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ある恋の終わり

作者: 大野サクラ

「ラピス!!」


 とある平和な昼下がり、燃えるような赤毛に黄金の瞳を持つ図体のでかい男が、ノックもなしに修復室に飛び込んできた。幼馴染みのキースだ。一人きりの部屋、窓際で異国の薬膳茶片手に、最近祖母から引き継いだ魔導書を読み込んでいた私は、カップを落としそうになるのを寸前のところでこらえる。

 いつ視察から帰ってきたのとか、急にびっくりするじゃないとか、幼馴染だろうとノックはしてとか、いろいろ言う前に、彼は騎士団の正装のまま泣きそうな顔でこちらへやってきて、私を強く抱きしめた。

 カップは床に落ち、割れて、中のお茶は床に広がった。

 おいおいお茶がこぼれちゃったよ。なんて、くだらない冗談が咄嗟に頭に浮かんだ。しんみりした空気を打ち払うためにも、一発かましてやらねば。

 そう思って口を開いたのに、開いた口からは思ったよりも弱々しい音が出た。


「キース、お茶が……」


 名前を呼ぶと彼の腕に込められた力が強くなる。


「馬鹿野郎……」






【ある恋の終わり】






 彼に出会ったのは、私が6歳の時だった。

 やけに可愛らしい洋服を着せられ、くせの強い髪を痛いくらいにしっかりまとめられて、おばあさまに連れられた部屋。中には若い夫婦と、小さな男の子が立っていた。


「彼はヴィスタ・ドリビア。あなたの婚約者よ」


 目の前に立つヴィスタは同い年という割に、ずいぶん大人びて見えた。人形のように整った顔に、美しい花のような笑顔を浮かべた彼には、余裕さえ感じた。結婚の意味もまだはっきりと理解できず、どうしていいのか分からないまま、おばあさまの背中にしがみつく私とは違って。


「さあ、ラピス。挨拶なさい」


 おばあさまが何度も背中を押した。けれどなんだか恥ずかしくて、少し怖くて、一歩が踏み出せない。

そんな私を見て、ヴィスタは肩の高さで切り揃えられた艶やかな白銀の髪を揺らし、こちらへと手を伸ばした。


「ラピス。挨拶を」


 わずかに語気を強めたおばあさまと、笑みを深くしたヴィスタに促されるままに、その手を握った。


「これからよろしく。ラピス・シュガー」


 ヴィスタの手は冷たかった。

 手を握ると、さっきまでの不安が少しだけ和らいだような気がした。けれど、改めて近くで見たヴィスタは、やっぱりどこか別の世界の美しい生き物のようで、どっと汗が噴き出す。


「よかったわ。これで、我が家も安泰ですよ」

「ええ。こちらこそ安心しました」


 すぐそこで聞こえるはずのおばあさまと、ヴィスタのお父様との会話が、なんだかひどく遠くの音に感じる。言いようのない不安で足元がふらつきそうだった。


「……大丈夫だよ」


 ふっ、と。手を握る力が強くなった。

 はっと顔を上げると、そこには別の世界の美しい生き物のヴィスタではなく、年相応の悪戯っぽい笑顔を浮かべたヴィスタがいた。


「大丈夫」


 なにが大丈夫なのかは分からなかったけれど、その一言で私の心は不思議と落ちついた。


「……ありがとう」

「うん、いいよ」


 ヴィスタはもう一度私の手を強く握ってから、そっと離した。


 心が小さく音を立てた。

 それが恋の始まりだったと気が付いたのは、もう少し後になってから。





 それから12年。ヴィスタは『探さないで欲しい』と言う短い置手紙だけを残し国を去り、ヴィスタが去った夜、おばあさまは亡くなった。




 ***


「とにかく、話そう」


 腕の力を緩めたキースはそう言って、私の腕を引いて立たせようとした。


「いや、まだ仕事が……」

「は?」


 キースは、怒ったような信じられないものを見るような目で私を見て、深いため息をつく。


「そんな場合じゃないだろ」

「いや、でも、ほら、見てよ、私の机の上。あの書類の山。最近魔道書院で雨漏りがあってさ、修復した魔導書の報告書が溜まってて……」

「見えてる。でも、そんな場合じゃないって言ってんだよ!」


 もう一度、痛いくらいの力で腕を引かれ、その場に立たされる。

 魔道書院の修復師である私と、若くして騎士団の副隊長を務めるキースの腕力の差は歴然だ。私は仕方なく仕事を放置し、彼の腕に引かれるまま部屋を出た。


 ドアを開けると、その前にいた城のメイド達やら衛兵たちが慌てて散っていく。普段、この辺りにこんなに人はいない。おそらくキースが私のところに来るのを見て、こんな城の端の端まで、みんなわざわざやって来たのだろう。人の好奇心というものは恐ろしい。

 キースは目をまん丸に見開いた後、わなわなと震え、雷のような声で「ふざけんな!」と怒鳴った。


「盗み聞きなんて……クソが……」

「まあまあ、キース。そんなに怒らなくたって。平和なこの国で久しぶりに起こった事件だからね。みんな気になるんだよ」


 キースは何か言いたげにこちらを見たが、結局何も言わずに、大股で廊下を進んでいった。




 私とキース、そしてヴィスタはいわゆる幼馴染みというやつだ。特に、私とキースは元々親同士の仲が良く、ヴィスタと婚約する前からお互いの家を行き来していた。

 同じ歳の私たちは、自然と3人でいることが増えた。城の裏手の小さな森の中にある古い衛兵の訓練場は、私たちの秘密基地だ。ここで3人、よく本を読んだり、お菓子を食べたり、くだらない遊びをした。

 実際のところ誰でも来られるところだし、秘密でもなんでもないのだが、わざわざこんなところに用事のある人間はほとんどいない。


 今日も、私たちの秘密基地に人気はなかった。

 訓練場を囲む木々が風に揺れる音がやけに大きく聞こえる。


「で、」


 訓練場の真ん中辺りで立ち止まったキースは、ようやく私の手を離した。振り返り、こちらを見た彼の眉間には深い皺が寄っている。


「説明しろよ、ラピス」

「説明? あんなに血相変えて部屋に飛び込んできたってことは、もう聞いたんでしょ」

「はぐらかすな」


 言葉尻を待たずに強い語気で尋ねられ、私は笑うしかない。


「説明もなにも……多分、キースが聞いたことそのままだよ」


 強い風が周囲の木々を揺らし、足元を枯葉が滑るように転がっていく。


「ヴィスタは私との婚約を破棄して、多分、酒場で会った“彼女”と駆け落ち。そして、ヴィスタがこの国を去った夜に、おばあさまが亡くなった。それだけだよ」

「……それだけ?」

「うん。それだけ」

「……っ、ふざけんなよ!」


 キースの手が勢いよく私の肩を掴んだ。痛いくらいに、指が食い込む。


「なんだよ……お前……なんで、なにが、なにが“それだけ”だよ」


 体を前後に揺さぶられながら、目の端でキースが泣いているのを見た。


 ずるいなぁ。

 まさか人生で初めて見る幼馴染の泣き顔が、こんな瞬間だなんて。


 ようやく体の揺さぶりが止まると、今度は強く体を引かれた。くそ、と誰に向けたのか分からない悪態が降ってきて、鼻の頭が分厚い胸板に当たる。キースは体温が高くて、ちょっと汗の匂いがする。ヴィスタと、全然違う。

 ……ああ、やだな。こんな時まで、無意識に彼と比べてしまった。バカみたい。笑える。


「……ありがとね、キース」


 私の代わりに、泣いてくれて。




 ***


 “魔法使いは魔法使いと結婚を。”

 おばあさまは、ずいぶん昔に廃れたそのしきたりを、強く守っている人だった。


 シュガー家は今ではずいぶん数の減った純血の魔法使いの家系で、それゆえに名家とも呼ばれていた。そして、おばあさまの純血へのこだわりは、おばあさまの子供、つまり私の両親が事故で亡くなった時から、より強固なものになった。

 仕方ない。だってシュガー家の血を継ぐ純血は、おばあさまのほかには、もう私しかいないのだから。


 魔法は血で使うもの。強い魔法使いと強い魔法使いから生まれた子は、強い魔法使いになる可能性がとても高い。シュガー家もそれにもれず、代々優秀な魔導士として城に仕えてきた。それを私の代で途絶えさせるわけにはいかないと、両親が亡くなって半年もしないうちに私は、同じく純血のドリビア家の次男であるヴィスタと婚約したのだ。


 ただ、“婚約者”なんて仰々しい名前が私たちの関係に付けられても、私たちが急に恋人らしくなることなんて、当然ない。なんせ当時6歳の子供同士だ。

 私たちはよい友人として穏やかな子供時代を過ごしていた。




「ほら、ラピス見て、昨日覚えた新しい魔法なんだ」


 ある日、ヴィスタは訓練場の石畳の隙間から生えた小さな植物の芽に手をかざした。次の瞬間、芽は一気に成長し、美しい赤い花を咲かせた。


「すごい……」


 それは、いくつかの魔法をかけ合わせたもので、さらに魔法陣を描かない無描魔法だった。

 私には、いや、この国の多くの魔導士にだって扱うことができないだろう。


「ど、どうやって」

「ん? 魔道書院から借りた古い魔導書にやり方が魔導書に書いてあったから、その通りにしただけだよ」


 ヴィスタは当然のようにそう言って、不思議そうに小首をかしげた。

 なぜ私が、そんなことを疑問に思うのか、分からないとでも言うように。


 私はその瞬間、ヴィスタの才能を思い知った。

 

 ヴィスタは名門ドリビア家の子息にふさわしく、とにかく優秀で、優等生だった。

 難しい魔導書片手に新しい魔法をどんどん覚えて、すぐに魔導士長や国王陛下にも一目置かれているような存在になり、10歳の時には見習いとして、城の仕事を手伝うようになっていた。

