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桐島記憶堂 〜お代はあなたの記憶から〜  作者: ぽた
第3章 秋の夜長
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28.礼文島への機内にて

「そういえば、明日だよね?」


「そ。謎に緊張するから、本当はあまり行きたくないんだけどね」


 と、会話をしている相手は葵。

 明日を礼文島への出立に控えた今日は、金曜の夕刻だ。


「ごめんね。だから、せっかくの休日だけれど、勉強を教えには来られなくて」


 そう言うと、葵は首を横に振って、


「ううん、いいよ。大丈夫。藍子さんのこと、ちゃんと見ててあげて」


「勿論。ありがと」


 こういう時、葵は本当に良い子だ。

 とても頼りになる、と言っては変だけれど、良い意味で他人を優先してくれる、とても優しい女の子。


「それで、ここなんだけど――」


 五分休憩も終え。

 僕は再び、葵の参考書を睨めっこを始めた。




本日の家庭教師も終えると、僕はすぐさま荷物を片し、明日の準備をするべく帰宅の姿勢に入る。

目覚ましい進化を遂げる葵は、毎度毎度さっぱりした様子で「ありがとう」と言ってくれるから、教えているこちらとしてはとても有り難い。


「あ、ちょっと待って」


 玄関へ向かって歩いている僕を呼び止め、葵は冷蔵庫から何かを取り出して持ってきた。

 それは、ビニールの袋に大量に詰められた、手作りと思しきクッキーだった。


「ハロウィン、近いから。会えるか分からないし、今日の午前中に作ってたの。あ、大丈夫、勉強もちゃんとやってるから、その息抜きって言うか……うん、そんな感じ」


「手作りなんて嬉しいな。料理だけじゃなかったんだ」


「簡単なものだけど……量は沢山あるから、明日の機内ででも食べて。一応、この間の藍子さんへのお礼ってことにもしておきたいから」


「分かった。ありがとう、大事に食べるよ」


「うん」


 ふわりと優しい笑み。

 随分と自然に笑うようになってきたな。

 出会った頃は、少し怖さというか、人と話すのに抵抗があるような堅さがあったのに。


 勉強もそうだけれど、こちらの変化も嬉しいものだ。


 最後にもう一度だけ礼を言って、僕は高宮家を後にした。


 謎に緊張する明日の予定。

 桐島さん的には、まだ百パーセントとまでは戻っていない空気に耐えられるかどうか、といったところで僕を誘ったのだろうが、僕が着いて行ってしまってもいいものだろうか。

 既に取ってしまっているチケットを今更キャンセルするのも、とも思ったけれど、そも頼まれていることが納得いかない。別に、今からでも言葉にすればいいのでは?


 しかし。


 あの上目遣いには敵わないな。

 女性にコロッと騙されて――というわけではなく、単純に心配なのだ。

 アルバイトとは言え、もう半年になる付き合いだ。彼女がどうなるか、あるいはどうもならないのか、その行く末を見届けたいのだ。


 そんなことを言ったら、桐島さんはどんな反応をするだろうか。

 子どもじゃないんですから、と怒るだろうか。

 はたまた、ありがとう、と礼を言われるだろうか。

 あるいは――気付かずにスルーされるだろうか。


その考えに意味はないけれど、何だか気になることの一つではあった。


―――


「なるほど、これをその女の子が」


「ええ」


 予定通りに早朝から桐島家を訪ね、向子さんに見送られながらそのまま車で楠さんに送ってもらい、ようやくと乗り込んだ飛行機内にて、葵から貰っていたクッキーを出していた。


