12.”夢のあとに”
と、そんな誘いがあってやって来ているわけだけれども。
「あなたが、遥の話していた…?」
小首を傾げて可愛らしく覗き込みながら尋ねてくる女性。
恐らくは――と言うか間違いなく、この人が件の講師と見て間違いないだろう。
白のワンピースは、色味だけ見れば桐島さんと対照的ではあるが、ふわりと風に乗って届く声音は、どこか似通っている。
「楠紗江。天上音大で教員をしております」
女性は名乗り、左手を差し出してくる。
いい加減慌てることもなく、落ち着いてその手を取る。
「神前真、一回生です」
「ふふ。変わった苗字ですね」
控えめに笑うと、交わした握手を離した。
飾らないシンプルな容姿に落ち着いた口調は、どこか旧家名家のご令嬢然としていて――
ふと、彼女の名乗りに違和感を覚えた。
どことなく、雰囲気と言うか空気感と言うか、言いようのない部分があの人に似ている。
「失礼ですが楠さん」
「下の名前で構いませんよ」
「では紗江さん。身内に、どこぞ大きな屋敷で執事をしていらっしゃる男性がおられたりしませんか?」
そう問いかけると、楠さん改め紗江さんは、口元を押さえて「まぁ」と驚いた。
小さな所作一つ取っても、やはりその上品さはあの人そっくりだった。
「岳のお知り合いなのですか?」
そういえば聞いていなかったけれど、楠さんの下の名前、岳というのか。
図らずも知らなかった情報を得られてしまった。
「知り合いの知り合い、ですかね。ある所でアルバイトをしているのですが、そこの店主が、楠さんのお仕事先の住人なんです」
「アルバイト……こちらも失礼ついでに一つ。それって、記憶堂さんですか?」
と、紗江さん。
これは驚いた。
いや、まぁ考えてみれば、身内である楠さんの仕事先さえ知っていれば分かろうものではあるけれど、素直に驚いた。
「そうですが…」
「まぁまぁ。それじゃあ、あなたの言うそのお知り合いって、藍子のことですか?」
藍子? 呼び捨て…?
「えぇ、まぁ…そうですけれど…」
当てられてしまったからには、何も隠す必要はない。
正直に頷き答えると、紗江さんは驚いた表情から一変して、途端に華やかな笑みを浮かべた。
聞けば、紗江さんと桐島さんとは高校の頃の同級生で、紗江さん的には一番の仲良しとのこと。
言ってしまえば、楠さんがあの屋敷を仕事先に選んだのも、その繋がりもあってのことらしい。
「藍子、元気にしてますか?」
「それはもう。記憶堂に行く度、弄られて仕方がありません」
「それは――ふふ。私も、あの頃はよく悪戯されたものです。懐かしいですね…」
遠い過去、と言うほどでもないのだろうが、昔を懐かしんで、暖かで優しくも少し遠い目で、斜め下方を見やった。
言葉から察する分には、その悪戯を恨むべく悪友、と言うわけではなさそう――と言うか、言葉のまま"一番の仲良し"なのだろう。
「へぇ。あの人の家、執事も雇ってたのか。見た目と雰囲気通りの御仁だったんだな」
「僕も、初めて伺った時は驚ききました。楠さんの存在にも、そも屋敷の大きさにも」
忘れ得ない衝撃である。
そういえば桐島さん、仕事が一段落して少し落ち着いていたな。
僕の代わりと言ってはあれだが、友人と言うのであれば、紗江さんを寄越して昔話に花を咲かせるのも、仕事合間の息抜きにはなろう。
「宜しければ、またぞろ記憶堂へ案内しますが」
「まぁ、本当ですか?」
「えぇ。丁度最近は手空きですし、そろそろ僕を弄るのにも飽きてきていましょう」
「ふふ、それは分かりませんが――いえ。では、お言葉に甘えさせていただきましょうか。久方ぶりに、話したいこともたくさんありますから」
「いつでも。遥さん経由でご連絡いただければ――」
「あ、いえいえ、それは遥にも悪いので。せっかく藍子のお知り合いなので、もう直接交換しておきましょう」
そう言って優しく微笑みやがら、紗江さんは傍の机に置いていたバッグから、これまた落ち着き払ったデザインのケースに包まれたスマホを取り出した。
