳が無い。QED
そんな事はさておき、彼女の家はやっぱり綺麗でどこか気品すら漂っていた。まあ9割ほど偏見だが、感情を切り捨てて説明するのであれば割とどこでも見かけるような新築らしい家 だった。
「本当に入って良いの?もしかしたら僕は快楽殺人者かも知れないし、通り魔かも知れないよ?」
見ず知らずの男をいきなり家に上げるなんて危機管理能力が低い。低すぎる。無いといっても過言では無い。
「そうなの?」
「違うけど」
「じゃあ大丈夫!上がって上がって」
何かを諦めた僕は黙ってついて行く。
「お邪魔します」
と玄関をくぐると酷く閑散とした空間が広がっていた。なんと言うか空気が息をしていない、死んだ空間が広がっていた。
確かに空気が死んでいた。家に住んでいれば大体匂いが染み付くものだ。それは新築であれ旧宅であれ何かしら匂いがするものだ。
彼女の家にはそれは無く、無臭。涼しいと言うより悪寒、ともかく早く出たい とそう思った。
「私一人で住んでるんだちょっと汚いけど まあ気にしないでー」
一人で暮らしているのに二階建てか…多分実家が金持ちなのだろう、
「ん?なんか言った?」
「いや、何も。ところで二階も君の部屋?」
「そりゃそうだよ知らない人と暮らすなんて無理無理。二階は失敗作の絵を置いてるの」
知らない人を部屋に上げている事については後でじっくり聞くとして、失敗。失敗ねぇ……
部屋の奥に進むと確かに絵が沢山あった。それはもう山の様に、山みたいに乱暴に積まれていた。
「結構横暴に扱うんだね」
「一生懸命描いたのに途中まで満足だったのに完成すると"コレじゃない"って気がするんだ」
どれもこれも上手い。確かに凄く上手なのだけれど酷く冷たく感じた。もっとも、使われている色が白と黒だけ。というのもあるだろうけど…
いくつか破れたりしているけどその殆どがあの図書館の景色だった。
「図書館にはよく行くの?」
足元に落ちていた絵を一つ拾い上げて僕は聞いた。
「ほぼ毎日ね。だから君の名前は知らないけど顔は知ってるよ」
そういう事だったのか、彼女にとって僕は全くの見知らぬ人と言うわけでは無かったらしい。それでも家に上げるのはどうかと思うが…
「それで絵を見てどう思った?」
と彼女が聞く。
酷く答えにくい質問だ。どんな答えを求めているのか、あるいは何も求めず単に感想を聞いたのか…
「少し悲しくなった」
「そっか!ありがと」
決して褒めたわけじゃないけれど彼女は嬉しそうに、満足そうに、この部屋に似つかわしくない眩しい笑顔でそう言った。
これがお互いの名前も知らない僕と彼女の奇妙な七日間の始まりだった。
その日は結局夜遅くまで絵について語り合い、絵の評価はこうあるべきだ。とか 絵を鑑賞するツールが欲しい。とか そんな他愛もない話。
次に会う約束もせず、連絡先も交換せず、名前も聞かず、じゃーねと別れの挨拶だけ交わして彼女の家を後にした。
次の日、僕はやっぱり図書館へ向かった。
彼女に出会うまでは僕は昨日の事を忘れていた あるいは意識していなかった。それほどまでに図書館通いは僕にとって日課になっていた。
「やっぱり来た!昨日あの後絵を描いたんだけど観に来ない?」
昨日と同じような誘い方だった。
と言うかあの後に描いたってことは、夜中の2時ごろから描き始めたって事か…それで今は朝の10時。
どれくらいの時間描いていたのか分からないけれどあまり寝ていないことは確かだ。
「君はとにかく寝た方がいいんじゃない?クマができてるよ」
「そりゃ 傑作だからね」
正直なところ、あの家に入るのは避けたかった。曲がりなりにも生きている僕にとって死んだ空間は苦痛でしかなかった。こんな事を言うとまるで彼女が生きていない様だがこうして僕の手を引いて歩いている限り生きていることに違いないのだけれど…
あの空間を生みだした彼女も異質である事は確かだ。
「お邪魔します」
昨日よろしく 僕もそう言って玄関をくぐる。
気のせいかも知れない、僕が慣れただけなのかも知れないが昨日よりも息がしやすい。
背にのしかかる重圧感はあるけれど昨日程じゃない。
「こっちこっち」
奥から彼女の声がする。
確かにそこには昨日見た記憶のない絵が飾られていた。同じ図書館の絵だけれど空に色が塗られていた。
緑色の空。何も塗られていないものや真っ黒だったり灰色だったりする中で緑色が妙な存在感を放っていた。
「君と出会ったから描けた絵だよ」
そう言って彼女は自慢げに絵を掲げてみせた。
「何もしてないけれど力になれて良かったよ」
と言うと彼女は恥ずかしそうに えへへ、と笑った。
僕はその絵を見てふと疑問に思う、
「空って自由なイメージがあるのにどうしてマイナスイメージの言葉が多いんだろう」
「そうだっけ?」
「空虚 空論 空言 空しい 空々しい エトセトラ エトセトラ」
言われてみれば、と彼女は首をかしげる。
「でも急にどうして?」
「絵を見て思っただけ」
なんとなく緑色の空については触れないでおこう。
「ねぇ、明日も来てくれると嬉しいんだけど」
「暇なら来るよ」
別に断る理由もなく、了承する理由もなかった。
暇が潰せればそれで良いし強いて言うならあの家に入らないで済むのならそれに越した事はない。
あぁ、そうだ!掃除でもすれば良いのか、空気の入れ替えでもすれば少しはマシになるだろう
「…急にどうしたの?何か閃いた顔してるけど」
僕はふと我にかえる。よく考えてみれば見ず知らずの、昨日知り合ったばかりの女の家を掃除するなんて流石にやり過ぎだろう、遠回しに聞くか。
「いや、部屋の掃除とかしないの?」
「うーん、面倒だしなー それに客が来る訳でもないし」
「今まさに客が来てるんだけど…まぁいいや何なら明日手伝うよ」
「ほんとに!?助かるよ」
よし、自然な流れ。
僕と彼女は明日の10時に図書館で待ち合わせをして、僕は自分の家に帰った。どうみても寝不足の人を前にして長居しない程度の常識は身につけているつもりだ。
それにしても…彼女は一体何者だろう?
多分四話くらいで完結すると思います