 席順の並びは二と三に別れ、一番良いポジションである窓側に桐島さん、修二さん、通路を挟んで大輔さん、小夜子さん、僕となっている。

 何なのだろう。

 この、言いようのない圧力は。


「桐し――あ、藍子さん、葵からハロウィンとこの間のお礼を兼ねてって、クッキーを貰ったんですけれど」


 ここでは皆が桐島だったことを思い出し、慌てて名前呼びに統一する。

 桐島さんは、どうしても“桐島さん”というイメージだから、呼ぶことにとても違和感を覚える。


「ありがとうございます、真さん」


 この人はそれを自然とやってのけるから不思議だ。


 葵から貰ったままの形でそれを渡すと、薄っすらと笑顔を返された。

 どういう意味があったのだろう。


 そう勘繰る隙もなく、話題は隣に座る小夜子さんから振られたピアノの話へ。

 どういった類の曲が好みか、作曲家は誰がお気に入りか、今まで人前で弾いたことはあるか、と楽しそうに質問してくる。

 いつか食事でも、と誘われたその肴を、まさか機内で果たそうとは。


「そうですね…隠れた名曲、みたいなものが好きで。ジャック・イベールの“物語”が、不思議ととても大好きですね」


「フランスの作曲家ですね。軽妙、新鮮、といった言葉で評される。物語ですか、また随分とマニアックな選曲ですね」


「たまたま小学校の頃に習っていた教室の先生が、その年の発表会用にと選んだものだったのですが。気が付けば、一番好きな曲に」


 不思議な曲を持ってきましたよ、と渡されたそれを、今でもはっきりと覚えている。


「なるほどなるほど。私、それだと“金の亀を使う女”が好きです」


「あ、分かります…! あの何とも言えない幻想的な音の運び……たまりません」


「そうそう! ふふ、趣味が合いますね」


 口元に手を添えて、上品にくすりと笑う小夜子さん。

 音楽の、ひいてはピアノの話をしている時、とても楽しそうに会話が弾んでいる。

 大輔さんも、話せない訳では決してないのだろうけれど、文字を読めないというところから、ある程度の線引きがあるのだろうか。


 ふと気になって、僕は尋ねてみた。


「大輔さんとは、音楽の話をしないのですか?」


 まずかったか。

 そう思いながらも、しかし小夜子さんも大輔さんも、特に顔色は変わることなく、僕の問いに答えてくれた。


「勿論、話しますとも。昔も今も変わらず、好きな音楽については、うんと語り合います。好みだって合うんですよ? どうしてまた…?」


「あぁいえ、すいません、深い意味はなく……心底楽しそうに話されるものですから、あまりそういった類の会話がないのかな、なんて。過ぎた考えでした」


「小夜子は誰に対してもこうだ。私と出会って間もない頃も、この見た目に怯える様子もなく、ずっとピアノについて語っていた」


「目つきの悪さは関係ないかと思いますけれど……音楽を、クラシックを、ピアノを好きな人に、悪い人なんていませんよ」


 そう言うと。

 大輔さんと小夜子さんの顔色が、少し変わった。


 何を知った口を。そんなことを言われるのだろうかと身構えていると、小夜子さんは吹き出し、大輔さんは不敵に笑ってみせた。


「それから間もなくしてからだったな。小夜子に同じことを言われたよ」


「言いましたねぇ、懐かしい。その時の大輔さんの顔ったら、トマトみたいに赤くなっていたんですよ?」


「それは言わん約束だ」


「ふふ。良い思い出なんですよ」


 仲睦まじきは良きことだ。


「発表会、ということは、神前さんは舞台に立つことがあったんですね」


「拙いものですよ、元プロの貴女からすれば。コンクールだって、最高成績は予選通過の本選銀賞でしたから」


 と、言うと。

 またのガラリと目つきを変えた小夜子さんが追随してきた。


 その向こうでは、大輔さんが苦く笑っている。

 まるで「知らんぞ」とでも言われているように。


 ちらと見やった桐島さんは、いつの間にやら修二さんと、言葉を交わした両親よりも仲良さそうに窓の外を眺めていた。


「小学校四年の頃でした。この間小夜子さんがお弾きになった月の光、あれを含む“ベルガマスク組曲”内一つ、“パスピエ”で予選を通りました」


「名曲ですね。大好きな一曲です」


「ええ。そうして迎えた本選ではチャイコフスキーの“ドゥムカ”を弾きました。あれはちょっと、当時の僕には難易度が……」


「それで銀賞なんて、凄い話ではありませんか。指は動いても、魅せて歌うのが難しいですよね」


「苦労しましたよ。何とか形になったって程度のものでしたから」


 ちょっとステップアップしようか、なんて言いながら持ってきた先生の譜面が、まさかあんなことになっていようとは思いもしなかった。

 とにかく音を追って、追って、追いかける練習ばかりで精一杯だったな。


 すると、大輔さんが「なるほど」と呟いた。

 小夜子さんがどうしたと尋ねると、


「初めて来て貰った時だ。小夜子が楠の手伝いをすると別れた後、弾いてくれと頼んだのは私だったのだ」


「そうだったんですか」


「ああ。その折、小学校四年程度のものですけれど、と言われたんだが――なるほど、最高成績の話だったんだな」


「そういえばそんなことを……すいません、結局濁しっぱなしで」


 構わん、と大輔さんは流した。


 しかし、大輔さんは僕にあの時、どうして弾かせたのだろう。

 音が色で分かると言うのなら、弾く以前はそれを確かめる術がない。

 何を以って、僕にピアノを――今思うと、不思議な話ではある。


 そんなこんなと、またも楽しそうに追随してくる小夜子さんの質問に答えつつも、存外と自身でも白熱して音楽の話をした。

 こんなに語ったのは久方ぶりだ。


 そうして干渉に浸りながらも言葉を交わしている内に、僕らを乗せた飛行機は稚内へと降り立った。


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