 誰もが『100年に1人の天才だ』とヴィスタを称えた。


 美しい容姿に、抜群の才能、地位。彼は誰もがうらやむものを持つ、完璧な人間だった。

 けれど彼は歳を重ねるごとに、なぜだか退屈そうな顔をすることが多くなっていった。


「ねぇ、ヴィスタはさ、なにか好きなことはないの?」


 14か15の頃、私はヴィスタにそう尋ねたことがある。

 城の魔導士の見習いになった私が、教官から与えられた宿題を秘密基地で手伝ってもらっていた時のことだ。

 ヴィスタは一瞬面食らったような顔をしてから、難しそうな顔で口元を抑えた。


「好きなものか……うーん……」

「なんでもいいよ」

「えー……じゃあ、逆に、ラピスは何が好き?」

「私?」


 私は頭に浮かんだものを片っ端から並べた。


「マシュー料理長の作るデザート、街外れのコルトさんのパン、天気のいい日、青いスカート、干したてのシーツ」

「たくさんあるね」

「あ、あと、もちろんキースも好きだよ。口悪いし、乱暴者だけど、面倒見がいいところとか、実は優しいところもあるし」

「確かに、キースは人情味があるよね」

「ヴィスタも好き」


 流れでさらっと言ってしまえばそんなに恥ずかしくないんじゃないか、と思った。けれど、やっぱり恥ずかしい。不自然に落ちた沈黙で、頬に熱が集まる。

 横目でヴィスタを見れば、どこか困ったような笑みを浮かべていた。


「……うん、僕も」


 頬に寄せられたキスで、熱が冷える。


 “うそつき”


 頭に浮かんだその文字を、ぐっと飲み込む。


「僕も好きだよ」


 彼はそう言ったが、私には分かる。

 ヴィスタの好きは、私の好きの重さには到底足りない。

 私は大人になるにつれ、次第に理解し始めていた。ヴィスタが私に向ける“好き”は、“魔導書を読むのが好きだよ”と同じくらいの重さだと。彼にとって私は、なくてはならないものではないのだと。それどころかーー。

 これ以上そんなことを考えていたくなくて、質問を変える。


「じゃ、じゃあヴィスタ。楽しいことは? なにをしてるときが楽しい?」

「え? どうしたの、今日は質問魔だね」

「いいから教えてよ」


 ヴィスタはしばらく唸った後、「難しいな」と答えた。


「いろいろあるよ」

「いろいろ?」

「多分、いろいろ」


 具体的には? と聞こうとしたとき、背後からヴィスタを呼ぶ声があった。騎士団のずいぶん偉い人だった。私はすぐに立ち上がり、深く礼をする。


「邪魔をしてすまないね。シュガーさん。ヴィスタを借りてもいいかな?」

「あ、はい。もちろんです」

「ヴィスタもすまないね」

「いえ。ごめんね、ラピス。また明日にでも」

「うん」

 

 立ち去る二人の背を見送ったあと、私はちっとも進まなかった教官からの宿題に視線を落とした。


 この時、ヴィスタはすでに正式な魔導士として働き、ずいぶん難しい案件を担当しているようだった。私はもう、ヴィスタがどんな仕事をしているか知らない。

 私はヴィスタが10歳の頃にマスターした魔導書の魔法を、まだ使えない。『純血の名門、シュガー家の一人娘はあまりできがよくない』という噂を聞いたことは一度や二度ではない。『あれほど完璧なヴィスタとラピスでは、あまりに不釣り合いなのでは』という直接的な言葉を聞いたこともある。

 ヴィスタの両親は、100年に一度の天才とこんな落ちこぼれを婚約させたことをひどく後悔していて、もっとできのいい女性を宛がおうと裏で必死に画策しているのも、それをヴィスタがなんとか言いくるめているのも、私は知っている。


「ラピス。もっと努力しなさい。ドリビア家の次男に釣り合うような完璧な人間にならなければいけませんよ。あなたはシュガー家の最後の一人になるのだから」


 と、おばあさまは何度も何度も、強く言った。その言葉を聞くと、足元がぐらぐら揺れるような感じがした。その度、私はヴィスタが最初にくれた言葉を思い出す。


『大丈夫だよ』


 その言葉だけが、私の心を支えてくれる。


 でも、時々思う。

 ヴィスタは?

 

 ヴィスタは大丈夫なのだろうか。

 彼は完璧に見えて、でも、ちっとも完璧じゃない。どれだけ素晴らしい魔導士でも、いつも退屈そうで、どこか寂しそう。私がいつも見ているヴィスタはどこまでも表面的で、その分厚い表面の奥はまるで空っぽみたい。


 ねえ、おばあさま。ヴィスタは幸せになれると思う?

 私はヴィスタを幸せにできると思う?




***


 机の上に溜まった書類に目を通しながら、体を大きく伸ばす。ついさっきまで朝だったのに、気が付いたらもう太陽の位置は随分と高い。

 疲れを押し出すように息を吐くと、見計らったようなタイミングでドアが開いた。


「よお」


 キースは軽く手をあげると、ずけずけと修復室の中へと入ってきた。濃紺の隊服に身を包んだ彼は、今日も仕事らしい。昨日長期の遠征から戻ったばかりでご苦労なことだ。

 そのままテーブルに腰かけ、彼はこちらを見下ろす。


「ちょっと」

「あ?」

「いつも言ってるけど、ちゃんとノックして入ってきて。それから、机の上に座らないで」

「ラピス、飯行くぞ」

「あのさぁ……」

「飯」

「……あと、ちゃんと人の話、聞いてよね」

「へいへい」


 気の抜けたような返事が返ってきて、ため息を一つ。キースは頑固だ。こうなってしまえば私の話など聞かない。仕方なく立ち上がり、彼の後ろを歩いた。

 最低限の荷物を持って向かうのは、魔導士達にはあまり馴染みのない、騎士団の隊舎にほど近い場所にある食堂だ。

 中では数人の、騎士団の若い隊員が食事をしている最中だった。キースがそちらを見る前に、彼らは立ち上がり「キース副隊長、こんにちは!」とはじけるような笑顔で挨拶をした。


「元気だね」

「見習いだ。今、俺が預かってる」

「面倒見のいいことで」


 食事を受け取り、窓際の机に腰を下ろす。正面の席に座ったキースのトレーには信じられないような量の食事が載っていた。


「よくそんなに食べられるね」

「あ? お前が食わなさすぎなんだよ」


 そう言うと、キースはやたら分厚い肉の塊を私の皿の上に乗せた。

 それをすぐにフォークで刺して彼の皿の上に戻す。


「いや……食べられないから」

「食えよ」

「むり」

「最近ちゃんと食ってねぇだろ。随分痩せた」


 どこか心配そうな彼の表情を見てしまうと、もう受け入れるしかない。

 渋々口に運んだ大きな肉の塊は、私の胃には少々重たい。残してしまおうか、と一瞬思ったが、心でも読んだかのように「無理してでも食えよ」と言葉が飛んでくる。


「キースはさ、いろいろ目ざといよね」

「……別に、お前、昔から分かりやすいからな」


 キースはそう言って口の端を吊り上げた。

 たったそれだけのことなのに、なぜか鼻の奥がつんとする。ごまかすようにスープを流し込んだ。


「残さず食えよ」

「急にお母さんみたいだね」

「ばぁか」


 小さく笑って、食事を口に運ぶ。

 スープは暖かく、サラダは新鮮。肉と野菜の煮込み料理もおいしい。こんな風に、誰かと笑いながらゆっくり食事をするのは久しぶりだ。ここ最近はいろいろと立て込んでいて、食事を抜くことも多かった。食べ物ってこういう味だったなと、思い出したような感じがする。


「あっ」


 間の抜けた声が、食堂中に響いた。顔を上げると、政務官の制服を着た男性がこちらを指さして見ていた。

 当然、面識はない。

 すぐに彼の隣に立っていた別の男性が「ばか」と脇腹あたりを小突く。政務官の男性は慌てて口を押えると、逃げるように食堂から出て行った。


 彼がなぜ私を指さしたか、誰もが理解していた。食堂を覆う、重たい空気がその証拠だ。私とヴィスタの件は、もう誰もが知っている。


「……なんか、ごめん」

「……なにが」

「今みたいなの、気まずいよね」

「別に、気まずくねぇよ」


 呆れたようにそう言って、大きな口で肉を平らげる。見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。

 ヴィスタは小食で、食べ方も上品この上なかったので、いつも少し緊張したな。

 口の端に小さな笑いが浮かんで、すぐに「なに考えてるんだろう」と虚しくなった。ヴィスタの婚約者として過ごした12年はどうやら骨の髄までしみ込んでいるらしい。


「……おい」

「ん?」

「明日は仕事か?」

「うん。仕事だけど……」

「じゃあ、明日も迎えに行く」


 その言葉の意味が分からず首を傾げる。


「明日も、一緒に飯行こうって意味だよ」

「あ、うん。別にいいけど」

「明後日は仕事か?」

「え? う、うん」

「じゃあ明後日も」

「は?」

「つーか、お前が仕事の日は、これから毎日俺と飯な」


 なに言ってんの。

 と、彼の突拍子のない発言に笑った。冗談だと思っていたのだ。

 次の日、前日と同じ時間に、「おう」とキースが私の作業室にやってくるまでは。


 それから、言葉の通り、キースは毎日決まった時間に私を連れ出しにやってきた。あるときは騎士団の隊舎近くの食堂で、時には彼には似合わない城下のカフェで、私たちは一緒に昼食を食べた。

 食事代はまさかのキース持ち。最初はラッキーと思っていたが、それが1週間続いた辺りからさすがに申し訳なさが勝った。


 その日、「めし」とぶっきらぼうに迎えに来たキースを「今日はサンドイッチ作ってきたから、ここで」と修復室の窓際に用意しておいた椅子に案内した。


「汚くてごめんね。いま、立て込んでて」

「別に」


 キースは机の上に広げてある魔導書を不思議そうに覗き込んだ。

 今修復しているページは、真っ二つに裂けている。


「分かんねーな。これくらい、適当に張り付ければいいんじゃ、とか思うけど、そうじゃないんだよな」

「まあね」


 魔導書は主に魔法を使うのに必要な魔法陣について記された本だ。

 魔法陣は、一見ただの黒い線で描かれた円形の模様。魔力の一切ないキースが、破れたページをそのまま張り直せばいいと言いたくなるのも、よく分かる。

 けれど、魔導士が魔導書に残す魔法陣は、自らの魔力を込めた特殊な筆で描いたもの。その書き順や線に込めた魔力の量が、魔法の質を大きく左右する。

 私たちは魔導書を見て、その線に触れ、それがどんな魔法なのかを本質的に知ることができるのだ。


「正しい順番で、正しい形で繋いであげないと、もうこの魔法陣は二度と正しく発動できないから」


 裂けた部分をなぞり、そこに残った古い魔導士の魔力を感じる。かなり強い魔導士だったのだろう。その魔力は数百年もの時間を経ても、強い輝きを持っている。


「これは、二つに裂けてるだけだから直すのはまあまあ簡単だよ。一日もあればきれいに直せる」


 キースは私がなぞった部分を追うようになぜ、小さくため息をついた。


「よく分かんねぇけど、すげーことやってるよな」

「やってないよ。魔導書の修復師なんて、閑職だよ。だからこんな人気のない、城の端っこで仕事してんじゃん」


 魔導書の修復師は、あってもなくても困らない仕事だと言われていた。現に、私が正式に修復師になる前の5年間は、修復師はいなかった。毎日決まった量の仕事があるわけでもないし、それぞれが適当に、自分で破損させたものは自分で直していたのだ。それでも、問題はほとんどなかった。

