23.ただいま
おはようございます。
と、柔らかな声が耳を打った。
丁度一週間前に聞いた声とそっくりだけれど、それよりかは少し高めの音。
優しく、寝かしつけるような声音で、目覚めの言葉を口にした。
「おはようございます、神前さん」
早くも着替えを済ませていた桐島さんが、僕の顔を覗き込みながら言った。
寝ぼけ眼を擦って見やった彼女は、紺のロングワンピースに白のカーディガンの羽織と、初めて出会った時と同じ服装で立っていた。
半年前も同じ格好で――なんて言えば、よくも覚えているものだと少し引かれてしまうのではと、僕は口にしなかったけれど、女性は細かな変化等には気付いて欲しいものだと姉さんが言っていた気もする。
難しい。
「朝食の準備が出来てますから、お早くいらしてくださいね」
「あ、はい…」
どこか楽しそうに見える笑顔だ。
桐島さんが部屋を出た後で、洗面所を借りて顔を洗って、僕はリビングへと向かった。
香ばしい香りが廊下まで漂ってきていて、扉を開けると当時に更に強さを増した。
白米、味噌汁、漬物に焼き魚。
ザ・日本の朝ごはんといった品々が、机の上に並んでいた。
「気合、入っちゃいました」
桐島さんが困り顔で言う。
しかし、それは悪いことではない。
朝食がと呼ばれてやってきて、昨夜のテンションのままパン一切れだけ――なんてことがなくて良かった。
ちょっと気合が入って作り過ぎちゃうくらいの方が、安心する。
「面白味には欠けますが、味は自身がありますから」
「それはこの間ご馳走になった時に、よくよく分かっていますよ。外れなわけがない」
「ふふ。ありがとうございます。いただきましょうか」
椅子に腰かけると、二人揃って手を合わせる。
いただきます。
そんな台詞が当たり前に出てきていることが、どこか不思議な感覚にさせた。
向こうでは、これが普通だったのにな。
この半年間で、星屋で数回、ファミレスで数回、あとはヴェネツィアに葵と桐島さんの家でと、誰かと食事をしたけれど――桐島さんは置いておくとして、葵はマイペースに食べ始めちゃうから、こうやって“当たり前”をすることが少なかった。
何だか懐かしくなって、僕はつい少しの間だけ固まってしまった。
どうかしまいたか、と問われるとようやく正気に戻って、何でもないと箸を手に取った。
白米、当然美味しい。
味噌汁は優しく控えめの味付け。
焼き魚も、よく日が通っていて、端の方に少し焦げ目があるのが良い。
漬物は――
「実は、以前より漬け込みを」
「やはりそうでしたか。市販品っぽくない、上品な味付けになっているな、と」
「お気に召しましたか?」
「ええ。丁度、僕好みの味です」
「それは良かった」
笑って、心配をしていたそれを自分でも食べる。
ふと「上手く出来ました」とガッツポーズ。相も変わらず、いちいち仕草の可愛らしい年上だ。
小気味良い咀嚼音を立てて飲み込むと、桐島さんが俯きがちに口を開いた。
「昨夜は、その……すいませんでした」
「改めて言われる方が、ちょっと。せっかく考えないようにしていたのに。まさか、あんなことを提案してくるとは、思いもしませんでしたよ」
「ど、どうか忘れてくださると……流石に、私でもちょっと恥ずかしい…」
仄かに赤く染まった頬を、両手で隠す。
本気で照れられると、こちらの方が何だか悪いことをしてしまった気になってく。
分かりました。そう応じると、籠った熱を冷ますように手で扇ぎながら、桐島さんは食事を再開した。
どこか目が泳いでいるように見えたのは、気にしないことにした。
「さてさて」
朝食を終え、皿洗いも済ませ、すっかりいつもの状態に戻る頃。
桐島さんが柏手一つとともに、僕の意識を向けさせた。
「取り付けた約束は十一時ですから、早いところ出ましょうか」
「ですね。行きましょう」
すぐに手早く荷物を纏め、部屋を出る。
桐島さんが鍵をかけ、振り返りざまの笑顔を以って、出立。
すると、階段を降り、記憶堂を後にしようとしたところで、この間丁度ここで会話をした谷村さんがやってきていた。
挨拶を交わして事情を尋ねると、奥様の容態が落ち着いてリハビリも始まったから、空いた時間に来てみたのだそうだ。