慣れた手つきで操作し、やがてこちらに向けられたのは一つのQRコード。
「アプリの方が、最近の子は慣れているでしょう? こっちで大丈夫よね?」
正直なところ、メールにもアプリメッセージにも慣れたばかりの僕からすれば、それは別にどちらでもいい話だったので、とりあえず「はい」と頷き同じアプリを起動した。
いつだったか、葵に方法聞いておいてよかった。
差し出されたQRコードを読み取って表示されたアイコンも、小さなチーズケーキと紅茶を並べて撮った、これまた可愛らしくも似合いの画像である。
「子どもっぽいと思いますか?」
「え? あぁいえ、そんな。あの人にどこか雰囲気の似ているあなたが、同じような画像だったものですから」
「あら。藍子のはどんなのです?」
聞かれて表示した件の画像は、同じく小さなムースケーキにコーヒーを並べた一枚。
それを見た紗江さんの反応たるや、もう想像通り「ふふふ」と可笑しそうに笑うばかり。
「ほんと、そっくり。藍子、まだコーヒー派なんですね」
「そんなんですか? 僕が初めて記憶堂を訪れた折に出されたのはアールグレイーー紅茶でしたね。他にはお酒ばかり…」
「まぁまぁ、それも変わりないんですね。ブラックが好きなことを『ただでさえ歳以上に大人だって言われるのに、ブラック好きはそれを加速させてしまいます!』なんて言って、私以外の前では紅茶を飲むんです。あの容姿だと、それはそれで大人っぽいのに、可笑しいな」
「はは、あの人らしいですね。また面倒な持論を」
いい大人の身で、子どもらしく頬を膨らませている姿が容易に想像できてしまう。
しかし、楽し気なお話もそこで終了。
僕きっかけで、話題は元の遥さんのことへ。
結局のところ、良くなっているということはないらしい。
かと言って悪くなっていることもなく、まぁ所謂平行線なのだそうだ。
であれば、酷使せず、上手いこと手を抜く方法さえ会得してしまえば、腕への負担もある程度は減らして演奏が出来る。
と、紗江さんの言葉だ。
素直に良かったと思う。
これで「実は」なんて言われた日には、無茶のし過ぎは良くないぞと注意していたところだ。
とりあえずは何もないようで一安心。
安堵の息を零す僕に、早速だけどと口を開いたのは、存外にも紗江さんの方。
視線を向けた僕の前で、バッグの更に向こう側の壁へ立てかけていたケースを手に取り、中から年季の入ったヴァイオリンを取り出した。
「神前さんは、クラシックピアノを嗜んでいるとか?」
「正確には”いた”ですけれど。と言っても、バイオリンのことはからっきしですよ」
「構いません。あなたには、聴いて貰うだけで大丈夫ですから」
「聴いて――? よく分かりませんが、了解です」
僕の同意を以って薄く笑うと、今度は遥さんへと向き直る。
自身の手に持っていたヴァイオリンを遥さんに手渡し、一歩、二歩と下がった。
そうして、今度は遥さんが僕へと向き直った。
何ても良いから一つ椅子を持って来て、それに座って聴いていてくれ、と。
言われた通り、近くにあったパイプ椅子を開いて腰掛けると、頷き、深呼吸一つとともに瞳を閉じた。
空気を介さずとも、視認しただけで伝わる緊張感。
これから響く音に期待してか、あるいはどう不安要素に転んで行ってしまうのかと危惧してか、どちらにしても、僕は鼓動が五月蠅く速くなっていた。
「すー…ふぅ……」
感覚を開けての、再びの深呼吸。
それを以って閉じていた瞳を開き、ヴァイオリンをセットポジションへと運んでいく。
ブランクを感じさせない所作。これが所謂、紗江さんの言う”上手いこと手を抜く方法”なのかどうかは分からないけれど、何にせよ、それをこちらに認識させない、流れるような運びで遥さんは楽器を構えた。
「知ってるかは分からんが――」
呟き、すぐに響き始めたのは、単調で進むしっとりとした三拍子の表題。
知る人ぞ知る名曲。
フォーレ作曲、歌曲集三つの歌から『夢のあとに』だ。