 そんなあってもなくてもいい修復師。ゆえに歴代の修復師たちは、名門貴族の問題児だとか落ちこぼれが、マイペースにしていた仕事だ。


「現代魔法は無描無詠唱が基本だし、とにかく威力の大きなものを速く発動させるっていうのが大切だからさ、魔導書なんて見習い魔導士の指導でちょろっと使うか、超昔の古代魔法を解かないといけない時とかくらいしかお役目がないからね」


 だから、私が歴代の修復師達のように「落ちこぼれだ」と言われるのは仕方のないことだ。


「……仕事がつらいか」


 魔法陣をなぞっていた指先に、キースの大きな手が覆いかぶさる。見上げると、彼の眉間にはわずかに眉が寄っている。


「……大丈夫だよ」


 最近こんな顔ばかりさせているなと思うと、苦い笑みが自然と浮かんだ。


「まあ、いろいろ言われることもあるし、この仕事をしていて、いつも幸せな気持ちでいられるわけじゃないけどさ」


 キースの手を握り返す。彼の手はとても熱い。魔力は感じないけれど、私はこの手が嫌いじゃない。


「でも、私は、請け負った仕事は最後まで丁寧にやろうと思ってるよ。細かいことはわりと好きだし、勉強になるし、まあまあ楽しいよ、この仕事」

「……そうか」


 キースはどこか嬉しそうにそう言うと、私の頭を、子供を褒めるときのように豪快に撫でた。


「ちょっと!」

「あ、わり、つい」

「ついって……ていうかさ、話は変わるけど」

「ん?」

「毎日こんな風に食事に誘ってくれるのは嬉しいけど、こんなこと続けてたらキースまで変な目で見られるよ?」


 キースは大きな口でサンドイッチにかぶりつきながら、「別に」とぶっきらぼうに返した。キースに倣って、私もサンドイッチを一口ちぎって口に放り込む。


 別に、なんてキースは言うけれど、城で働く人々にとっては「別に」ではない。最近、噂になっているのだ。『キース・タンザライトは、ヴィスタなき後、ラピス・シュガーを振り向かせようと必死だ』と。

 こんなとんでもない噂が城の内外に流れてしまっては、キースが婚期を逃しかねない。


「どう見られたってかまわないし、言わせたいやつには言わせとけばいい」

「よくないよ。引きこもりみたいにここで仕事してる私と違って、キースは表に出る仕事なんだしさ」

「俺は気にならねーよ」


 この話はここで終わりだと言わんばかりの、ぴしゃりとしたもの言いに、私は続けようとしていた言葉を飲み込んだ。

 不機嫌そうな横顔に、私は小さくため息をついて、棚にしまってあったとっておきの茶葉で紅茶を入れた。ほとんど使っていない来客用のカップでキースの前にそれを置く。


「……昔っから面倒見がいいよね、キース」


 キースは何も言わず、紅茶を飲んだ。


「放っておけばいいのに」

「……別に。俺は昔からやりたいように、やってるだけだ」


 多めに作ったサンドイッチは、あっという間にキースの大きな口に飲み込まれた。

 窓の向こうでは、木々が静かに揺れている。




***


 非番の日を利用して、おばあさまが住んでいた家へと戻ってきた。今はもう家主もおらず、使用人もいない。美しく刈り込まれた植木や、満開だった花は見る影もない。


「本当に売るのか」


 隣に立っていたキースが、そう問いかける。


「うん、一人で住むには大きすぎるし」

「そうか」

「うん。今の宿舎で充分だよ」


 魔導書の修復師に任命されたとき、家を出た。おばあさまは私を止めなかった。今は、城で働く人間に与えられる宿舎の一室を使っている。

 おばあさまが亡くなった後、生まれ育ったこの家に戻るかどうか悩んだが、結局は古くからうちと付き合いのある商人に譲ることにした。私にはシュガー家を一人で背負うだけの力量はないし、実際のところ、純血を守ることにおばあさまのような熱もない。


「俺は、お前がそう決めたなら何も言わない」

「うん、ありがとう」

「……なんの礼だよ」

「一緒に来てくれてありがとうのお礼だよ。一人で来たらさすがに泣いてたかも」


 純血を守ることに熱はないが、それでも多くの思い出の残った家を売ることに罪悪感がないわけではない。正直、今も、迷いはある。多分、一人だったらこの迷いに飲まれていただろう。

 一人じゃないというのは、心強い。


「泣きたいなら泣けよ」

「泣かないよ」

「……そうか」


 彼の大きな手が頭に乗った。それ以上、キースは何も言わなかった。


 しばらくしてやってきた商人への家の譲渡は、滞りなく進んだ。彼は何度も「大切にするよ」と言ってくれた。「いつでも遊びに来ればいい」とも言ってくれたが、多分私は行かないだろう。

 お金は必要最低限だけ受け取って、残りは寄付することに決めていた。寄付先と金額の振り分けを記したメモを手渡し、鍵を渡してそこから去った。


 名門シュガー家のラピスは、もういない。


「なんかすっきりしたな」


 街の中を歩きながらぽろりとこぼした言葉で、キースの視線がこちらを向いた。


「さみしいけど、すごくすっきりした」

「……よかったな」

「うん」


 キースが「よし」と私の肩に手を置いた。


「どっか行くか」

「どっかって?」

「あ? いろいろだよ」


 そう言って、キースは不敵に笑った。


 まず連れてこられたのは、街の酒場だった。キースは信じられないような大きさのグラスで酒を頼み、たくさんのつまみをテーブルに並べさせた。「好きなだけ飲んで食えよ」との声に促され、私たちは昼間から酒を浴びるように飲んだ。

 足元がふらつくまで飲んで、次に向かったのは大道芸の行われている広場だ。そこで様々な芸を見て、腹を抱えて笑った。

 「なんでも好きなもの買ってやるよ」と言われ、いろいろな店を見た。「さすがにそれは悪い」という私に、キースは半ば無理矢理洋服やら靴やらを試着させ、結局それらすべてを買い取った。宿舎のクローゼットに入るだろうか。

 いろいろな店を見たり、買い食いしたりして、一日はあっという間に過ぎた。


「き、気持ち悪-い!」


 今更になって回ってきたお酒で胃の辺りが重い。耐え切れなくなって花壇の縁に腰を下ろす。キースは「なんだよ、やわな体だな」とか面倒くさそうに文句を言っていたが、結局出店で水を買ってきてくれた。

 手渡されたコップの中には、鮮やかな色の果実が輪切りになって入っている。


「こんなしゃれた飲み物をキースが買ってくるなんて……」

「んだよ、文句あるか?」

「ないです」


 彼に似合わない可愛らしい飲み物を一口飲むと、さっぱりとした香りが広がった。少しだけ、気持ち悪さが軽減される。


「ちょっと生き返った」

「鍛え方が足りねぇな」

「私はキースがあれだけ飲んでケロッとしてる方が信じられないんだけど、あ」


 つい、目の前を歩く女性を見て小さく声が出た。慌てて口を閉じる前に、キースが「どうした?」とこちらを見る。


「いや……」

「どうした」

「大したことじゃないから」

「なんだよ。逆に気になるだろ。言えよ」


 どうしたもんかな、と女性の背中を追った。華奢な体にはふんわりしたレースのワンピース。抱えていたのは真っ赤な花束。すぐ隣を柔らかな笑みをたたえた男性が歩いている。


「……あの人が持っているのが、昔ヴィスタに貰った花と一緒の花だなーと……思いまして」


 言いながらなんだか未練がましいことを言っているようで、気恥ずかしくなった。熱を持った頬を両手で仰ぐ。


「へぇ」

「……まあ、ヴィスタはおばあさまの手前、仕方なくだろうけど」

「んなことないと思うぜ」


 キースは隣に腰を下ろし、続けた。


「あいつは、お前のことちゃんと好きだったさ」

「そうかな」


 自信なさげな声が出た。


「あいつは、嫌いなやつと12年も一緒にいられるような、器用な人間じゃないだろ」


 器用じゃない。

 キースのその言葉に笑みがこぼれる。


「……そうだね」

「面の皮が厚いから、器用に見えるけどな」


 誰もが完璧だというヴィスタの不完全さを知る人間が、私だけでなくてよかった。

 夕焼けに染まる街を、家に向かう子供たちや酒場に向かう大人たちの笑い声が彩る。カップの水をもう一口。さっぱりとした果物の香りが微かに口に残る。

 なぜか、思い出したように胸の辺りが痛んだ。


「……ヴィスタの話、してもいい?」


 その質問にキースは答えなかった。肯定の意味だと受け取って、私は続ける。


「ヴィスタってさ、なにも欲しがらなかったじゃん」


 彼はなんでも持っている人間だった。だから無欲なんだろと人は言った。

 けれど、私はそうじゃなかったと思っている。

 

 ヴィスタの心は満たされていなかった。

 なんでも持っているような顔をして立っていたけれど、本当は無くしたもののほうが多かった。出来が良すぎる次男は、彼の兄の立場を悪くし、二人はいつからか口も利かなくなった。穏やかだったヴィスタの両親は、次第に野心に溺れた。ヴィスタの周りには、彼と対等な立場の人間はいなくなった。

 気が付くと彼の心は、私とキースが埋められるようなものではなくなっていた。


 だから、ヴィスタは多分、なにが欲しいかわらかなかったんだ。何も特別じゃないから、何が欲しいのかわらかない。ずっと、どこか寂しそうなまま。


「多分、酒場の彼女は……アンネさんは、ヴィスタが初めて欲しいと思ったものなんだよ」


 ヴィスタがアンネさんと話すとき、ほんの少しだけ目元が緩んだ。その横顔が泣きたくなるくらい穏やかで、けれど瞳にははっきりと熱が宿っていて、


「だから、ヴィスタが初めて欲しいと思ったものがあったなら、悲しいけど、よかったなって思う」


 さみしいけれど、本音だ。

 なにも欲しがらなかった彼が、何かを欲しいと、すべてを捨ててまで欲しいと思ってくれたなら、私も嬉しい。


「今、幸せに過ごしてくれてるなら、それでいいんだよ」


 そう言うやいなや、腕が強くひかれた。

 飛び込んだのはキースの胸の中で、背中に回った腕には痛いくらいの力が込められる。「お前なぁ……」と耳元で聞こえた声は、悲痛な響きを含んでいた。


「……よく分からないけど、撫でてあげようか、キース君」

「こっちのセリフだ。ばぁか。下手くそに笑ってんじゃねぇぞ」


 キースの背中を軽く叩きながら、そういえばずっと昔もこうやって慰めてもらったことがあったな、と思った。

 もっとも、あの時泣いていたのは私だったけれど。



 おばあさまが望むような魔導士になれず、魔道書院の修復師として働くように通達されたのは17の時だった。おばあさまの怒りや絶望を押し殺したような声と、悲し気な『あなたを立派な魔導士にしてあげられなくてごめんなさいね』という言葉から逃げるように森の中の秘密基地へ走った。

