13.旧友との再会
演奏を終えた遥さんの表情たるや。
演奏前に纏っていた緊張感を微塵も落とさず、堂々と息を吐いて楽器を下ろした。
そうしてしばらく、僕の方へ向き直ると「どうだ?」とでも言いたげな視線を送ってくる。
しかし、それに僕が答えるより早く、紗江さんが一歩前に出て僕に尋ねてきた。
「率直な意見を。音の乱れはどうでしたか?」
乱れ。
強弱等のバランスを"粒"と言ったりもするが、それはあまり馴染みがない言葉であった。
ピアノであれば、調律は調律師の仕事。弦を張ってこそいるが、それを自分で自由に調整出来るわけではない。
対してヴァイオリン。
同じ弦楽でも、ギターとは違ってガイドがない。
やっている人であればある程度の目安こそ立てど、それも真ん中を捉えていなければ、音が乱れてくるのだ。
半音の半音くらいといった微妙な違いではあるが、それによって完成度に明確な差が出てくるのは、チューニング関係なしにあることなのだ。
そこで、呼ばれたのは僕だと言うわけだ。
なまじ絶対音感を持ってしまっているだけに、それが分かってしまう。些細な変化に、無駄に敏感なのだ。
ただ。ただだ。
聴いてもらうだけで大丈夫と、そう言ったのは紗江さんだ。
最近やたらお喋りだと分かった遥さんには、それを伝えていないから漏れよう筈はない。
僕がそれを持っていると公言したのは桐島さんだけだけれど――連絡は取り合っていない様子だから、それもない。
で、あれば。
「答える前に――紗江さん。あなた、何か変わった目は持っていたりしませんか?」
そう問うた僕に、その後ろで控える遥さんが首を傾げた。
少し当然になりつつあるそんな言葉には、耳馴染みがないらしい。
返って、紗江さんはと言うと。
「分かってしまいますか?」
当然そうに目を伏せ、そう呟いた。
僕の問いかけに彼女が驚かないのも、当然といえば当然のことではある。
あくまで仮定ではあるけれど、桐島さんとの邂逅も、少なからずそれが絡んでいることも間違いないだろう。
元より、誰にでも等しく優しい桐島さんに対し、一番の友人などと呼べるからには、相応の理由もあろうから。
「藍子と一緒にいるということは、それについてもご存知なのですね」
「無論、とここでは言っておきましょう」
「あらあら、意地悪なことです」
ふふ、と薄く笑って、紗江さんは続ける。
「藍子は、総じて"感情"というものが視えているようですけれど、私の場合はその一端――"好きの感情"が視えてしまうのです」
「好きの感情…?」
「はい。あるものについて話している時、夢中になっている時のその人の心が、色で視えてしまう。強ければ強いほどに色は濃くて、そこに特別な何かも絡んであれば、加えて虹色の靄がかかるのです」
「それが、僕に視えたと?」
「その通りです。ヴァイオリンについてはからっきしだと言いながら、ずっとその色は漏れていました。言ってしまえば、ここに入って来られる前にチューニングの音でも漏れ聞こえてしまったのでしょうか、クラシック絡みということで心が踊っていたのでしょうか、何れにしても、入って来られた時からそれは視えていたのですよ」
ここに入る前から、僕はそれだけ"クラシック"というものに心躍らせていたというわけか。
また難儀なものだ、なまじ好きというやつは。
「さて、今度こそ答えてください。名曲と言えども簡単な運びを選んだのには、そういった訳があったのです」
「腱鞘炎によるダメージを防ぎつつクオリティの高い演奏――となれば、乱れを極力少なくするようなスキルで以って挑めばいい、というわけですね」
「ご明察です。お話が早くて助かります」
ふむ。
「上からな物言いになってしまうのはご容赦ください。と前置いて話しますと――正直なところ、乱れは大きく思います。技術自体には問題ないのですけれど、知らず知らずの内に庇っているのか、低音から高音への移動にかけて、高くなっているズレから低くなっているズレへ。言ってみれば、音の幅が狭くなっているような」
そう伝えると。
紗江さんはやや驚き、遥さんは「やっぱりか」と呟いた。
僕が直感で述べたことは、遥さん自身そうなんだろうなと思っていたことらしく、自身で感じたその違和感を、僕に確認して欲しかったのだそうだ。
「やっぱ乱れてるか。どうにも庇ってダメだ」
「悪化させない方法を無意識に選んでいるだけマシですよ」
親切心のつもりでそう言うや、今度は隣から紗江さんが「いえ」と強い一言。
「遥ってば、最初はもっと難しい曲を選んでいたんですよ。当時ならまだしも、今はダメージもブランクもあるのに」
「……遥さん?」
ジトっとした視線を向ける。
これだけは約束をしていたはずなのに。
「葵に心配をかけたくないのは、どこのどなたでしたっけ。無茶して悪化した時、一番心配するのは葵なんですよ?」
「あぁいや、分かってる分かってる」
どうだか。
と、そんな会話をしている僕らの傍らでは、また紗江さんが小首を傾げていた。
何か、と僕の方から問うてみると、
「葵ちゃん……懐かしいですね。遥、葵ちゃんも元気にしておられますか?」
そんなことを言い出した。
遥さんのヴァイオリン講師というのは、その実今限りではなく、その当時からの付き合いであることが分かった。
小さな頃の話ではあるから、葵は覚えているか分からないけれど。
