40.今度は、一緒に
「兄貴…」
今にも泣きそうな、これから何が繰り広げられるか悟って不安気な目。
壇上で優しく微笑む遥さんを正面に捉えて、葵は唇を噛んでいた。
それを分かっていながら、遥さんは尚も優しさを増した表情で以って葵から目を離すと、場にいる知り合い全員へと声をかけた。
「これよりお聴きいただきますのは、俺が昔、自ら棄てた夢の続きです。その当時、何故だかは分からないが本気でヴァイオリニストを目指していた男の、ただ一度きりの再演でございます」
堂々と声高らかに、遥さんは自身の胸中を吐露していく。
それは当時、遥さんの講師をしていた紗江さんでさえも知らない事だったようで、葵と同じようなリアクションでその言葉を受け入れていく。
大切なものが護れなくなると言ったことの意味。
今回の依頼のこと。
そして——
「俺は最後の発表会の日、舞台裏で泣きじゃくる葵に言ったんだ。またそのうちな、って。あの時俺、苦い顔をしていたから、きっとそれは叶わないことなんじゃないかって葵は思ったんじゃないか、そう勝手に決めつけていた。でも、それはどっちだっていい。今これから——ようやくこれから、それが証明できるんだ」
深呼吸一つ。
「演奏曲は二つ。今の季節に相応しいヴィヴァルディの四季から”冬”、あともう一つは——今は伏せておくよ。と言っても、紗江さんにまことは知ってるんだけどな。どちらも、本当なら伴奏やら重奏やらでもっと華やかなんだが、ソロであることはご容赦願いたい」
既にチューニングを終えていたヴァイオリンを身体へと持って来て、
「それじゃあ——」
顎当てへと添えて目を瞑り、ゆっくりと弓を当てがった。
そうしてもう一つ深呼吸。
ローテンポの刻みに始まり、程なくして超絶技巧の織り交ざるイントロ。
そうして間もなく、誰もが知る少しはかなげな標題へと辿りつく。
それを繰り返して繰り返して、バラード調の間奏へ。
演奏は続く。
気にすらならない僅かなズレに収められたそれは、凄いの一言に尽きた。
転調して指をよく回しても、またローテンポになっても、タッチが変わる場面へと入っても、その中でまた混ざる技巧にも、全て涼しい顔いてアプローチしていく。
演奏は続く。
葵は驚きに固まっていた。
それを一瞬間だけ横目に見て、僕は再び遥かさんのそれに集中した。
気が付けば、あっという間に一曲目が終わってしまっていた。
いい意味での物足りなさを残して、会場内には惜しみない拍手が木霊する。
とりあえずの一仕事を終えた遥さんは、一旦ヴァイオリンを降ろして一息。葵の表情を確認して、確かな手応えを感じていた。
僕もその一人、と言っては少し大仰だけれど、少なからず似たような手応え。
早々に呼吸も整うと、遥さんは再びヴァイオリンを構える。
次でラスト。
そして、本当の勝負だ。
「…………」
何を思ったのか。
「まこと…?」
僕は立ち上がり、葵の言葉には何も返すことなくそのまま舞台へと足を進める。
遥さんの選曲を聞いた時点から、考えていた。
この曲なら、今年最後の大一番とするには適していて、同時に僕もようやく、本当の意味で他人の依頼へと関わることが出来る。
節介だと言う人もいよう。
邪魔だと怒る人もいよう。
ただ、その相手があの葵とあっては、それに対する依頼の体現者が遥さんとあっては、僕も無関係と捨て置くことは、どうしても出来ない。
——音源なら、何度も聴いた。
「わざわざ僕に依頼をしたんです、無関係とは言わせません。お節介と言いたければ構いませんけれど……せっかくの晴れ舞台だと言うのなら、それは言葉通り華々しく在るべきです。だから……拙い伴奏ではありますが…」
尻すぼみの言い分に、遥さんは瞬間言葉を失った。
しかしすぐに、いつもの快活な笑いを零して、
「——いや、頼もしいさ。やってやろうぜ、葵大好き同盟!」
「ぷっ、はは! それ、他では絶対に言わないでくださいね」
釣られて笑って飲み込んで、僕は遥さんの斜め後ろで暇そうに待っていたピアノの蓋を開け、腰を降ろした。