22.震え
さて、一旦整理をしよう。
この状況はマズい。極めて危険だ。
だから一度、頭の中をクリアにする必要がある。
つい先ほどまで、僕は桐島さんを説得することに心血を注いでいた。
そうして甘んじて乗ってくれて、結果またもや意味深な言葉も頂いたけれど、何とか依頼は進められそうなところまで持って行けたのだ。
我ながら頑張ったと思う。
しかしだ。
挑戦状を叩きつけ、それを少し恐ろしい目で受け止め、下手をすれば今までの僕でない僕に苛立ちを覚えていたであろう桐島さんが、どうして僕をこのような状況に追いやったのか。
先のあの笑顔も偽物と思えようところを、どうしてこんな。
「ふぅ。すいません、ゆっくりと入ってしまって」
昼間着ていたカッターだけの、素足を露わにした大胆なスタイルでのお出まし。
何処からか。
風呂からだ。
話が一段落したところで、僕は早速と修二さんに一報入れ、ご両親に都合をつけて貰うよう頼んだ。
そうしてすぐに電話をしたらしい返答としては、じゃあたちまち明日にでもどうかという話になったのだ。
いくら何でも、それで桐島さんが動くわけ――と思っていた僕を嘲笑うかのように、桐島さんは「分かりました」と一言。
そこには恨みの色も怒りの色もなく、ただ素直に出て来た言葉なのだろうと思えた。
では、どうして僕が此処、記憶堂の二階にある桐島さんの住処にお邪魔しているのか。
明日は忙しくなりそうだ、なんて思いながら「それでは」と荷物を纏めたところで、桐島さんから待ったがかけられた。
何か、と聞き返す僕に、
『シャワーを浴びて着替えたら、上の家に来てくれませんか?』
とのことだった。
理由を問うや、決戦前夜ということで、楽しくお泊りがしたいとかなんとか云々かんぬん。
やや濁されがちに言われたけれど、まぁ別に断ることもないか、と承諾したのだ。
軽くシャワーを浴びて着替え、財布とスマホと鍵だけの軽装備で窺うと、これから私も風呂に入るから勝手にくつろいでいてくれ、と。
そうして待つこと三十分。
「今に至るというわけですね」
「誰に言っているのです?」
「いえ独り言です」
ただの、独り言だ。
「しかしですよ桐島さん。ヴェネツィアでも注意しましたけれど、いくら僕を少しでも信頼しているとは言え、そんなに無防備な格好で出迎えるのは控えて頂きたい」
「その時、私は確かに言ったはずですよ、下には何も着けないのが常だと。それがないだけマシじゃありませんか?」
「どうしてそう堂々と謎の正当化が出来るのか……下着を着けてりゃ良いってものでもないでしょう」
呆れる僕に、桐島さんはいつも通り悪戯な笑み。
「あら、本気にしていたのですか? あらあら、神前さんも年頃の男の子というわけですね」
「……帰りますよ?」
「あぁ、ごめんなさい、すいません…! 聊か調子に乗り過ぎました…!」
素直に謝りながら、身体を返して進んでいく僕の手を必死になって掴んで来た。
最近、この人のあしらい方が分かって来た気がするぞ。
「なら真意をお聞かせ願いましょうか」
「真意?」
「とぼけても無駄ですよ。色の見えない僕にだって、今の貴女の嘘くらい分かります」
と言うと、桐島さんは存外と素直に「そうですか」と目を伏せた。
少ししてその目を開くと、寝ましょうかと微笑む。
「寝るったって、別部屋じゃ話せないじゃないですか。逃げる気ですか?」
「いえいえ、寧ろ攻めの姿勢です」
何を言っているのやら。
首を傾げる僕を手招き、廊下を抜け、やって来たのは――
「まさか一緒に寝ようとか言いませんよね?」
そのまさかです!