紗江さんはそう括った。
すると、今度は遥さんが「そうだ」と声をあげる。
「俺がまた一時的にでも弾き始めた理由は、まぁ以来時に話した通りです」
「えぇ。葵ちゃんの卒業兼入学祝いだったわね」
「元より呼ばない義理もないわけですが――そのパーティー、紗江さんもぜひ」
「私が…?」
「ギャラリーは多い方がいい。それに、あの店主さんも来るって話ですし」
「……行っても良いのでしょか?」
少し申し訳なさそうに言う紗江さんに、遥さんは珍しく強めに「勿論」と放つ。
「両親が亡くなってからというもの、葵はその頃の話を全然しなくはなりましたが、割と小さな頃のことも覚えていますよ。それに――あの時のことだって」
最後に付けられたそれが、ふと気になりもしたが。
僕の方から聞くのもおかしな話だと、敢えて触れないようにして紗江さんの言葉を待つ。
渋っていた訳ではない。ただどこか、紗江さんは何かを遠慮しているようにも見えた。
が、そんな勝手な想像もあまり意味はなく。
すぐに「そうですね」と呟くと、パーティー参加の意思を示した。
「ありがとうございます」
「それはこちらこそです。お招き、ありがとうございます」
互いに小さく頭を下げて。
上げると同時に微笑み合って、少し空気は和らいだ。
「そうだ。神前さん」
不意に向けられる意識に、一拍遅れて返事を返した。
すると紗江さんは、藍子の所へ行く件なのだけれど、と。
「今晩、これから案内を頼めないでしょか? 藍子も来るってパーティーへの参加も決まったことですから、報告と挨拶も兼ねて、ちょっと会っておきたく」
「構いませんよ」
僕が頷きそう返すと、下の方で小さくガッツポーズを作って喜んでいる姿が目に入った。
不意な子どもっぽさまであの人に似ていて可笑しくて、ただそれを指摘しようものならどうなるか分からないので、それにも触れはしなかったが。
当面の課題も見つかったということで、遥さんの練習方針も決まると、僕らは荷物を纏めて音楽室を後にした。
そうして帰路。
遥さんとも別れ、電車も経て、記憶堂付近の路地まで紗江さんとやって来ていた。
改めて、女性を隣に歩くと、そっち側からずっと良い香りが漂っていることが何とも落ち着かない。
桐島さんも葵も、別府湾サービスエリアで隣り合わせて写真を撮った紗織さんも、総じて同じく良い香りがしていたのだけれど。
紗江さんのはまた違った、淡いフルーツのような優しい香りだ。
――などと一人で考えているのも、先よりずっと、紗江さんが無言であるからだ。
特に何かを考えているような神妙な顔つきもしていなければ、かといってウキウキワクワクといった風でもない。
一体、何を考えているのだろう。
「――神前さん」
ふと、小さく名前を呼ばれた。
聞かれたくない話なのか、話しにくい話なのかは分からないが、とても控えめに聞いて来た。
何でしょう、と応えるや。
「葵ちゃんと、恋仲なんですって?」
――何だって?
「えっと……紗江さん、それは誰から?」
大方の予想、というか確実に一人しかいないのだけれど。
「遥から。『これから呼ぶやつは、葵の彼氏なんです』って」
「あー……誤情報ですよ、それ。僕と葵は付き合っていません」
「そうなんです? でも、名前もした呼びですし、遥の話では”一夜を何度も共にした”と」
またあの先輩は――天誅ものだな。
「何て言い方の悪い。勝手に入って来られて、勝手に入って来られての繰り返しですよ。僕の方から望んでやったわけではありません」
「あらあら、それは残念」
この人も、何を期待していたんだか。
桐島さんに惹かれるだけあって、この人も――と思っていたが、よもや当たる予想であったとは。
優しさの中に意地悪を兼ね備えたとは。よくよく似通っている。
と、話もそこそこに。
差し掛かった路地をすぐに抜け、開けた空間に見慣れた建物を見つけた。
記憶堂が営業時間外とは言え、桐島さんはよく自宅の方へは上がらずに、いつもの奥部屋で作業を続けていることがある。
だからどちらにいるか分からないので、僕はまずスマホを取りだして桐島さんにコールした。
ものの二コール目で出たという事は、それに意識を向けさせられるくらいには忙しくないらしかった。
『藍子です。どうかなさいましたか?』
今更ながら、電話だとやはり声の印象が違う。
元より電話とは、数千というサンプルの中から一番近い音声を再生しているだけなので、そも本人の声ではないのだけれど。
「貴女に来客です。依頼の類ではないので、一度記憶堂外へと出て来ていただいて貰えませんか?」
『来客、ですか。分かりました。では――と。やっぱり、その方を連れて上まで来てくださいませんか。すいませんが、ついさっき自室の方へと上がってしまったので』
「了解です」
頷き応えて通話を切ると、僕は紗江さんに合図を送って、記憶堂側部へと回り込んでいく。
そうして、今はもうすっかり見慣れた扉に、聞き慣れたインターホンの音を経て。
「はいはーい――っと」
景気のよい声音とともに勢いよく開かれた扉の向こうから顔を覗かせた店主、桐島藍子と目が合った件の来客は。
「お久しぶりです、藍子」
「あらあら。また珍しいにも程がある来客ですね。久しぶり、紗江」
異なれども、同じ二つのふわりとした声が重なると、暗い夜の重い空気は、一気に華やかで軽いものへと姿を変えた。