 

「どうしてっ……」


 誰もいない訓練場が目に入ると、涙がどっと溢れた。冷たい石畳に頭をこすり付け、蹲って泣いた。


 どうしてこんなに頑張ったのに、私はダメなんだろう。どうしてヴィスタみたいに立派な魔導士になれないんだろう。努力はどうして報われないんだろう。

 ヴィスタは一度魔導書を読んだだけでその魔法を理解し、応用し、さらに自分ものへと昇華できる。私は何度魔導書を見て、正しくそれをなぞっても、ちっともうまく魔法が使えない。威力は弱く、発動までのスピードはまるで亀だ。到底使い物になんてならない。

 ヴィスタが好き。でも、隣にいると時々劣等感で押しつぶされそうになる。彼のことを素直に「すごい」と言えなくなったのはいつからだろう。そんな自分が嫌で、嫌で、でもあなたの隣に立ち続けたくて、どんな努力だってしたのに!


 悲鳴のような泣き声が、森に響いた。


「ラピス」


 強く肩をつかまれ、体を起こされる。

 いつの間にか正面に、キースが座り込んでいた。


「……キース……」


 名前を呼ぶと彼の眉間に深い皺が寄った。それを見ると、急に現実に引き戻されたかのように、頭が冷える。

 みっともないところを見せてしまったと、情けなくなって必死に目元を擦った。


「なんで、ここに……」

「訓練帰りに走ってくのが見えた」

「そう……いや、ごめん、ちょっと、なんていうか、びっくりして。ほら、なんとなく、魔導士になるんだと、思ってたから、その……」


 しどろもどろに言葉を紡ぐ私をキースは強く抱きしめた。

 その行動が意味することは分かっているのに、口からは言葉がぼろぼろと零れる。


「いい仕事だと思うんだ。魔道書院の修復師は、自分のペースで仕事もできるし、いろいろな魔導書をさ、仕事って言いながら読めて勉強にもなるし、きっと誇りを持って、できると思うの」


 キースが魔法を使えなくてよかった。私のこの言葉の滑稽さを、本当の意味で理解できなくてよかった。


「ああ」

「私、すごく楽しみだよ、キース」

「……ああ」

「いい、修復師になってさ、おばあさまを安心させてあげないと」

「ラピス」


 キースが言葉を遮った。


「いいよ。お前、よくがんばったな」


 背中に回った手が、ゆっくりと背中を上下する。

 もう言葉は出なかった。代わりに涙が止まらなくなった。私は必死に奥歯を噛み締め、泣き声を漏らすものかと手を強く握りしめた。


「ラピスががんばってきたことは無駄にならない」


 そんな私の最後の意地も、あっさりと崩壊させるのがこの男だ。

 固く握った手に、そっと手が乗せられたと同時に、結局情けない声が漏れた。キースはもう、なにも言わなかった。けれど、私が泣き止むまで、ずっと背中を撫で続けてくれた。



 だからどんな理由であれ、不謹慎ながらこうして弱ったキースを慰めてあげられるのは、まあまあうれしい。いつも貰ってばっかりで、ろくになにも返せていないから、たまには返してあげなければいけない。

 私はあの時してもらったことを思い出しながら、キースの背中を撫でた。


 私は弱い。

 どれだけがんばっても、人並みかそれ以下くらい。そんな自分を上手く受け入れられない。

 だからきっと、ヴィスタは私に弱い所を見せられなかったんだろうな。




***


 キースが騎士団の副隊長に任命されたのを祝いに、街の酒場に3人で行った。ちょうど半年ほど前のことだ。

 その時私たちはそれぞれの仕事が忙しく、3人で集まったのはずいぶん久しぶりのことだった。近況報告や懐かしい思い出話に花が咲き、賑わう酒場の雰囲気も相まって、酒を飲むペースは早かった。

 店を出る時には私の足はフラフラで、ヴィスタの腕にしがみついていないとまともに歩けないくらいだった。


「珍しく飲んだね、ラピス」


 と、すぐそばで聞こえる彼の声がくすぐったかった。しらふのときにはこんな風に甘えられない。お酒の力を借りて、私はいつもより半歩だけ彼に近づいた。長い銀の髪が揺れる度、甘い香りがした。目を閉じる。ああ、しあわせで死ぬかもしれない。


「大丈夫、部屋までおくるからっ、わっ!?」

「きゃ」


 半分夢の中にいた私を、誰かの悲鳴と振動が引きずり出した。

 目を開けると、すぐそこで若い女性が荷物をぶちまけて尻もちをついている。どうやらヴィスタとぶつかったらしい。旅行者だろうか。彼女は使い古したマントを着て、大きな鞄を持っていた。

 ヴィスタは私をキースに預けると、すぐに「大丈夫ですか?」と彼女に駆け寄った。


「すみません。前方不注意で」

「いえ、こちらこそ。すみません」


 ヴィスタが手を伸ばし、女性がその手を取った。顔を上げ、「ありがとう」とほほ笑んだ彼女の顔を見て、私はなぜか胸がざわついた。今思えば、虫の知らせだったのかもしれない。


 足元に転がった荷物を拾い上げ、「旅行ですか?」と、ヴィスタが聞いた。

 緩いウェーブのかかった長い髪を一つにまとめ、太陽のようなくったくのない笑みを浮かべた彼女は、それを受け取り「私、画家なの」と言った。


「へえ、画家」

「そう、さすらいの画家よ」

「さすらい?」

「旅をしながらね、いろいろ描いて回ってるの」


 彼女の言葉の通り、私が拾い上げたのは使いこまれた絵筆だった。

 散らばった荷物を全員で集め終わると、彼女は


「ぶつかっちゃったおわびと言っちゃなんだけど、なにか描こうか」


 と言って鞄の中からカルトンと紙を取り出した。道の端の段差に座り込み、カルトンを組んだ足の上に乗せて、器用に鉛筆を指先で回す。


「例えば、あなたとか」


 微笑まれ、慌てて手を振る。


「いえ、私なんかいいですよ」

「えー……」

「僕、描いて欲しいな」


 ヴィスタが手をあげた。めずらしいな、とキースがこぼす。

 彼女はしばらくヴィスタの顔をじっと見た後、からかうように口の端を吊り上げた。


「いいけど」

「けど?」

「お兄さんの笑顔、胡散臭いからなー」

「うさんくさい……?」


 一拍置いて、キースが腹を抱えて笑い出した。「あんた見る目あるな! なぁ、ヴィスタ!」とおかしそうに、ヴィスタの背中をばしばしと叩く。

 ヴィスタは少しだけ不愉快そうに眉をひそめると、もう一度完璧な笑顔を作り、彼女に歩み寄った。


「どうして、僕の笑顔がうさんくさいと?」

「いやぁ、胡散臭いよ。なんか、心の底から笑ってないでしょ、お兄さん。そうやって笑うの、くせになってるんじゃないの?」


 ヴィスタは目を丸くした。私とキースも互いに顔を見合わせる。


「私はそれなりにたくさんの人に会ってきたから、なんとなく分かるよ。その人がどんな人生を歩んできたかとか、なんか悩みがあるのかなとか、幸せなのか、とか」


 彼女はそうは言いながらも、紙に鉛筆の先を滑らせ、何かを描いていく。


「顔には、人生が出るよ。ま、先生からの受け売りなんだけどね」


 彼女はそう言って、歯を見せて笑った。

 紙に浮かび上がっていくのは、ヴィスタ。完成したのは、くしゃりと顔をゆがませて笑うヴィスタの横顔。見たことのない、いや、すごく昔にこんな顔を見たこともある気がする。

 10分ほどで書き終わった絵を手渡され、ヴィスタは紙に書かれた自分の顔を不思議そうに見つめていた。


「うまいもんだなー」

「赤い髪のお兄さんも書こうか?」

「いや。俺はいい」

「まあまあ、遠慮しないで。そっちのお姉さんと一緒に描いてあげるよ」


 お姉さんはもう一枚紙を取り出すと、さらさらとキースの顔を描き始めた。

 私はお姉さんの鉛筆さばきに感動しつつ、ヴィスタが持つ絵を覗き込んだ。


「すごく似てるね。私、画家さんが絵を描くところ、初めて生で見たよ。すごいね、ヴィスタ」


 興奮しながらヴィスタの横顔を見て、一気に酔いがさめた。


 そこには、今まで見たことのないヴィスタがいた。その目は輝き、頬はほんのり上気しているいるように見える。


「……名前は?」


 ヴィスタが聞いた。

 彼女は手元に視線を落としたまま、悪戯っぽく言った。


「アンネよ。アンネ・クロイア。しばらくこの街に滞在する予定だから、気に入ったら私の絵買いに来てよ。お友達たーくさん連れて、ね」


 すぐ隣に、「アンネ」とやけに熱っぽい音が落ちた。一瞬、それがヴィスタの口から出たとは信じられないくらいだった。見上げた顔は、どこか夢心地。


 ――あ。


 全身の血が冷えていく感覚がした。

 ヴィスタの顔に浮かんだ感情に名前を付けたくなくて、咄嗟に足元に視線を落とす。


「上手いもんだなー」

「キースはちょっと美化されすぎじゃない?」

「ヴィスタ」

「冗談だよ」

「じゃあ、次はお姉さんの番だね」


 3人の声を、やけに遠くに感じた。アンネさんのきれいな手が、紙の上に私を描き始める。それも、どこか、別の世界の出来事のようだった。




 アンネさんの言葉の通り、それから私たちは2度ほど、彼女のところへと出向いた。彼女は広場に小さなスペースを借りていて、そこで今まで自分が描いた風景画を売ったり、似顔絵を描いていた。彼女ははじけるような笑顔で「いらっしゃい」と私たちを出迎えてくれた。

