15.名前呼び
紗江さんはしばし無言だった。
それに倣ってか口を挟めずか、僕も桐島さんも、紗江さんが次の言葉を発するまでは黙ったままだった。
静かに見守っていると、やがて紗江さんが薄っすらと目を開いて桐島さんに目をやった。
目をやって、そのまま今度は笑みを浮かべる。
「ありがとう、藍子。神前さんも……ちょっとだけ、心が楽になりました」
それは良かった。
そう思いはしたが、簡単に言葉にはならなかった。
人生最初の思い人が、我慢なんて言葉を残しながら、果てにはそれに耐えかねて自殺をしたなんて、その胸中たるや僕には想像もつかないからだ。
もし仮に――仮に、葵が高校であり得ないくらい虐められていて、果てに自殺をしようものなら…。
考えたくすらない。
考えたくすらないようなことを、紗江さんは実際に体験しているのだ。
「気にしないでください。それが仕事だから――なんて言葉は抜きにして、力になれて良かったです」
「ありがとうございます…神前さんも、ここへ連れてきてくださってありがとうございます。改めてお礼を申し上げます」
「いえ、そんな…」
言葉が追いつかない。
答えは得た。それで気が楽になったというのも、恐らくは事実だろう。
ただ、それが彼女の思っていた――予想していたような答えであったかどうかは、また別問題だ。
彼女のリアクション、そしてその答えと滝崎少年のとった実際の行動。
我慢を謳って自らその命を終わらせるに至った滝崎少年の心を、簡単に理解出来よう筈はない。
「連絡もなしに急に押しかけて、ごめんなさいね」
「良いですよ、それはもう。お力になれたのなら、それで十分です」
「ありがとうございます、藍子。ついでにお泊まりもしちゃいますけれど」
「構いません。何なら、真さんも一緒に――」
「謹んで遠慮しておきます。何となく飛んでくるとは思っていましたが」
食い気味に断ると、桐島さんは「あらあら釣れませんね」と楽しそうに笑った。
気がつけば、夜もなかなかの時間。
紗江さんのとりあえずの宿が決まったのは、まぁ良かった。
夜道に女性を一人で帰すのは心が痛む。となれば自然、僕が送ることにはなっていただろう。
それが苦になるとは全く思わないが、もしそれで仮に何か起こりでもしてしまえば遅い。
ここで「せっかくだから」と追随されなかっただけマシである。
「着替えは私のを貸しますね。真さんも、お疲れ様でした」
「僕は何も。そろそろ失礼しようかな…」
「下まで送ります」
僕が言って立ち上がると、桐島さんも同じようではあるが僕より幾分淑やかな所作で立ち上がった。
断るのも何だからと礼を言って、そのまま玄関へと向かっていく。
靴を履き替え外に出て、肌寒い風を頰に浴びながら階段を降りる。
そうして記憶堂前まで来ると、僕は後ろの桐島さんに振り返った。
「ありがとうございます、ここらで良いですよ。紗江さんも待っているでしょうし」
「紗江さん…?」
「――何か?」
呼び方が気に食わなかったのだろうか。
「私はもうずっと一緒にいるのに上呼びで、紗江は初対面なのに下呼びなのですね」
「そう頬を膨らませないでください。あれはあの人の意向で、貴女に関しては"桐島さん感"しかないんですよ」
「では、一回試しに呼んでみてくださいよ」
「下で?」
「はい、下で」
桐島さんの頷きを以って、途端に気恥ずかしさが溢れてきた。
とは言え思えば、葵は割とすぐに下呼びで、遥さんも…岸姉妹に関しては区別が付かないからと言いながらも下呼びだ。
そして初対面の紗江さん――
今更感も、凄まじいものだな。
「えっと――藍子さん…?」
「はい!」
嬉しそう。
「何だかしっくりきて嬉しいです。明日からはそれでいきましょう」
「明日から…!? マジですか…」
「大真面目です。お願い、と言ってもダメですか?」
上目遣い。
これに弱い訳ではないのだけれど――抵抗できなくなる辺り、やはりそうなのだろうか。
「――分かりました。では、藍子さん。お疲れ様でした、お休みなさい」
「えぇ、お休みなさい。近場とは言えお気を付けて」
「ありがとうございます。それでは」
小さく頭を倒して礼を言って、記憶堂を後にする。
冬の寒く冷たい筈の風が、不思議と生温く感じてしまった。
さて再開の女子会は。
今度、今まで散々弄られたお返しと称して、色々と聞いてみよう。
あの二人の会話は、とても気になる。