14.”熊”
桐島さんの促しで、紗江さんは中へと上がり込んでいく。
ではこれで。
そう一言断って僕が帰ろうとしたところ、呼び止めて来たのは存外と桐島さんだった。
何でも、付き合ってくれとのことらしい。
どうして僕が――なんて愚痴を考え込みながらも渋々と上がり、何度目かの自宅訪問。
これといって変わった様子もなく、かといって全く変わっていない訳でもなく。
今日の桐島さんは可愛らしい寝間着に身を包んでいて、髪型は緩くふんわりと一つくくりのお下げだ。
「ラフな藍子って、初めて見たかも分かりません。とっても可愛いですね」
「嫌ですよ、もう紗江ったら。あなたこそ、そんなにきちっとした服装は好まなかったでしょう」
「そうでしたか?」
「そうですよ」
うーむ。
何だろう、この。
とても居づらい感じは。
とりあえずと靴を脱ぎ、部屋に上がってソファへ。
旧友同士、込み入った話もあろうから、僕はてっきりお邪魔だとばかり。
桐島さんのいつもの自由気ままかと思えば、紗江さんもそれを咎めはしないどころか、寧ろ大歓迎といった様子で僕に話を振ったりもする。
「――と、いうことがあって。それで今日、いきなりで悪いんですけれど、藍子の家に行っちゃおうと」
「もう、急なところも相変わらずですね。あぁいえ、とても嬉しいことに変わりはありませんけれど」
――そろそろ、突っ込んでも良い気がする。
「あの、お二人」
止まらない声に笑み。それをふと切り裂いた僕の言葉に、二人は一斉に視線を向ける。
やや緊張もするが、臆さず尋ねてみることに。
「えっと……お二人は同級生、なんですよね?」
ええ、と首を縦に振る二人。
「話しを聞く分には、お二人はとても仲がよろしいとか」
「それはもう。こう言っては何ですが、何をするにも一緒でしたね」
「そうですね。初めて出会って以降、クラスもずっと同じでしたし」
「なら、その――どうして、二人ともが敬語なんです? 片やおかしいくらいの尊敬対象だって言うのなら、話はまだ分かるのですが」
そう言ってみると、二人は目を見合わせて一拍。
キョトンとした様子で、且つ何事もなかったかのように言う。
「「おかしいでしょうか?」」
尋ねた僕が間違いでした。
両手を上げて降参すると、可笑しな神前さん、変わった真さん、と口々に言って薄く笑った。
僕の方が間違っている――筈はないと信じたい。
きっと、こういう付き合い方の人たちなんだ。よくあるお嬢様学校か、あるいは紗江さんの方もそういった家庭で育ってきたか。
気にしない。もう気にしないぞ。
無理やりにそう落とし込んだところで、紗江さんが「そういえば」と両手を合わせて小気味いい音を鳴らした。
集まる僕と桐島さんの視線。
「ここは、色んな人々の依頼を請けているんですよね、藍子」
「えぇ――と、皆まで言わなくても分かりました。ちょっとした力試しですね?」
「流石は藍子、話がはやくて助かります…!」
満面の笑み。
心底嬉しそうな紗江さんは、流石と言うだけあって、また桐島さんもそれを分かっている様子であって、きっと学生時代にも似たようなことがよくあったのだろう。
「まぁもっとも、力試しと言ってしまっては聞こえが悪いですね。敢えて”依頼”、と置いておきましょう」
その一言に、桐島さんの表情が少しばかり真面目なものへと変わった。
「事情を聞いても?」
「えぇ。少なくとも、藍子だって直接でなくとも無関係ではありませんから」
「――どういう意味?」
自身に関係があると言われて、益々以って首を傾げる桐島さん。
尋ねられた紗江さんは、事は高二の冬だと語り始めた。
冬休みが終わり、迎えた三学期はある日の昼休み。
休暇中に借りていた図書を返そうと図書室へ赴いたところ、所謂いじめられっ子の同クラス男子と居合わせた。
何ともなしに先ずは返却の手続きをして、すぐに図書室を出る予定だった。
しかしその時、周りに誰もいなかったからと、当時十七の紗江さんは、かねてより気になっていたことを尋ねてしまった。
――どうして、先生に相談しないの?――
と。
男子の返答は簡単なものだった。
大人は――ひいては、教師はとくに信用ならない。
真摯に相談に乗ってくれたかと思うと、それを上に報告するでもなく、かと言って自身でどうにかすることもなく、ただ話を聞いて終いだ。加えて、両親も無関心で他人は最も信用ならない。男子はそう言ったらしい。
それはその子が、中学時代に辛い思いをしたという経験から来る評価で、何も勝手な妄想で放っている言葉ではなかった。
であれば、と紗江さんは食って掛かった。
どうにかして欲しいわけでないのなら、元より悩む必要もないのではと。
それに対する、男子の明確な返答はなかった。ただ、
――すぐに分かるよ――