 彼女の人懐っこい性格もあって、私たちはすぐに打ち解けられた。アンネさんは絵を描きながらいろいろなことを教えてくれた。

 年は20で、親がある国の大きな商団のオーナーであること。小さな時、街で偶然見た旅の絵描きに絵を教えてもらったこと。父親の決めた相手と結婚しろと言われたが、画家になる夢をあきらめきれず逃げ出してきたこと。それから絵を売ったお金でゆっくりと一人で旅をしながらここまでやってきたこと。

 彼女の描き残してきた絵と共に語られた冒険譚は、彼女の描く絵のように色彩豊かで、美しく輝いていた。

 それを聞くヴィスタは、まるで生まれて初めて世界を見た少年のように頬を染め、多分、生まれて初めて絵を買った。

 買った絵は、天から帯状に差した光が森を照らす風景画。彼女は最初に山を越えたとき、山頂付近でこの光景を見たそうだ。帰り道、ヴィスタはその絵をまじまじと見ながら言った。


「きれいだろ、キース」


 ヴィスタの声は熱っぽい。


「そうだな」

「感動が薄いな」

「俺は、絵はよく分かんねぇからな。きれいだとは思うけど」

「僕は感動した。ああやって、人の手が美しいものを描き出すところを初めて見たんだ」

「お前だって魔法でなんかいろいろやってるだろ」

「僕のとは……僕のとは全然ちがうよ。彼女の絵には、彼女の生きざまが見えるだろ」

「そんなもんかね」

「ラピスも、そう思うだろ?」


 ――いやだ。


 今まで感じたことのないどす黒い感情が、腹の底で渦巻く。


 いやだ。やめて。ヴィスタ、そんな顔をして、彼女のことを話さないで。

 どうして。今まで、12年も私、あなたの側にいたのに。一度だってそんな顔、しかなった。


「……僕はなんだか、実感したよ。世界は見る人の目によってこんなにも違うんだって」


 聞きたくない。


「アンネさんの目には、こんな風に世界が見えてるんだね」

「ヴィスタ」


 聞きたくない。もうそれ以上聞きたくない。頭がおかしくなりそう。

 そう心の中の自分が悲鳴を上げている。それなのに、私の口は私の心を無視して動き続ける。


「……アンネさんの絵、本当に綺麗だね」


 笑顔を取り繕って、思ってもいないことを淀みなく紡ぎ出す。


「やっぱり? ほら、キース。ラピスもそう思うってさ」

「……そうかよ」

「うん。きれい。他の絵も見たいね」


 泣きたいのに、勝手に顔が笑う。


「……また、行こうよ、ヴィスタ。アンネさんの絵を見に、キースと3人でさ」


 私はおかしい。おかしくなってしまった。

 アンネさんになんか会いたくない。あなたの口からそれ以上彼女の話を聞きたくない。痛くて体が引きちぎれそう。


 でも。

 でも、そうやって目を輝かせるあなたの顔をもっと見ていたい。12年一緒にいて初めて見る、あたなの顔を、もっと、もっとーー。




 私たちはそれから何度かアンネさんの元を訪ねた。

 そしてヴィスタは、次第に一人でもアンネさんの元へと通うようになった。




 ある日、修復室にノックもなしに入ってきたキースは開口一番、「馬鹿野郎」と私に言った。


「気づいてないわけじゃないだろ。あのバカはまだ自分の気持ちに気づいてないけど、このままなにもしなかったら、ヴィスタはお前の元から去るぞ」


 キースは怒っていた。私がなぜ、ヴィスタがアンネさんに心を寄せるのを許すのか、まったく理解できないと、私の肩を持ち何度も揺すった。目を覚ませ、とでも言うように。


「……だめかな……」

「あ?」

「私はだめかな、キース……」


 キースの腕を掴んで、私は笑うしかできない。


「いなくなるって分かっても、好きな人の、幸せそうな顔を見たいの」

「……ラピス……」

「私、ヴィスタがあんなに子供みたいに目を輝かせるところも、誰かを愛しむように見るところも、はじめて見たんだよ……あんな顔……はじめて……あんなに幸せそうで……」

「……ラピス……」


 キースは痛々しいものを見るように私を見ていた。


 知ってる。自分がどれだけおかしなことをしているのか、分かってる。自分がどれだけ痛々しい存在なのか分かっている。

 本当は「いかないで」と腕にしがみついて、泣きたい。私を好きになってと縋り付きたい。でも、それでも、ヴィスタの幸せな顔を見たい。彼が、本当に大好きだから。




 丁度そのころ、おばあさまが大きく体調を崩した。医者の見立てでは、もうそれほど長くはないという。

 私はしばらく仕事の休みをもらい、家に帰っておばあさまの看病をして過ごした。キースは数か月の視察へと出て、ヴィスタも「2か月くらい隣の街へ行くことになったんだ」と言って街を出た。


 そして、ヴィスタはもう戻ってはこなかった。


 おばあさまが亡くなった次の日、葬儀の準備でばたつく家に、ドリビア家の当主であるヴィスタの父が真っ青な顔でやってきた。ずいぶん久しぶりに会った彼はひどく憔悴していて、震える手で私に一通の手紙を渡した。


『探さないで欲しい』


 その一言で、私は全てを理解した。

 彼は本当に、私の元から去ったのだと。


 それを理解できないのは、彼の家族だった。ヴィスタに大きな期待を寄せていた彼の父親は100年に1人の天才を失った動揺を隠しきれず、私の肩を掴んで大きく揺らし「なぜヴィスタはいなくなった!?」「どこにいったか、婚約者のきみは知らないか?」「どうして」「ドリビア家はこれからどうするんだ!?」と泣いた。

 それは、異変に気付いたうちの使用人が飛んでくるまで続いた。


「頼む。ラピス……教えてくれ……なぜ、ヴィスタは去った? どこにいるんだ? ヴィスタはドリビア家始まって以来の天才だ……あの子がいなくなったら……」


 私の手を握ったままその場に座り込んだ、彼の父親を見下ろし、私は告げた。


「……ごめんなさい……私も……私も分からないんです」




***


 きりのいいところで仕事を切り、修復室を出た。外はすっかり暗くなっている。

 魔導士のペットが噛みちぎり、粉々にした複雑な魔法陣の描かれたページの修復は無事に終わった。後はそれほど時間がかからないものばかり。ようやくめどがついたことにほっとすると、お腹が鳴った。

 一旦部屋に戻って、着替えてから食事にしよう。

 宿舎に戻り、あくびを噛み殺しつつドアを開けた。


「……ん?」


 とりあえず、ドアを閉めて首をひねる。周囲を見渡し、ドアに掛けられたプレートを何度か確認したが、やっぱり自分の部屋だ。

 もう一度、今度は少しだけドアを開けて、恐る恐る隙間から中をのぞく。

 真っ赤な花がベッド、本棚、机の上、所狭しと飾られている。

 もう一度ドアを閉めて、今度は頬を抓ってみる。痛い。どうやら夢ではないらしい。


「おい」

「わっ!? びっくりした、キースか。急に後ろに立ったらびっくりするじゃん」

「挙動不審だったぞ」

「いや……なんか、部屋の中に花があって」

「ああ、それ、俺がやった」

「ああなんだ、キースが……」


 おれがやった。

 その言葉を頭の中で反芻して、ようやく理解した。理解したけれど、意味は分からない。隣を見上げると、キースはなんでもないような顔をして、「とりあえず入れよ」と私を部屋の中へと促した。

 部屋に入ると甘い香りが全身を包む。この光景と相まって、なんだか夢の中にいるみたい。

 そんなふわふわした感覚から、後ろでドアが閉まった音で引き戻された。ドアを閉めたのはもちろんキースだ。


 な、なぜ。


「あの……」

「あ?」


 キースはドアに背を預け立ち、腕を組む。


「え?」

「なんだよ」

「いや、ちょっと待って。何から言うべきなのか分からないん、だけど」

「そうかよ。ゆっくりどぉぞ」


 よく分からないけれど痛むこめかみあたりを抑えながら、頭の中で疑問を順番に並べる。


「えっと、これ、キースがやったんだよね?」

「そう言ってるだろ」

「な、なんで?」


 その問いに、キースの視線がこちらを向いた。太陽のような黄金の瞳が、薄暗い部屋の灯りにぼんやりと照らされて星のように輝く。


「そうしたかったから」


 しばらくの沈黙の後、紡ぎ出された答えは私に追加の疑問を与えただけだった。


「……なんで?」


 なんで、そんなことする必要があるの。

 私はキースを見上げる。彼は、知らない人のように見えた。


「そうしたかったから。それ以上の理由はねぇよ」

「だから、なんで、そうしたいのかが分からないんだ、けど……」

「惚れた女に花を贈るのに理由が必要か」


 それは、喉のすぐそこまで来ていたいろいろな言葉が一瞬で引っ込んでしまうくらいには、予想外で、そして暴力的な甘さを含んでいた。

 私は「へ?」と、空気交じりの間抜けな声を出し、「なに言ってるの」と笑おうとして、失敗した。一拍遅れて引きつった頬に、熱が集まる。


「……俺がこれからも、ずっとラピスの側にいる。お前がヴィスタと一緒に食事した時間以上にお前と飯に行くし、ヴィスタと話した時間以上にお前と話す。ヴィスタに花を貰ったなら、俺は……」


 キースはそこで、言葉を切った。そして、ゆっくりとこちらへ近づく。

 見上げた彼の顔は平静を装っていたけれど、その頬は、彼の言葉と同じくらいの色を持っている。


「花はいくらでも用意する。望むなら、何度だって」


 目が眩むほど熱のある言葉だった。

 いくら鈍い人間だって気付いてしまうような、愛の告白。


 あまりに突然のことで言葉を失う。まさか、そんな、あのキースが、いつから。頭の中で疑問符が踊る。今まで12年以上、そんなそぶり、一度だって見せなかったじゃない。


「……ラピス」


 視線を向けられ、おおげさなくらい肩が跳ねた。顔に熱が集中して、キースの顔が見れなくなってしまう。


「……おやすみ」


 そっと目元に落とされたキスは、泣きたくなるくらい優しかった。




 ***


「きっ、キース!?」

「よお」


 あんなことがあった翌日だ。さすがに今日は、キースは来ないだろうと思いっていた。が、いた。

 修理の終わった魔導書を依頼してきた魔導士に届けに行って、修復室に戻ってくると、平然とした顔で作業机の椅子に腰かけていたのだ。

 ドアを開けて彼の姿を見た時は、くらりとした。


「どうした」


 キースは聞きながら、何かを上着の内ポケットに押し込んだ。その動作を目で追いつつ、言葉を探す。


「いや……どうしたって……その……」

「飯行こうぜ」


 どういう神経で、そんな平然とした顔をしていられるのか分からない。

 こっちはろくに寝れなかったんだぞ、と睨んではみるが、キースは気付いているのかいないのか、私の机の上を漁っている。


「ちょ、ちょっと机の上触らないでよ」

「あ?」

「ごちゃごちゃして見えるかもしれないけど、いろいろ順番になってるの。っていうか、窓まで開けて……書類飛んじゃってないかな」

「……窓、お前が開けたんじゃないの?」

「え?」


 窓を閉めた私を見て、キースは一瞬目を丸くした。その仕草の意味が分からずに首を傾げると、彼は眉間に皺を寄せて、考えこむような仕草をした。


「な、なに」

「いや……」


 立ち上がったキースは一歩、私に近づく。距離を求めて足が勝手に後ずさったが、すぐに壁に踵が当たった。彼はあっという間に距離を詰める。こぶし一個分ほどしか開いていない近さに、「ひっ」と引きつった声が漏れた。

 キースはしばらくの間、私を真っ直ぐに見下ろし、それから「ふ」と口元を緩めた。


「腹、減ったな」

「う……うん」

「天気いいし、外で食うか?」

「あ、お、お好きに、ど、どうぞ」


 なんでキース相手にこんな動揺した話し方しなきゃいけないんだよ!

