33.倒語
例えようのない緊張感が、場を一気に埋め尽くした。
言われた修二さんは固まり、眉根を下げたままで目を見開いて、桐島さんは腕を寄せて俯いている。
正に、一触即発といった状況。
この後、誰かが口を開くことで、何かがすぐに爆発しそうだ。
大輔さんは口をへの字。
小夜子さんは苦く微笑みを浮かべている。
――で、あればだ。
爆発するなら、部外者である僕が相応しいだろう。
たった今知ったばかりの事実だとは言え、そも依頼を断らなかった時点で同罪なのだ。
おこがましい言い分をするなら、ずっと一人で抱えて来た修二さんを、少しでも楽に出来たら――なんて、お門違いもいいところな発想による、僕の勝手な暴走だ。
何とか一つ、小さく深呼吸。
乾いた空気が喉に痛いけれど、そうも言ってはいられない。
何でも良いから、言葉を発するんだ。
「依頼は――」
瞬間、皆の視線が僕の方へと一気に集まって――
(来ない……?)
切り出しにしては弱かったか。
などと思っている内に。
「知っていましたよ」
と、小夜子さん。
これは一体――
「今日は朝から、何だかずっと思い詰めたような表情をしていたものですから、何事かと思っていたのですけれど……そんなことでしたか」
んん?
知っていた――?
「てっきり、泥棒さんがいつの間にか入ってしまっていたのかと」
「ああ、いつだったか肝を冷やしたな」
当たり前のように会話を続けるご両人。
「ちょ、ちょっと待って…! 知ってたって――父さん、母さん、知ったんですか…!?」
興奮気味に、言葉が荒くなってしまうのも無理はない。
これまで何とか隠していたことが、隠していた”つもりだった”ことに、自分が持ち去ったものが、よもや泥棒騒ぎにまで発展しかけていたことに、全く異なるものへと姿を変えてしまったのだから。
頭がぐちゃぐちゃになって整理が追い付かない様子の修二さん。
何が何やら、といった風に表情が忙しい。
「あの事故、いつ頃でしたか?」
「私が小学校の頃です」
「ええ、その通りです。高々そんな小さな時分の子どものお粗末な頭で、よもや大人を四人も騙せるとお思いだったのですか?」
「そ、れは――」
「土台、不可能なことです。そも、がん告知云々の話であればお医者様も考えましょうが、人が一人亡くなったことを、その理由を、その家族である私たちに黙っているなんて、そんな筈がないでしょう」
”ド”が付く程の正論。
流れと雰囲気と言葉の重みにすっかり飲まれてしまっていたけれど、よくよく考えれば穴だらけな話だ。
「修二以外の皆が記憶を欠損していたのは事実。ですから、修二のそんな無茶苦茶な言い分を、お医者様は『お気持ちを無碍にしないであげてください』なんて言って来たのですよ? それを最低限守れる、しかし正直な態度を、と、私たちは”何も言わなかっただけ”なのです」
「そう、ですか……」
「まったく馬鹿げた話です。法事にも毎回出席していて、私たちが当たり前のような表情で座っていることを、何とも思わなかったのですか?」
「こ、言葉もない……です」
「そうでしょうそうでしょう。存分に反省なさい」
「ちょ、小夜子さん…!?」
「うむ、言い過ぎだ」
と、僕と大輔さん。
ようやくの制止に「おっと」と口元に手を添えると、
「今まで、子どもを叱ったことなんて全然なかったものですから。つい、熱が入っちゃいました」
なんて単純な理由なんだ。
「ともあれ――」
いつものように柏手一つ。
「家族の愛を、また一つ確認出来たということにしておきましょう」
「なんて雑な纏め方……」
「思い詰めすぎるのは、人間にとって毒ですから」
それでいいのだろうか――とも思うけれど。
積もる話は、身内たちに任せておくのが吉だろう。
僕も僕で、随分と雑な纏めだ。
―――
そんなこんなと帰路。
一段落ついた話の後、色々な所を周り、またちょっとお腹を満たし、しばらく島を満喫してからフェリーを経て、今は再び飛行機の中だ。
気になる。
この後、大輔さん、小夜子さん、桐島さん、そして修二さんが、どのような会話をするのか――気になって仕方がない。
お陰で、目が冴えてしまって寝付けない。
「事の顛末は、追ってメールをするか、また記憶堂で話すといたしましょう」
唐突に、隣の桐島さんが声を上げた。