そう言って、その男子は図書室を後にした。
「いじめられっ子――滝崎君のことですね」
「えぇ。あの子、人には相談しないって言いながら、ずっと苦しそうにしていたのを知っていましたから。そのくせ、自分の好きな事には正直なんです。ちょっと変わった子だったけど、私の最初の思い人」
「それは初耳ですけれど――それで、滝崎君の言った”すぐに”というのは?」
「その翌日のことです」
択科目は芸術の、書道を選んだ者に、冬休み中の課題として出された一枚。
今の自分を見、そして未来の自分を想像した時に考えられる文字、というお題だった。
紗江さんは迷わず”音”の一文字を選び――といった風に、普通であれば、夢や目標を掲げて書くものであったが、その滝崎少年は違ったらしい。
――熊……?――
書道の授業を行っていた教室に貼り出された文字は、その一文字。
紗江さんは疑問を募らせたまま、また何日か経って図書室へと赴こうと考えていたのだが――
「自殺、でしたね」
桐島さんが呟いた。
遺書はなく、虐められていたという事実を残さぬまま、また宣言通り誰にも相談していないままに、自ら身を投げて命を絶ったのだそうだ。
以降、その文字の意味を、未来に何を想像していたのかを考えることも、またその答えを得ることもなく、紗江さんはずっと覚えたままで大人になってしまった。
愛を知れば――好きだと伝えていれば、あるいは。
そう考えてしまうらしい。
それを、今になって確かめてみたくなったのだそうだ。
「熊、ですか」
「ええ、熊。目の下の隈でも、水雷戦艦でも、愛媛の地名でもなく、動物の”熊”です」
球磨に久万、と。
それは置いておいて。
「また随分と変わった文字を選びましたね。それも、抱負を語るような場に熊とは」
「はい。あまりにおかしな話だったので、どうにも予想すら付かず終いで」
と、語る紗江さんの隣では。
桐島さんが、難しい顔をして口元に手を当てていた。
何か一つ、思い当たることはあるらしい。
「紗江。何か、ヒントになりそうなことはありますか?」
「ヒント――そうですね。彼が怒っていたのは、もはやその虐め相手ではない感じがしました。おそらくその白羽は、件の教師陣か両親かに向けられていたものなのでしょう」
「ふむふむ」
小さく噛み砕いて。
「決まりですね」
目を伏せ、そう言い放った。
決まり、とは。つまりは、一つ浮かんでいた何かが、彼女の中で完全に繋がったということだ。
それを受けた紗江さんは、自然「本当ですか?」と乗り出した。
「まず一つ。それは、彼が虐められていた事実とともに、彼が強い人間であることを示しています」
「強い――え、そんな。確かに、泣いたり唇を噛んだりといった様子は見たことがありませんでしたが、それで彼が強いという理由には――」
「二つ。彼に相談出来る相手がいなかったこと。それは同時に、彼の強さを際立たせてすらいます」
「相手って、それがどうして熊に――」
「三つ。これは知っているかどうかの話になりますが、簡単な駄洒落ですよ。言ってみれば、思いを連ねた言葉遊びです」
「言葉遊び…」
以上三つが、彼の記した文字の意味です。桐島さんは最後にそう括った。
しかし、いくら並べられようとも、紗江さんにはそれを解することが出来ない。
代わりと言っては何だが。
僕は一つ、思い当たることがだった。
「――だから、熊なのか」
呟いたのは僕だ。
実際、面倒事と言うには既に遅れている事象だけれど、声にまでするつもりはなかった。
ただ、それでも出てしまったのはきっと――誰より理解していたい筈の紗江さんだけが、それを理解出来ていなかったからだ。
その原因の一端は、桐島さんにもある。
まったく。いつも通り、分かりにくい言い回しだ。
「神前さん、一体……」
「言葉遊び。まったく、その通りです」
「えっと……何が、か聞いても?」
「書道とは日本の文化。それも課題とあっては、英語では書けませんから」
「英語……熊の、ですか」
はい、と僕は頷き、傍らにあったお菓子の包みとペンを手に取り、それを記す。
「"bear"と、こう書いた時点で、分かる人には分かります。あぁ、馬鹿にしたい訳でない事だけご理解ください。これはただ、知っているか知らないかの話。実際、滅多に使わない言葉ですから」
「bear……はっ…! まさか――そういうことだったの…!?」
「はい」
強い人。
人には言えない状態。
そんな中で、滝崎少年が未来の自分を想像した時の言葉。
皮肉にも程がある。しかし、それも滝崎少年の覚悟と強さであったとも取れる一文字。
あるいはそれ自体、メッセージであったとも言える言葉。
「bear。つまり熊という英単語と同じ綴りで――」
言いかけた僕の向かいでは、紗江さんが薄く涙を流す。
「我慢、という訳ですか」