 平然と歩き始めた男の背中を見て、心の中でもう一人の私が地団駄を踏んでいる。こういうことは時間が経てばたつほど聞きにくくなる。さっさと聞いてしまえ!


「き、キース」

「あ?」


 気合を入れて名前を呼び、見上げる。が、視線がこちらを向くと、昨晩のキスがどうしても浮かんでしまう。自然と頬に、熱が集まる。


「? なんだよ」

「あ、いや……」

「頭でも打ったか?」

「打ってない、です……」


 顔色一つ変えないキースを見ていると、本当にどこかで頭を打ったんじゃないかと不安になった。昨日のことは頭を打って見た幻覚とかだったらどうしよう。


 そんなことを考えているうちに、食堂だ。すっかり顔なじみになった料理人が「今日も仲がいいねぇ」と私たちに挨拶をしてくれる。すれ違うキースの部下の人たちも、私がここに来ることを当然のように迎えてくれる。

 それほどまでに、私とキースが一緒にいるのは城では日常の風景になっていた。

 包んでもらったサンドイッチを片手に、二人で森の中の秘密基地へやってきた。水場の縁に腰を下ろし、サンドイッチを一口。

 キースは唐突に口を開いた。


「なあ」

「ん?」

「ここ、取り壊されるって知ってるか?」

「え?」


 キースを見遣ると、彼は口の横についたソースを舐め取り、続けた。


「来月にも。なんかちょっとした庭園にするんだと」

「……そうなんだ」

「まあ、ここに来る奴なんて俺達以外いないからな」


 俺達、はキースと私と、そしてヴィスタ。

 ここは3人の思い出の場所。積み上がった思い出の数は数えきれない。


「……ちょっと寂しい気もするね」

「……ま、仕方ないだろ」


 キースはそう言って大きなサンドイッチを口に放り込んだ。そして口の中のものを飲み込む前に次のサンドイッチを取り出す。よく食べるな。呆れにも似た感情で彼の横顔を眺めていると、ふと、彼のまつ毛に大きな埃が付いているのに気が付いた。


「あ、キース。まつ毛に大きな埃ついてるよ」

「ん? どこ?」

「そこじゃない。とってあげるから、目閉じて」


 目を閉じた彼のまつ毛に触れて、その埃を取る。


「取れた、よ……」


 キースの目がゆっくりと開いて、突然、その距離の近さに戸惑った。黄金の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。

 どうしよう。こんなこと、今まで何回もあったのに。こんな距離で話すことなんで、別に普通だったのに。なぜ、こんなにも心臓が大きく音を立てるのだろう。

 キース、こんなに綺麗な目をしていたっけ。まるで吸い込まれるように、目が離せない。


「……どうした?」


 キースの戸惑ったような声がすぐそこで聞こえて、慌てて体を離す。


「ご、ごめん」

「埃取れた?」

「う、うん。取れた」


 ごまかすように、サンドイッチを口に運ぶ。いまいち味が分からなくなってしまった。


「ところでさ」


 2つ目のサンドイッチもあっという間に飲み込んだキースが、思い出したように口を開く。


「俺、来週からしばらく視察に出ることになったから」

「視察?」

「そう。第2王子に付いて、3か月くらいリルガに滞在する」

「……あ、そ、そう、なんだ」


 サンドイッチの味はもっと分からなくなった。それどころか、口に残ったサンドイッチをどうやって咀嚼していたのかもよく分からなくなる。仕方なくまだ大きな塊をそのまま飲み込んだ。

 ヴィスタがいなくなった後も、おばあさまの葬儀のときも遺品を整理しているときも、一人だった。もちろんさみしかった。でも、そんな時よりも、なぜか今が一番心細く感じる。


「戻ってきたら返事聞かせて」

「返事?」

「昨日の」


 昨日の、と頭の中で繰り返し、固まった。


「……ラピス、覚えてるよな?」


 言葉を失った私に、怪訝そうにキースが尋ねる。


「おっ、覚えてる!」


 どうやら幻覚ではなかったらしい。

 キースの横顔を見ると、ほんのりと耳が赤い。


「それならいいんだけど」

「……う、うん」


 雰囲気に耐えられなくなって、視線を足元に落とす。

 訪れた沈黙が重い。キースを二人でいて、沈黙が気まずいなんて初めてだ。なんとかこの空気を打開せねばと頭の中でぐるぐると、当たり障りのない話題が浮かんでは消えた。


「……なぁ」

「っていうか、私のどこが好きなの」


 ……最悪だ。

 天気がいいね、とかどうでもいい話題を考えていたのに、彼の声で私の口から飛び出したのは、当たり障りのない話題で隠したかった、私が一番気になっていたこと。

 咄嗟に口を覆ったが、今更遅い。

 気まずい空気は重さを増し、私の少し丸まった背中にのしかかるようだった。


「……ラピスの好きなとこ、ね……」


 その声に反応して、肩が跳ねた。「やっぱり言わなくていいよ」という前に、キースは続ける。


「諦めが悪い所」

「…………それっていい所?」

「いつも真っすぐで、優しいところ」

「……別に優しくなんか……」

「笑った顔とか、泣いた顔とか、飯食ってるところとか」


 気恥ずかしくなって「もういいよ」と言ったのに、キースはそれを無視した。


「理由なんて、いくらでも並べられる」

「もういいって……」

「ラピスが好きだ」

「……あの……」

「続けようか?」

「……や、もう、いい、です」

「なあラピス、俺、本気だから」


 どんどんとキースの口から出る言葉に、手が震えた。


「お前を慰めるとか、そういうのじゃないから。俺は昔から……」


 そこで、持っていたサンドイッチが手から滑り落ちた。キースは口を閉じ、そのサンドイッチを拾って、まだ口をつけていない自分のものと交換して、私の手へと戻した。


「悪い」

「う……ううん」


 キースの目がまだこちらを向いているのが分かって、顔を上げられなくなった。石のように固まって、視線が地面に打ち付けられたように動かない。

 しばらくしてキースは「じゃあ、仕事に戻る」と言ってその場を去った。それでも私は、熱に溺れてしまったかのように、なかなかその場を動けなかった。




***


 ――夢だ。

そう、すぐに気が付いた。秘密基地でまだ幼いキースとヴィスタが笑い合い、こちらを見ていたから。


 彼らに手招かれ、走り出す。輪に加わって、甘いお菓子を食べて本を読む。穏やかな日差しと、暖かな風だけが私たちの世界を作っている。

 私の好きなものだけで構成された、美しい世界。ずっと、ここにいられたら、よかったのに。


 そう思った瞬間に目が覚めた。

 体を起こすと、頬を生暖かいものが伝って落ちる。部屋の中は暗い。まだ夜中だ。

 ベッドサイドに置いたコップから水を一口飲んで、カーテンを開けた。細い月が、静かに外を照らしている。

 なんとなくこのまま眠り直す気にもなれなくて、シンプルなワンピースに上着を羽織って外に出た。

 昼間よりも幾分か冷たい空気が、頬を撫でる。


 夢を辿るように、秘密基地へと歩いた。


「キース」


 訓練場が見えたと同時に、どこかで聞いた声が、慣れ親しんだ名前を呼んだ。

 一瞬、まだ自分は夢の中にいるんじゃないかと思った。だって、今の声は、もう二度と聞けないはずの、あの人の声だ。


「……やっぱり、お前か。ヴィスタ」


 その声に、咄嗟に近くの木の影に姿を隠した。心臓が大きな音を立てる。荒い呼吸を両手で抑え訓練場を覗き込むと、中心に人影が二つ。

 一人はこちらに背を向けて立つキース。ラフな格好だが、その腰には剣が携えられている。そして、その前に立つのはヴィスタ。長かった髪は短く切られ、美しい銀髪は見る影もなく黒に染まっている。これでは一目見て、彼がヴィスタだと分かる人は少ないだろう。

 ヴィスタは、困ったような薄い笑みを浮かべ、キースを見ていた。


「なんだよ、この手紙」


 キースはくしゃくしゃに丸められた紙切れを、ヴィスタへ投げつけた。それはヴィスタの足に当たり、地面に落ちる。


「……おかしいな。僕、その手紙、間違いなく修復室のラピスの机の上に置いたと思ったけど」

「ああ、間違いなくそこにあったさ。まさか本当にお前からの手紙だとは思わなかったけどな。で、なんだって今更、こんなものラピスの部屋に置きやがった」


 私はそれに見覚えがなかった。けれど心当たりはあった。

 昼間、修復室に戻った時だ。あの時、キースは何かを上着に押し込んだ。


「……それ、ラピスがキースに渡したの?」

「いいや、俺が先に見つけて回収した。で、今更なんだ。なんでラピスにこんな手紙置いた。こんな夜更けにあいつを呼び出して、なんのつもりだ」


 キースからの矢継ぎ早な質問に、ヴィスタは「相変わらずだなぁ」と小さな笑みをこぼした。


「……よかった」


 彼の小さなつぶやきが、弱い風にのってこちらへ届く。


「あ?」


 反して、キースの声は低く、隠し切れない怒りが滲んでいた。


「なにが、よかっただよ」

「……キースがそういう顔でここに来たってことは、君が今もラピスの側にいてくれるってことだから」

「……ふざけんなよ」


 キースが一歩、ヴィスタに近づく。


「今更……今更、なにしに来た!」


 しばらくの沈黙のあと、ヴィスタは小さく「ラピスに謝りに来た」と言った。


「……てめぇ、いったいどの面下げて……!」


 獣のように唸って、キースはヴィスタの胸倉をつかみ上げた。


「すまなかった」

「俺に言ってどうなるんだよ!」

「……知らなかったんだ、ラピスのおばあさんが亡くなったこと」


 ヴィスタがもう一度「知らなかったんだ」と零し、項垂れる。


「……戻ってくるつもりは、本当はなかった。でも、やっぱり話さなきゃいけないと思って……辛い目に合わせた、から……」

「辛い目に……合わせたから?」


 ヴィスタの胸倉を掴んだ手が、わなわなと震えた。


「なにが……なにが、辛い目に合わせたからだよ! クソ野郎が! お前がっ……だったら、出て行かなければよかっただろうがよ! ラピスのばーさんはどっちみち長くはなかった! 知ってただろ!? そんな遠くないうちに一人になるって分かってただろ!」