「出かけるところだったか」
「あぁいえ、少しなら問題ありませんよ。桐島さん」
バトンを渡してみると、桐島さんは穏やかな笑みを浮かべて相対した。
それを一目見た谷村さんは、何も言わずに目を伏せ、同じく穏やかに笑って見せた。
「綺麗な顔が、より一層別嬪になった。何か、変わったようだね」
「……ええ、ちょっと。いつも、ありがとうございました」
「なに、歳よりなんざ皆暇だから、構わん構わん」
笑って言い合って、二人はとても楽しそうにしていた。
そういえば以前に会った折、あんたが支えてやってくれと言われたっけ。
支えられているのかは分からないけれど、きっかけだけは手助け出来た――と、思う。
無理やりポジションに考えればだけれど。
「神前さんも、手伝ってくれたんですよ?」
ふと、桐島さんの声でそんな言葉が聞こえて来た。
一瞬間だけ自分の耳を疑ってそちらを向いてみると、同じく桐島さんもこちらを向いて笑みを浮かべていた。
ありがとうございます。
なんて、我ながら都合のいい解釈だとは思うけれど、たまには僕にも自惚れさせてもらいたいものだ。
なんなのだろう、まったく。
ちょっと凹んでいるかと思えば、他人を気遣う余裕もあって。
「行ってきますね。奥様にもよろしくお伝えください」
「ああ、丁重に。気をつけてな」
谷村さんがそう言うと、桐島さん互いに手を振り合った。
僕は小さく会釈をして横を通り過ぎようとすると、谷村さんは頭を下げて無言で礼を言ってきた。
きっと、支えになっていたのは貴方の方だ。
越してきたばかりで感情の整理も付けられなかったであろう桐島さんと、お茶をし、言葉を交わし、たまにこうして様子を見に来て――
グラグラとふらつく不安定な隙間を埋めていたのは、谷村さんの気持ちの方が大きいだろう。
「行きましょうか、神前さん」
「はい…!」
そんな人と人との繋がりが、とにかくも嬉しくなってしまって。
僕はつい、いつもよりも大きい声で返事をした。
―――
そうしてやって来た、再びの桐島家。
まだ二度目の今日、この荘厳な門構えには未だ慣れていなかった。
そう怯えないで、と優しく言う桐島さんだったが、なるほどお庭の花々の隣に立てば、やはりこの家の出なのだと思わせる。実に似合っている。
門を通り抜け、大きなお庭を歩いて通る。
たまに「懐かしい」と立ち止まっては目をやる桐島さん。
もう、随分と素直になってしまっているようであった。
一歩、二歩と進むにつれ、屋敷はどんどん近くなる。
そして、最後に並ぶは、愛情の証。
「……っ……!」
それが視界に入った瞬間、桐島さんは固まって、両手で口を塞いで言葉を失った。
小さく震える華奢な身体。
段々と表情も崩れて来て、
「この、お花は……!」
小夜子さんの一番好きな花――藍の前で、地べたに座り込んで涙を流した。
まだここに咲いているとは思っていなかったのか「どうして、ここに」と口にする。
「母から、この花のことについては…?」
「小夜子さ――聞いたと言いますか、お母様が一番気に入っているお花だとは思いますが」
「そう、ですか…」
呟き、涙を拭うと、桐島さんは立ち上がってその花弁を優しく撫でた。
「私が十二の頃です……その年の母の誕生日に、それまでコツコツと貯めていたお小遣いを使って、母にプレゼントしたものなのです」
「桐島さんが…!?」
だから、これだけ大事にされているのか。
ただ名前が同じというだけではなく、その最愛の娘からの贈り物だったから――
「まったく、馬鹿な話です。もうちゃんとした大人なのに…」
「そんなこと――」
ないですよ。
そう言いかけた時だ。
「藍子…!」
背後から、鋭く突き刺さるようにかけられる声。
違えようはない、小夜子さんのものだ。
桐島さんは目を見開き、固まっている。
懐かしい声。
あの頃と変わらぬ声。
その優しい声音で、自身の名前が呼ばれたのだ。
藍の花から指先を離し、ゆっくりと振り返る。
再び溢れた涙は拭わぬままで、目と目が合うと、
「ただいま……お母さん」
少し照れくさそうに、バツが悪そうに、控えめな声でそう告げた。