そう堂々と言い放たれると、深い溜息が零れてしまった。
予想外もいいところだ。
いつも突飛な発言を繰り返すこの人に限っても、流石にそこまで頼んでくるだなんて、普通は思わない。
寧ろ「飲み明かそうぜ!」くらいのテンションで晩酌に付き合わされ、その酒の席で言葉を交わすくらいのことだと予想していたというのに。
「冗談――」
「ではありません」
「ですよね。貴女はそういう人でした」
「分かったなら、さぁ」
トトト、と軽い足取りでベッドサイドへ向かうと、掛け布団を優しく叩いて僕を呼び込む。
本当に、一体今日はどうしたというのだろうか。
またも漏れた溜息をその場に残して、僕も覚悟を決めると、甘んじてその謎に包まれた聖域へと赴いた。
僕が壁際、桐島さんが乗り降り側へと寝転がり、掛け布団を被せる。
と、不意に桐島さんから「壁の方を向いてください」との要望。
言われた通りにすると、すぐに背中にしがみつく両手の感触、次いでそこに触れる柔らかな感触があった。
綺麗な、それも優しく頼りになる女性にこんな真似をされて、喜ばない男子がどこに――と余計な頭を回す僕だったが、しかしそれも一瞬にして霧散する思考となる。
――震えてる……?――
ほんの僅か。しかし確実に、背中にしがみつく両の手が、小刻みに力を加えているのが分かる。
丁度、ヴェネツィアで葵が泣いていた時のような。
不安や何やらを混ぜたような、そんな雰囲気だ。
「一緒のベッドで寝る初めての相手は、葵が良かったんですけれど」
「意地の悪いことを言わないでください。しばらく、このままに」
「……どうぞ」
許可してみると、桐島さんは両手に加えられている力を一層強くした。
そうしてしばらく、枕元の小さな目覚まし時計が刻む秒針の音と、速く繰り返される桐島さんの吐息だけが響く。
桐島さんが落ち着くのを待っていると、不意に指先が緩められる感覚があった。
振り返ることなく「どうですか?」と尋ねると、少し落ち着いてきたとのこと。
それは良かった。そう呟くと、あの、と名前を呼ばれた。
「真意――と言いますか、本当は、といったことなのですけれど…」
「はい」
まだ少しのぎこちなさを残した震える声で、桐島さんはゆっくりと一つ一つ言葉を紡いでいく。
「恨みと同時に、怖さもあったのです」
「怖さ?」
てっきり、後悔や自責の念だとばかり。
怖さとは。
「神前さんの思っている通りのことかと――私のこの眼は、家を出る以前より備わっていたものなのです。故に、両親と兄さん、楠さんの心も読めていました」
「……やっぱりですか。では怖さというのは」
「えぇ。それを認めてしまった時、自分がどうなってしまうのか、です」
咎められたと思った一瞬の気持ちにすがり、責め立てて、家を飛び出して自分の力を存分に発揮していった。恨みだけを原動力に続けてこられたことなのだ。
つまり、感じ取ってしまった――視えてしまったものに嘘を吐いて、自分を正当化して、なるべく考えないようにしてここまでやって来た。
それを損なった時、認めて受け入れてしまった時、それから先をどうすれば良いのか。
桐島さんはそう言っているのだ。
「私が賞を取った時、あの人たちは何も言わなかった。温厚な母でさえも。それは確かです。けれど、その時のあの人たちの色は――」
「怒りの赤に攻撃の青、といった色は視えなかったんですね」
桐島さんは短く「はい」と答えた。
代わりに視えた色は――
「桃色――愛情の色でした」
そこまでの予想は付かなかった。
認めていることは確かだと分かっていたけれど、まさか愛情でもっての沈黙だったとは。
「私が強く出たのは、その瞬間のことでした。では、どうして黙って何も言ってくれないのか。確かな愛情があるのに、どうして一言も褒めてはくれないのか。ぐるぐる回ってぐちゃぐちゃになって、分からなくなって……それで私は家を出たのです。神前さんに語ったあれは、真実半分、嘘半分……ごめんなさい」
「謝る必要はありませんけれど――なるほど。なら尚更、明日の決戦は楽しみだ」
「楽しみ…?」
「ええ。だってそうでしょう。愛がないことを確認しに行く腹づもりだったのに、それがどのような愛だったのかを確かめる為の帰省に変わるのです。嬉しいことじゃありませんか」
「そ、それは……」
「それに、だとすれば僕にもまだ勝機はある。みすみす貴女だけにハッピーエンドをお届けするつもりは、これっぽちもありませんから」
「……やっぱり、今日の神前さんは意地が悪いです」
「何とでも言ってください。今僕、勝つことしか考えてませんから」
お道化てそう言って、それ以上は苦しい思考をさせまいとする。
恐らくは色として視えているのだろうから――何にせよ、伝わっているのならそれでいい。
「もう本当に寝ますね」
「ええ。ゆっくりお休みになってください」
「……おやすみなさい、真さん」
「……っ……」
だから、不意打ちは反則なんですよ――
呆れて苦く笑って、背中を掴む手の圧がなくなるのを感じると、僕も目を閉じた。
ゆっくり、ゆっくりと夜は更け、明日の決戦へと駒を進めて行く。
きっと、失敗はしないだろう。
そう、自分自身に言い聞かせて。