 ヴィスタを揺さぶりながら、キースは怒鳴り続けた。

 キースはヴィスタに比べれば乱暴な性格だけど、それでもこんな風に感情を抑えられない姿を見るのは初めてだった。


「お前のくだらない罪悪感なんか知るかよ! そんなの、おまえがあの女と出て行く前に気づいただろ! ラピスはな、やっといろいろ整理付けだしてるんだよ! それなのに、今更お前が戻ってきて……なんなんだよ! そんな風に思うなら、ちゃんと正面からラピスのところに帰れよ! お前の婚約者だぞ!」


 キースはヴィスタを投げ飛ばした。尻もちをついて倒れこんだヴィスタの前に立ち、肩で息をしながら彼を見下ろす。


「罪悪感なんて、そんなくだらないもんで、わざわざこんな危険な方法で戻ってくるんじゃねぇよ! お前の両親は血眼になってお前を探してんだぞ……」


 くそ、と行き場のない悪態をついて、キースは頭を抱えた。


「本当に馬鹿ばっかりだな、俺の幼馴染みは……お前も、ラピスも、大馬鹿だ……」


 最後の方は、ほとんど聞き取れないほど弱々しかった。

 ヴィスタは倒れこんだまま動かない。


「お前がどう思っていようと、お前は俺の友達だ。だから、俺はお前の幸せを心から願ってる。でも……でも、同時に、ラピスを傷つけたお前を許せない」


 吐くようにそう言って、キースは立ちすくんだ。

 固く握られ、震える拳が彼の中の葛藤を表わしているようだ。キースだって、ヴィスタがいなくなってつらい。でも、私と同じで、それがヴィスタにとって一番いいことだって思うから、受け入れられた。誰にもヴィスタがいなくなった理由を言わなかった。

 私と違うのは、ヴィスタのその選択が、キースのもう一人の幼馴染みである私を傷つけたことだ。

 キースの辛さは、もしかしたら私よりずっと重くて複雑なのかもしれない。


「……ねえ、キース」


 ヴィスタはゆっくりと上半身を起こした。


「キース、ラピスのこと好きだっただろう?」

「……あぁ?」

「ずっと、ずっと昔から、君はラピスが好きだった。そうだろ?」


 キースはしばらく黙った後、「ああ」と不機嫌そうな声で肯定した。


「キースがラピスを見るときの顔や、ふとした瞬間の柔らかい雰囲気を見て、“ああ、こういうのを恋っていうんだろうな”って僕は分かったんだ。僕はラピスを好きだったけど、君がラピスに抱く感情とは全く違う好きだ、って」


 胸がちくりと痛んだ。薄々感じていたことだけど、言葉にされるとより痛くなる。


「僕は昔、不思議だったんだ。きみが騎士団で出世のために昼夜も問わず必死に訓練を積んで、仕事をしているのを見て……どうしてそんなに夢中になれるんだろうって、そんなにも騎士団の仕事は楽しいのかな、って」


 そこまで言って、ヴィスタは立ち上がった。


「……君が騎士団で出世したかったのは、もちろんキースがその仕事を愛していたからだし、やりがいを感じていたからだと思う。でも、同時に、いつかラピスのおばあさまを説得させられるくらいの地位でいようっていう気だってあった。純血にこだわる彼女は、どうあがいたって君とラピスが一緒になることを良しはしないからね。それでも、説得しなければいけない時が来るかもしれないと思っていた……キースは、僕がラピスに抱く気持ちが、自分と比べて、とても軽いものだって気付いていたから」


 そうだろ? とヴィスタが笑った。

 キースは言葉尻を待たずにヴィスタを勢いよく突き飛ばした。そのまま尻もちをついたヴィスタに、馬乗りになる。

 胸倉をつかみ上げられて、ヴィスタが苦し気に眉を寄せた。それでも、唇は変わらず弧を描いている。


「ねぇ、キース。僕はさ、」

「あ?」

「はじめてラピスを見た時、両親を失ったばかりで不安そうな彼女を守ってあげないとって、確かに思ったんだ。でも、大人になるにつれて、だんだん辛くなってきた。僕と彼女は純血を守るために予め決められた恋人だ。でも、笑えるだろ。僕らはどちらも純血にこだわりなんてないんだ。純血であることに、僕も彼女も苦しんでいるのに……」


 ヴィスタの目から、一筋の涙がこぼれた。


「……分かってるんだ。自分がしたことが最低だって」

「……ヴィスタ」

「積み上げてきたもの全部壊して、家族を裏切って、ラピスを傷つけて、こんな風に逃げたのだって最低だって、全部分かってる」


 ヴィスタは熱のこもった息と共に、吐き出すように言った。


「それでも、彼女が好きなんだ」


 頬を、涙が伝った。

 悲しかった。たった1回の好きは、私に向けられた数えきれないほどの“好き”のどれよりも愛を感じたから。彼の私への思いを改めて思い知らされて、このまま心臓が引きちぎれるんじゃないかと思うくらい痛い。

 でもどこかでほっとする。彼はようやく、心を満たし、自由になれる場所を見つけられたのだ。


「……そうかよ」


 唸るような声が、キースから漏れ出た。


「……それは俺が、お前を殴るのをやめる理由にはならない」

「分かってる」

「俺は、それを聞いて怒りが収まるような穏やかな人間じゃねぇよ」

「うん。いいさ、好きなだけ殴れよ、キース」


 キースの腕がゆっくりと振り上げられる。ヴィスタは全てを受け入れる覚悟を決め、ゆっくりと目を閉じた。


「っ、だめ、キース!」


 振り上げられた拳がヴィスタに届く前に、その腕に飛びかかり、しがみついた。


「殴らないで……」


 絞り出した声は擦れて、ほどんど意味をなさなかったように思う。それでもキースの腕は止まった。目をまん丸にした彼が「ラピス、なんで……」と動揺しつつも拳を降ろす。


「殴らなくて……いいから……」

「っ、でも、お前!」

「お願い……」


 キースの腕から力が抜けた。けれどすぐに私を抱えるようにして立ち上がると、ヴィスタから距離をとる。


「……ラピス」


 背後から、ヴィスタの声が聞こえた。

 まるで、さっきの夢のようだった。秘密基地には私たち3人だけ。

 夢と違うのは、私たちはもう2度と3人で輪になることはないということ。


「ラピス……」


 もう一度、ヴィスタが私の名前を呼んだ。

 できればこの声を、ずっと聞いていたい。私はヴィスタが、好き。


「……ヴィスタ」


 彼の名前を呼ぶと、私の背に回っていたキースの腕の力が強くなった。

 私はキースの背に手を回し、上着の裾を掴んだ。そして、深呼吸を一つ。


 今晩、あなたに会えてよかった、ヴィスタ。


「……私、あなたなんて大嫌い。ひどい男。最低。聞いていれば、全部言い訳ばっかり。捨てた女の名前を、よくそんな風に呼べるね。あんたなんてもう、これっぽちも好きじゃない」


 言葉を一つ言う度に、心をえぐられるような痛みがした。

 今、言葉にして、私は自分の中にあった恋心を投げ捨てている。


「……もう、顔も見たくない。二度と、この街に、この国に戻ってこないで。あの女と、誰にも見つからないくらい遠くまで行って、私のことなんて二度と思い出さないで……幸せに、なって」


 ラピス、と頭上で泣きそうな声がした。


「……私は、もう、大丈夫だから」


 大好きだったよ、ヴィスタ。

 あなたが、私の手を取って「大丈夫だよ」って笑ってくれたあの日、私は恋に落ちたの。あなたのことを憎んで、恨んで、罵れたらどれだけ楽だろうと思うけれど、私はそれでも、あなたに幸せになって欲しいよ。あなたのことが、大好きだから。


「ラピス……」

「……さよなら、ヴィスタ」


 痛いくらいの静けさを一陣の風がさらったあと、足音が聞こえた。遠ざかるそれを、止める人はいない。

 私は振り返らなかった。足音も止まらなかった。キースは私の上着の背を強く握ったまま離さなかった。

 風の音に紛れる小さな嗚咽は、誰のものか分からない。



 私の初恋が、溶けるように終わった夜だった。




 ***


 修復を終えた古い魔導書を机の端において、体を伸ばした。開け放した窓から、穏やかな風が吹き込んできて、前髪を揺らす。机の上の置き時計を見遣ると、ちょうど昼をまわった頃だった。

 ドアがノックされる。「どうぞ」と返事を返すと、ゆっくりとドアが開く。


「シュガーさん」


 顔をのぞかせたのは、第三王子付きの魔導士の一人だ。彼はヴィスタと仲がよかった。ヴィスタがいなくなってからは気を使ってか修復室には寄り付かなかったが、最近また、こうして時々顔を出してくれるようになった。