行きとは違い、窓際に僕、隣に桐島さん、通路を挟んでご両親、修二さんと並んでいる。
「気になって仕方がない――と、顔に出ていますよ?」
「だから心を読まないでください」
「ふふ。それだけそわそわしていれば、色が視えなくとも分かりますよ?」
そんなにそわそわしていたのか。
反省反省、と。
ふと、桐島さんは隣の三人に目をやり、様子を伺った。
ぐっすりと深い眠りについていて、声をかけた程度では起きそうにない。
――という状況に頷くと、僕に向き直って「実は――」と前置いた。
「全部、知っていたことなのです」
「……は、え?」
急にまた、この人は何を言い出すのだろう。
そう勘繰りかけたところで、先に修二さんが言っていたことを思い出した。
確か、事故にあった折に共感覚が目覚めた、と。
「本当は、礼文島についても、あの事故のことについても、私は全部覚えていました。全部覚えていて、兄の厚意に甘えて、私は何も言わなかったのです」
「……どうして、とは聞いてもいいのですか?」
「兄がある日『私は”倒語”というものが一番好きでね』と言い出しまして」
唐突に出て来る”倒語”。
首を傾げる僕に、桐島さんは続けて言った。
「興味ないと私が言うと、兄は『言葉遊びは自由だ。そして楽しい。藍に似ているんだ。だから、藍にも知って欲しいんだ』などと。理由は教えてくれませんでしたけれど――」
「けれど?」
「……どこかで、私は兄の優しさに気が付いていたのです。サヴァン紛いの頭を得てからというもの、忘れる筈はなく、今だってそれは、はっきりと覚えている」
それが何か、僕が問うと。
桐島さんは、遅ればせながら一つ、追加で自己紹介をしたいと言った。
「私の誕生日は一月八日。やぎ座です」
それを聞いた瞬間、僕はふと気が付いてしまった。
いつもはそんなに働かない頭が、いやに冴えていた。
倒語――ごうと。
Goat。つまり、やぎだ。
星座に関する神話として、やぎとは、パンが脅威から逃げる際、変身を誤って下半身が魚になってしまった哀れな存在だ。
それを嗤いものにされ、神々にも嘲笑され、挙句ゼウスに星へと変えられてしまう。
「倒語を覚えていれば、使って遊んでいれば、いつか楽しいことが巡って来ると兄は言っていました」
「楽しいこと……?」
「やぎ座を構成する内の一つ、γ星ナシラは、アラビア語で”草原の護り星”とされているのですけれど――」
もう一つ。
「”幸運をもたらすもの”とも呼ばれます」
幸運をもたらす倒語、やぎか。
またぞろ、無理やりなこじつけというか、子ども心にしては変に頭を使ったものと言うか、曖昧に可笑しな愛情だ。
「なるほど。だから、先週はあんなに早く話がついたんですね」
「ええ。私からもちゃんと、話さないと――ちょっと重たい課題ですけれど」
桐島さんは苦く笑った。
「まぁ、そうですね」
それを言ったところで、あの人たちが今更どうこう言うとも思えない。
修二さんの迷いを、簡単に一蹴してみせたのだから。
不随して浮かび上がったちょっとした要素、程度のものだろう。
「今回の件に関するものはどれも、二人が子どもの頃に起因するものばかりだ。笑って流してくれますよ、きっと」
「……だと、良いですけれど」
あの両親のことだ、そんな気はする。
「そういえば一つ、私にも分からないことがあるんです」
「はい」
「兄が持ち出したという写真、どこにあるんでしょうか。まさか捨てたり、焼いたりした、とか――」
「それはないんじゃないでしょうか?」
「どうして言い切れるんです?」
言い切っている訳ではないけれど、大方の検討はついているものだから。
これが外れては馬鹿馬鹿しい。
しかし、あの時の修二さんの所作を思い返すと、それ以外の要素が考えられない。
「写真を保存しておくということは、同時に、逃がさない、忘れたくない、ということですから」
「意地の悪いヒントはいりません、答えをください」
「焦らないでくださいよ。どうせすぐに分かりますから」
家に帰って話をするというのなら、その瞬間に机上に置かれることだろう。
あのボロボロにくたびれた、”家族写真”のホルダーが。
そういえば、散々世話になった岸姉妹からも、一つ依頼があったな。
空港に着いたら、メールの一つでも入れておこう。