26.透明な音
少しは、認めてもらえたのだと受け取ってもいいのだろうか。
普通の感謝の言葉なら、これまでで十分過ぎる程聞いてきているけれど、彼女が自分のことでここまで感情を出すとは、正直思ってはいなかった。
酒に任せてでも、流れに押されてでも、こうして膨れた笑顔を見せられる分には、悪い気は全くしない。
拳が収まって少しした頃、桐島さんは徐に立ち上がり、ピアノの方へと歩いて行った。そうして椅子に座り、鍵盤蓋を上げて「懐かしい」と呟いた。
仄かに染まった頬。
ピアノを介して、遠い昔を見るような瞳。
窓から差し込んで包み込む太陽の光と相まって、そこだけこの世界から切り離したように幻想的だ。
「実は、私もピアノを弾けるんですよ」
それは知っている。以前、大輔さんから聴いた。
小夜子さんの分身のように、綺麗な音色を奏でるのだと。
ふと、桐島さんは目を瞑った。
何かを待つようにじっと、僅かな吐息の音だけが聞こえてくる。
そうしたまま、やがてその瞳を開かぬままで、ゆっくりとその細い指先を鍵盤へと持っていき、一音目を鳴らした。
しっとり、穏やかに進む緩やかな三拍子。
シューベルト作曲の即興曲変イ長調OP一四二―二だ。
譜面は単純で、そう難しい技術も必要とはしない簡単な曲。
しかし、それはあくまで抑える鍵盤が、だ。
音数が少ない曲、あるいはシンプルな曲、それらはどちらも、抑揚や音のタッチ、感性によって如何様にも化けるものだ。
一般的でない歌い方をすれば、独創的できれいだと褒められるか、それは駄目だと切り捨てられるか。 そのギリギリのラインで戦わなくてはいけない。
それをこの人は――
どうしてこれほどまでに、泣ける音を鳴らせるのだろうか。
大輔さんの言っていた言葉。
――現役を去った小夜子のピアノを再び聴いているようで、心地が良かった――
あれはもはや、過小評価だ。
全てがただ素敵な演奏である小夜子さん。技術は明らかにあの人の方が上だ、それは間違いない。
しかし、歌い方はこの人の方が上な気がする。
音を聴いているだけでも幸せな夢心地になるこの曲を、まさか本当に涙を流させ、また自身でも潤んだ瞳になっていようとは、元プロに近いなどというレベルの話ではない。
藍子という娘を産んだ折に現役を去り、そこから今までの全ての時間がブランクだったとしても、怪我なんかをしての引退ではないのだから、パフォーマンスが少し衰えているだけだ。
ただ、この人は、それにセンスで以って届いている。
第一線で活躍していたプロい、それを仕事としていないアマチュアが指をかけているのだ。
こんなに恐ろしく、胸がざわつき、同時に心を動かされるのは――
「ふふふ。久しぶりに弾いちゃいました」
そんな声に意識を戻されると、気が付けば桐島さんが鍵盤から指を離していた。
いつの間にか、演奏が終わってしまっていた。
椅子に座ったままで僕の方に向き直ると、如何でしょうと尋ねられる。
如何も何も、言葉を失って涙を流して、みっともなく顔もくしゃっとしているだろう僕には、どうにも喉が上手く使えなかった。
僕は咄嗟に顔を逸らして、
お疲れ様です。
とりあえずそれだけは置けたが、そこに続いて言葉が追い付いてこない。
「神前さん」
呼ばれ、辛うじて逸らしていた顔だけ戻す。
そこには、今まで何度か見て来た、穏やかで優しい、慈しみに満ちた笑顔があった。
「神前さんのそういうところ、私は大好きです」
益々、言葉は喉で詰まってしまう。
「あの時――記憶堂で初めてお会いした時、貴方はピアノが「退屈ではなかった」と答えましたよね。実は、本当に嘘の色は混ざっていたのですよ」
「嘘……」
「ええ、嘘。でもそれは、汚くない、とても綺麗な嘘。照れ隠し、といった方がしっくりくるかも分かりませんね。神前さんって、音楽が、クラシックが、本当にお好きなんですね」
「……えぇ」
やっと出て来たのは、小さな短い頷きだけだ。
「退屈だな、つまらないな、そんなことを思う人には、もっと嫌な色が浮かぶものです。それを中学の頃の発表会で体感し、私は音楽から離れました」
中学まではピアノを弾いていたのか。
それは――勿体ないな。
ずっと続けていれば、変な眼さえなければ、桐島さんは今頃、母の小夜子さんのような、立派な音楽家になっていたことだろう。
「でも――」
桐島さんがそう区切ることで、他人の仮の未来を勝手に考えた頭は切り替わった。
「今の神前さん――とっても綺麗に澄んでいます。どんな色も混じっていない、美しい透明な色をしています」
透明――純粋な色。
彼女の見る、僕の色。
「感受性が豊か、というのでしょうか。貴方につられて、私まで涙を……どこまでも真っ直ぐな人なんですね。正直、少し驚いています」
泣いている、というよりかは、瞳が潤んでいる程度の話だけれど。
僕もそうだ。
「どうでしょう……自分でも驚いていますから。貴女の演奏だったからかも知れませんが、ここまで音楽に心を動かされようとは」
「素敵な男の子ですね、神前さんは。葵ちゃんが惚れてしまうのも、何だか分かってしまいます」
「自覚はないものです」
「そういうものですよ、人なんて皆」
桐島さんは笑って、目元の雫を指先ですくい上げた。
昼間だというのに、いやに色っぽい。
呼吸が落ち着くと、今度は僕にも弾いてくれと言ってきた。
先の僕の演奏は、本当に酔っていた所為で、あまりよくは聴けていなかったのだそうだ。
「別に構いませんけれど……どうしましょう、リクエストはありますか?」
「そうですね…」
一瞬間だけ考え込み、すぐにその結論は出た。
月の光がいいです、と。
譜面は頭に入っているから、弾けないことはない。
しかし――先日、その曲で小夜子さんの演奏を聴いてしまっている手前、どうにも自分の演奏が出来そうにない。
「ふぅ…」
そうやって自分を卑下するのは、僕の悪い癖だ。
葵にも言われたな。
「分かりました、ではそれで」
「譜面はいりますか?」
「大丈夫です」
覚えている曲は、改めて譜面を見ながら弾けば、変なところでミスタッチをすることもあるから。
弾ける範囲で、歌える範囲で、その時の等身大の音を奏でるのが一番良い。
桐島さんと席を変わって、深呼吸一つ。
鍵盤に指を置くと、意識は直ぐに、音の海へと沈んでいく。
深く、深く、ただただ深く。
時間を忘れて、ただ音だけで溺れる程に満たし。
気が付けば日も傾き、いつの間にか大輔さんと小夜子さんも傍で聴いていて。
時間にして実に二時間、僕はずっと、自分の奏でる音と会話をしていた。