「依頼されていたもの、できてますよ」

「助かります。無茶言って急かせてすみませんでした」

「いいえ。お互い様ですから」


 修復を終えた魔導書を手渡すと、彼はページをぱらぱらと捲る。


「完璧です」

「ありがとうございます。でも、実際のところ100%元通りになるわけではないですからね。見えないくらいの痕は残ってます。扱いは慎重に」

「ええ」


 彼は魔導書を閉じると、まじまじと私の顔を見た。


「なにか?」

「……いえ、いい修復師になられたと思いまして」

「そうですか?」

「ええ。最初は自分も、修復なんて誰がやっても同じだろうと思っていたんですけどね。今は、貴女の丁寧な仕事を信頼していますよ」

「……ありがとうございます。ですが、まだまだ新人なので。もっと精進します」


 そう言うと、彼は形のいい唇で、「では、また」と柔らかく微笑んだ。


「ええ。いつでもどうぞ」

「はい。ああ、そうだ。先ほど、リルガに視察に出ていた騎士団が戻ってきたそうですよ」


 もうご存知かもしれませんが。そう言い残し、ドアが閉まった。気配が遠ざかり、私は天を仰いだ。

危ない。とんでもない不意打ちだ。泣いてしまうところだった。

 深く深呼吸をし、頬を叩いて気合を入れ直す。


「……行くか」


 用意しておいた菓子の袋を片手に、部屋を出た。向かうのは、3か月ぶりに城へ戻ってきた幼馴染みのところだ。




 すれ違う人たちに挨拶をしながら、騎士団の隊員がいるであろう部屋を目指す。

 人のうわさも75日と言うけれど、結局、あれから3か月以上が経った今でも、時折好奇の視線を投げかけられることはある。私とヴィスタのことが、誰も彼もの記憶からきれいさっぱりなくなるには、まだ少し時間がかかるのかもしれない。

 それでも、不思議と足取りは軽い。


「や」


 キースとは、目的地にたどり着く前に会った。山ほどの書類を抱えた彼は、前に見た時よりも少し日に焼けている。目が合うと、まるで幽霊でも見たかのような顔で「ラピス」と名前を呼ばれた。


「久しぶり、キース」

「……ああ」

「忙しそうだね。長期の視察から帰ってすぐ仕事なんだ?」

「いや、これは……たまたま会った同期の書類仕事の手伝いだ」

「相変わらずだね」


 小さく笑うと、キースは壁に肩を預け、前髪をくしゃりと乱した。


「……お前も」

「ん?」

「お前も元気そうで、よかった」


 そのほっとしたような顔を見て、彼がこの3か月間どれだけ私のことを心配していたか、分かってしまった。嬉しいような、申し訳ないような気持ちで頬の辺りがむずがゆい。

 いつの間にかやってきた春の香りの風が、窓の向こうの木々を揺らす。遠くで女性たちの高い笑い声が聞こえた。メイド達が盛り上がっているらしい。


「……なあ」

「うん」

「これ、資料室に戻したら、ちょっと時間あるか?」

「……うん」


 キースについて資料室まで行って、そのまま庭に出た。城の裏手の森の前に来て、秘密基地へ通った道を見る。私たち以外ろくに人が通ることのなかった細い道は、美しい白い石畳で舗装され、その入り口には見張りと豪華な門がつけられている。

 あの場所は最近交流を持った異国から送られたという白い花で覆われた庭園になり、王族や要人たちが茶会に使っているそうだ。


「あー……そうか、つい、くせで」


 キースは気まずそうに頭を掻いた。


「いいよ。私も途中まで気付かなかった」

「途中で気づいたなら言えよ」

「いやぁ、見てみたくてさ。修復室の裏手に、最近ベンチ作ってみたんだよね。そっちでどう?」

「……お前が作ったの?」

「うん」


 仕事をしていると、どうしても部屋にこもりがちになってしまう。もう少し外の空気を吸う時間があればと、庭師の人からいらない木材をもらって、自分で作ったのだ。

 もちろん、ベンチなんて作ったのは初めてだ。見た目は不格好だが、まあ、座れるので問題ない。が、キースは傾いたベンチを見て、思いっきり顔をしかめた。


「……壊れねえよな」

「もちろん! ……多分」

「おい!」

「だって二人で座るの初めてだからさ」


 そっと、そおっと、二人同時に腰を下ろした。みしっと、不吉な音が聞こえたような気もしなくもないが、今は聞かなかったことにしておく。

 肩が触れ合う距離で座り、私たちは空を見た。抜けるような青空が、ただただ広がっている。


「空、きれいだね」

「……だな」

「食べる?」

「おう」


 買っておいたクッキーを一枚袋から取り出して、手渡し、それを食べる。ほんのりと甘い。


「……ヴィスタはさ」


 隣の肩が大きく跳ねた。見上げると、彼は形容しがたい難しい表情でこちらを見下ろしていた。そんな顔を見たのは初めてだ。おかしくて小さく吹き出すと、眉毛がぴくりと上がる。「すごい顔だよ」と言うと、おでこを小突かれた。


「なんだよ、こっちが気ぃ使ってんのに」

「あはは。もう、そんなに気にしないでよ」

「……で、ヴィスタがなんだよ」

「……いやあ、無事かなー、と」


 ヴィスタがここに戻ってきたことは、当然、私たちだけの秘密だ。ヴィスタの記憶は、徐々に周囲の人たちから薄れつつあって、今ではもう話題にする人もほとんどいない。100年に1人の天才だともてはやしていたくせに、と思うと複雑な気持ちはあるが、人間なんて結局そんなものだ。

 けれどヴィスタの父親やごく一部の魔導士達は、まだしつこくヴィスタの後を追っているらしい。まあ、あのヴィスタのことだ、


「捕まらねーだろ」


 まるで心の声を代弁するかのようにキースは言った。


「安心しとけ」

「……うん」

「つーか、お前、本当にもういいんだな」

「ん?」

「ヴィスタのこと。そんなふうに普通に心配できるようになったってことは」


 そりゃあ、心配くらいするよ。元婚約者で幼馴染みなんだし。と、思ったがキースが言いたいのがそういう意味ではないとは分かっている。


「うん。もう、全然いいんだ。だって、私とヴィスタが一緒にいても、幸せにはなれなかったからさ」


 そう自分で言っておきながら、浮かんだのは渋い笑みだった。


 私がヴィスタと結婚したら、表面的には幸せにはなれただろう。

 けれど私たちは純血であることや、家の名前を守ることに必死にならなければならなかっただろう。一生、互いにお互いの傷を理解し合いながら、お互いの見たくないものを友情や愛情で覆い隠し合いながら暮らしていくのだ。それは、あまりにも救いがない。ヴィスタにとっても、わたしにとっても、きっと本当の幸せではなかった。


「お前は……」


 キースは呆れたようにそう言って項垂れた。けれど次に顔を上げたときには、「ラピスが納得できたなら、なんでもいいけどな」と小さく笑った。


「キースは?」

「あ?」

「キースは、もういいの?」

「なにが」

「あんなに私のこと、口説いてたくせに、今日は口説かなくていいの?」


 キースが盛大に、クッキーを吹き出した。


「わ、汚い」

「っ、お、前なぁ!」


 キースは乱暴に口の周りを袖で拭きながら、真っ赤な顔で私を睨んだ。中途半端に開いた口は、何か言いたげにパクパク動いている。


「変な顔。面白い。キースのそういう顔、初めて見た。キースも動揺したりするんだ」

「当たり前だろ、俺をなんだと思ってるんだよ」

「……最高の幼馴染みだと思ってるよ」


 その言葉に、はっとしたのはキースだった。

 そして真っ赤だった顔は冷静さを取り戻し、「……そうか」と温度のない言葉をぽろりと落とすと、開いた口は堅く結ばれた。


「……ごめん。いろいろ考えたんだけど、キースはやっぱり大切な幼馴染みなんだ」

「……ん」


 私のみっともないところも、情けないところも、キースは全部知っている。キースの前では、誰よりも自分らしくいられた。

 彼は、私のだめなところをあまりに知りすぎていて、とてもじゃないけれど今更、この関係に愛だとか恋だとか恥ずかしい名前をつけられない。


「……でも――」


 声が震えた。大きく息を吸う。


「もう少しだけ、待っててくれないかな」


 固く握った手には汗がにじむ。

 足元に落とした視線の先で、小さな花が咲いていた。


「私まだ、正直、キースを幼馴染み以上には見られてない。でも、その……キースに好きだって言われて……悪い気はしなかったっていうか……どっちかっていうと嬉しかったっていうか……その……これから多分、何十年も一緒にいるのはキース以外想像できないっていうか……だから、もう少し、待っててほしい」


 自分がひどいことを言っているのは、分かっている。こんなのキースの優しさに付け込んでいるだけだ。


「もう少し……気持ちの整理が、つくまでは……」

「……お前……」


 隣で重たいため息が聞こえた。

 そりゃそうだ。こんな申し出、誠意がない。


「……そこまで言われてるのに、おあずけなわけ?」

「……え?」


 キースがこちらを覗き込むようにして、口の端を不敵に吊り上げた。


「ラピス、お前は分かってない」

「え?」

「俺がお前のこと何年好きだったと思う? 12年だぞ、12年。自分でも正直引いてる。でも、12年間、婚約者がいるお前が好きだった。お前以外を、好きになれなかった。だからーー」


 頭の後ろに手が回され引き寄せられると、口に何かがぶつかった。

 キスされたと気が付いたのは、3秒後。名残惜しそうに唇が離れ、キースが満足げな笑みで私の顔を覗き込んだ時だった。


「何年でも待ってやるよ。お前の気持ちの整理がつくまで。ラピスが俺を好きだって、ちゃんと思えるまでな」


 風が互いの前髪を揺らす。キースの黄金の瞳の中で、私は泣きそうな顔をしていた。互いの吐息が交じり合いそうな距離は、幼馴染みだった私たちにはまだ刺激が強い。


「……ま、」

「……ま?」

「待つって言ったばっかりじゃんか、ばか!」


 渾身のビンタがキースの頬に炸裂し、乾いた音が修復室の裏手に響く。


「いっ……てぇな!」

「当然でしょ! なに気軽に、キッ……キスしてんのよ! キース、待つって、言った!」


 もう一発ビンタを、今度は反対の頬にお見舞いした。ビンタっていうか、グーで殴った。「うぐ……」と頬を抑えて蹲るキースを無視して、立ち上がり歩き出す。

 バランスの崩れたベンチが壊れ、キースは崩壊に巻き込まれた。後ろでなにやらわめいているのが聞こえてくるが、今は全部形のない音として、右から左へと抜けていく。


 きっと、私はもうキースの顔をまともに見られない。頬に集まった熱の下げ方も、爆発しそうなスピードで動く心臓の鎮め方も分からない。


「なぁ、おい、ラピス、俺は謝らないからな! 俺はお前の気持ちの整理がつくまで待つけど、こうなった以上は、もう自分の気持ちは抑えねぇから!」


 私たちは、もう、ただの幼馴染みではいられない。

 それがちょっとだけ寂しくて、でも、不思議と嫌じゃない。なんだかそれはそれで悔しい感じもする。

 だから、「嫌じゃなかった」は、もう少し、言わないでおこう。




END


長い話でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。

また別のお話で会いましょう。

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