28.礼文島への機内にて
「そういえば、明日だよね?」
「そ。謎に緊張するから、本当はあまり行きたくないんだけどね」
と、会話をしている相手は葵。
明日を礼文島への出立に控えた今日は、金曜の夕刻だ。
「ごめんね。だから、せっかくの休日だけれど、勉強を教えには来られなくて」
そう言うと、葵は首を横に振って、
「ううん、いいよ。大丈夫。藍子さんのこと、ちゃんと見ててあげて」
「勿論。ありがと」
こういう時、葵は本当に良い子だ。
とても頼りになる、と言っては変だけれど、良い意味で他人を優先してくれる、とても優しい女の子。
「それで、ここなんだけど――」
五分休憩も終え。
僕は再び、葵の参考書を睨めっこを始めた。
本日の家庭教師も終えると、僕はすぐさま荷物を片し、明日の準備をするべく帰宅の姿勢に入る。
目覚ましい進化を遂げる葵は、毎度毎度さっぱりした様子で「ありがとう」と言ってくれるから、教えているこちらとしてはとても有り難い。
「あ、ちょっと待って」
玄関へ向かって歩いている僕を呼び止め、葵は冷蔵庫から何かを取り出して持ってきた。
それは、ビニールの袋に大量に詰められた、手作りと思しきクッキーだった。
「ハロウィン、近いから。会えるか分からないし、今日の午前中に作ってたの。あ、大丈夫、勉強もちゃんとやってるから、その息抜きって言うか……うん、そんな感じ」
「手作りなんて嬉しいな。料理だけじゃなかったんだ」
「簡単なものだけど……量は沢山あるから、明日の機内ででも食べて。一応、この間の藍子さんへのお礼ってことにもしておきたいから」
「分かった。ありがとう、大事に食べるよ」
「うん」
ふわりと優しい笑み。
随分と自然に笑うようになってきたな。
出会った頃は、少し怖さというか、人と話すのに抵抗があるような堅さがあったのに。
勉強もそうだけれど、こちらの変化も嬉しいものだ。
最後にもう一度だけ礼を言って、僕は高宮家を後にした。
謎に緊張する明日の予定。
桐島さん的には、まだ百パーセントとまでは戻っていない空気に耐えられるかどうか、といったところで僕を誘ったのだろうが、僕が着いて行ってしまってもいいものだろうか。
既に取ってしまっているチケットを今更キャンセルするのも、とも思ったけれど、そも頼まれていることが納得いかない。別に、今からでも言葉にすればいいのでは?
しかし。
あの上目遣いには敵わないな。
女性にコロッと騙されて――というわけではなく、単純に心配なのだ。
アルバイトとは言え、もう半年になる付き合いだ。彼女がどうなるか、あるいはどうもならないのか、その行く末を見届けたいのだ。
そんなことを言ったら、桐島さんはどんな反応をするだろうか。
子どもじゃないんですから、と怒るだろうか。
はたまた、ありがとう、と礼を言われるだろうか。
あるいは――気付かずにスルーされるだろうか。
その考えに意味はないけれど、何だか気になることの一つではあった。
―――
「なるほど、これをその女の子が」
「ええ」
予定通りに早朝から桐島家を訪ね、向子さんに見送られながらそのまま車で楠さんに送ってもらい、ようやくと乗り込んだ飛行機内にて、葵から貰っていたクッキーを出していた。
席順の並びは二と三に別れ、一番良いポジションである窓側に桐島さん、修二さん、通路を挟んで大輔さん、小夜子さん、僕となっている。
何なのだろう。
この、言いようのない圧力は。
「桐し――あ、藍子さん、葵からハロウィンとこの間のお礼を兼ねてって、クッキーを貰ったんですけれど」
ここでは皆が桐島だったことを思い出し、慌てて名前呼びに統一する。
桐島さんは、どうしても“桐島さん”というイメージだから、呼ぶことにとても違和感を覚える。
「ありがとうございます、真さん」
この人はそれを自然とやってのけるから不思議だ。
葵から貰ったままの形でそれを渡すと、薄っすらと笑顔を返された。
どういう意味があったのだろう。
そう勘繰る隙もなく、話題は隣に座る小夜子さんから振られたピアノの話へ。
どういった類の曲が好みか、作曲家は誰がお気に入りか、今まで人前で弾いたことはあるか、と楽しそうに質問してくる。
いつか食事でも、と誘われたその肴を、まさか機内で果たそうとは。
「そうですね…隠れた名曲、みたいなものが好きで。ジャック・イベールの“物語”が、不思議ととても大好きですね」
