11.帰路とお誘いと着信と
これは本当に申し訳ないことをした。
桐島さんの頼みを裏切るどころか、それが逆転してしまっていたとは情けない。
通り慣れた薄暗い路地を歩きながら、僕が盛大に溜息を漏らす。
「もう、そう気にしないでくださいよ。元より、私だってちゃんと眠っていたわけではないんですから」
桐島さんは明るく言う。
ただ、それに甘えるのも、また何かちょっと違う気がする。
「そうは言いますけど――僕、そんなに疲れ溜まってたのかな」
「さぁ。ただ、眠気はあったみたいですね。ちゃんとお休みは取れていますか?」
「以前と変わらない程度には、といったところですね。まぁ元より寝不足気質ではないので、ちゃんと取れている方だとは思います」
「それは結構です」
桐島さんは頷いた。
ただ、悩みに頭を捻る時間は増えた。
乙葉さんからの告白を受けたのは今日。それは違う。
遥さんのことだ。
遥さんの言うソロコンサートは、自身でも分かっている通りリスクは高いだろう。
闇雲に自分一人で練習をしていたのでは、それを加速させているも同じ。誰か、何か、軽減をさせながら、あるいは負担をあまりかけないようにする術を知っている人が、コーチにでも就いてくれないものか。
僕も軽症ではあるが腱鞘炎を持っていた身だけれど、ピアノとヴァイオリンとではそも手の使い方も違うから役には立たない。
「高宮さんの件ですか?」
ふと、桐島さんが控えめに尋ねて来て、僕はそのまま頷いた。
そう。僕が遥さんの症状について知っている理由は、他でもないこの人がぽそりと呟いていたからである。
――幼少の頃、ヴァイオリンの子ども全国大会でトップに立った人が居たそうですよ――
そんな言葉を思い出した。
そういえば、桐島さんは以前に、あの家族とは面識があった。久々に会った通潤橋の件の時にも親し気だったし、その比叡山の時に、あの家族の人たちから色々なことを聞いたのだろうか。
仕事柄、と言ってもそうだし、話しても大丈夫だろうと、相談をしても大丈夫だろうと思える人なのは間違いない。
「ただブランクがあるだけだと言うのなら、練習をすれば済む話なんですけれど。遥さんの場合、ご存知の通り大きなハンデがあります。それを出さないよう気を付けながら、しかし短い期間で仕上げなければいけない。言い出しは本人だから何とも言えませんが、他人目から見るとあまりに無謀だと思うんです」
「それは――練習が追い付かないこと? それとも、手のこと?」
「両方です。それはとても、二足の草鞋といけるようなものではありません。現実的な問題、気合一つでどうにかなるとは思えないのです」
「”葵ちゃんの為”という気持ち一つでの決心ではありますよ」
「あまりいい結果にはならなそうな――どうしたらいいのか」
どうにかなるとも思えない。
ただそれでも、あまり人が傷つくところは見たくないのだ。
まして、それを自分から望んでいくようなところは。
そんな僕の心に、桐島さんは少しだけ口元に人差し指を当てて思考。すぐに何か言葉が浮かぶと、僕の肩を小さく叩いて意識を向けさせる。
「傲慢、という言葉をご存知ですか?」
「え? いえ、勿論。それが何か?」
「少し違いますが、言い換えればそれは”自分勝手”とも取れます」
「――何が言いたいんですか?」
聞くと、桐島さんは指を立てて「まず一つ」と置いた。
「葵ちゃんのこと。それと、リルちゃんのこと――は、メインは葵ちゃんでしたか。あと、私のこと。そのどれにも、真さんは真摯に向き合い解決をしてみせました。が、そこに疲労は重なりませんでしたか?」
「勝手に連れまわしたりは。いえ、寧ろ僕の方が連れまわされたし、疲れなんて――」
ない。そう言いかけた僕を、桐島さんが「そうではなく」と制した。
「真さん、あなたの疲労です」
「僕の…?」
「ええ」
桐島さんは深く頷いた。
僕が葵の為に動いた時。
雨にも関わらず走り、葵が休んだ後も一人探し、動き回った時。
あれは紛れもない正義ではあったけれど、同時に自己犠牲でもあった。
僕が桐島さんの為に動いた時。
誠二さんの依頼を一人受け、他人を使いつつも情報を集め、桐島さんを説得し、家にも行って――それも、確かに正義ではあるけれど、同時に一人メインで動いた自己犠牲。
「咎めているのではないとご了承いただいた上で言いますけれど、あなたの行動は、種類こそ違えど、遥さんの無そうとしていることと根底は同じなのです。誰か――ひいては葵ちゃんの為にと自分は棄てて役に立とうとしているのです」
「それが――」
「えぇ。真さん自身のそれを棚に上げて遥さんを庇おうと考えるのは、傲慢――つまりは、自分勝手な杞憂だと言えます」
「僕の…」
言われてみれば。
納得は、得心はいく。
確かにそう取れる、否、そうとしか取れない現状だ。
自分がやってきたことを、無意識の内に犯してきた自己犠牲を、他人にはやるなというのは傲慢に他ならず、またそれをわざわざ口に出して止めようとするのは、自分勝手もいいところである。
するとふと、どれだけ神妙な表情になっていたのかは分からないけれど、僕の顔をちらと覗き込んだ桐島さんが、優しく「ふふ」と笑いを零した。
「気は落とさないでくださいね。真さんのそういうところは、美徳ですらあるんですから」
「そう、なんでしょうか…?」
「それはそうでしょう。突き詰めていけば、人は保身に走るものですから。進んで自身を使い、人の役に立とうとすることは美徳ですよ」
「うーん……だと、いいんですけれど」
頭を捻りながら。
思い浮かんだこともう一つ。
――それは、とっても素敵なことだよ――
葵の言葉だ。
通潤橋でおじいさんに会った後、葵が僕に言った言葉である。
同情でも思いやりでもなく、ただ放っておけなかったから。そう言った僕に、葵が微笑んで返してきたんだった。
忘れていた。
葵にも言われていたことなのにな。
その葵の兄である遥さんの行いを、よもや自分は放っておいて咎めんとするなんて。
よりにもよって、それを気付かされたのが、また桐島さんというところに――そこはかとなく、自身が情けなく思えて来る。
「さて」
ある交差点に差し掛かると、桐島さんが柏手一つとともにそう言って、
「右に曲がれば記憶堂、私の家です。どうでしょう、久しぶりにお話でも」
そんな提案をしてきた。
なんて魅力的な誘いだろう。
一度ならず二度までも、よもや桐島さんから誘いを受けようとは。
道行き振り返る人たちに、自慢の一つでも出来そうだ。
しかし。
「――すいません。大変嬉しくはあるのですけれど、今日のところは。色々と考えることが出来てしまいました」
「そうですか」
呟き、
「ちょっと、残念ですね」
眉根を下げた、少しばかり苦い表情でそう言った。
何か話したいことでもあったのか。
気にはなるし、僅かに心も痛むけれど。
「おやすみなさい。あと、電車ではありがとうございました」
「いえいえ、そんな。すぐにご自宅でしょうけれど、真さんも道中お気をつけてくださいね。おやすみなさい」
いつも通りの優しい笑顔。
杞憂――ではないだろうけれど、あれが何もない、ただ誘いを断られたことへの表情であったと願いたいものだ。
家に着き、電気を点けて部屋着に着替えた折。
ふと、布団の上に投げていたスマホがメッセージを受信して震えた。
「えっと――遥さん?」
噂をすれば。
というか、考えていればだ。
スリープからスマホを起動し、件の受信メッセージを表示する。
『単刀直入に言うが、明日の抗議が終わった後、西棟の五階は一番奥の”第一音楽室”まで来れるか』
「音楽室? 何だってまた――ヴァイオリンの件かな」
とりあえずの返信。
『予定はないので構いませんが、またどうして?』
『あぁ、それなんだが』
続く一文。
『知り合いのヴァイオリン講師の紹介と銘打って、クラシック好きのお前から見た、今の俺の仕上がり具合を見て欲しいんだ』