「フランスの作曲家ですね。軽妙、新鮮、といった言葉で評される。物語ですか、また随分とマニアックな選曲ですね」
「たまたま小学校の頃に習っていた教室の先生が、その年の発表会用にと選んだものだったのですが。気が付けば、一番好きな曲に」
不思議な曲を持ってきましたよ、と渡されたそれを、今でもはっきりと覚えている。
「なるほどなるほど。私、それだと“金の亀を使う女”が好きです」
「あ、分かります…! あの何とも言えない幻想的な音の運び……たまりません」
「そうそう! ふふ、趣味が合いますね」
口元に手を添えて、上品にくすりと笑う小夜子さん。
音楽の、ひいてはピアノの話をしている時、とても楽しそうに会話が弾んでいる。
大輔さんも、話せない訳では決してないのだろうけれど、文字を読めないというところから、ある程度の線引きがあるのだろうか。
ふと気になって、僕は尋ねてみた。
「大輔さんとは、音楽の話をしないのですか?」
まずかったか。
そう思いながらも、しかし小夜子さんも大輔さんも、特に顔色は変わることなく、僕の問いに答えてくれた。
「勿論、話しますとも。昔も今も変わらず、好きな音楽については、うんと語り合います。好みだって合うんですよ? どうしてまた…?」
「あぁいえ、すいません、深い意味はなく……心底楽しそうに話されるものですから、あまりそういった類の会話がないのかな、なんて。過ぎた考えでした」
「小夜子は誰に対してもこうだ。私と出会って間もない頃も、この見た目に怯える様子もなく、ずっとピアノについて語っていた」
「目つきの悪さは関係ないかと思いますけれど……音楽を、クラシックを、ピアノを好きな人に、悪い人なんていませんよ」
そう言うと。
大輔さんと小夜子さんの顔色が、少し変わった。
何を知った口を。そんなことを言われるのだろうかと身構えていると、小夜子さんは吹き出し、大輔さんは不敵に笑ってみせた。
「それから間もなくしてからだったな。小夜子に同じことを言われたよ」
「言いましたねぇ、懐かしい。その時の大輔さんの顔ったら、トマトみたいに赤くなっていたんですよ?」
「それは言わん約束だ」
「ふふ。良い思い出なんですよ」
仲睦まじきは良きことだ。
「発表会、ということは、神前さんは舞台に立つことがあったんですね」
「拙いものですよ、元プロの貴女からすれば。コンクールだって、最高成績は予選通過の本選銀賞でしたから」
と、言うと。
またのガラリと目つきを変えた小夜子さんが追随してきた。
その向こうでは、大輔さんが苦く笑っている。
まるで「知らんぞ」とでも言われているように。
ちらと見やった桐島さんは、いつの間にやら修二さんと、言葉を交わした両親よりも仲良さそうに窓の外を眺めていた。
「小学校四年の頃でした。この間小夜子さんがお弾きになった月の光、あれを含む“ベルガマスク組曲”内一つ、“パスピエ”で予選を通りました」
「名曲ですね。大好きな一曲です」
「ええ。そうして迎えた本選ではチャイコフスキーの“ドゥムカ”を弾きました。あれはちょっと、当時の僕には難易度が……」
「それで銀賞なんて、凄い話ではありませんか。指は動いても、魅せて歌うのが難しいですよね」
「苦労しましたよ。何とか形になったって程度のものでしたから」
ちょっとステップアップしようか、なんて言いながら持ってきた先生の譜面が、まさかあんなことになっていようとは思いもしなかった。
とにかく音を追って、追って、追いかける練習ばかりで精一杯だったな。
すると、大輔さんが「なるほど」と呟いた。
小夜子さんがどうしたと尋ねると、
「初めて来て貰った時だ。小夜子が楠の手伝いをすると別れた後、弾いてくれと頼んだのは私だったのだ」
「そうだったんですか」
「ああ。その折、小学校四年程度のものですけれど、と言われたんだが――なるほど、最高成績の話だったんだな」
「そういえばそんなことを……すいません、結局濁しっぱなしで」
構わん、と大輔さんは流した。
しかし、大輔さんは僕にあの時、どうして弾かせたのだろう。
音が色で分かると言うのなら、弾く以前はそれを確かめる術がない。
何を以って、僕にピアノを――今思うと、不思議な話ではある。
そんなこんなと、またも楽しそうに追随してくる小夜子さんの質問に答えつつも、存外と自身でも白熱して音楽の話をした。
こんなに語ったのは久方ぶりだ。
そうして干渉に浸りながらも言葉を交わしている内に、僕らを乗せた飛行機は稚内へと降り立った。