38.舞台出番
楽しい時間というものは、それはそれはあっという間に過ぎてしまう。
そんなことはなかった、とでも置いておきたいところではあったのだけれど、まぁ現実で事実なのだから仕方がない。
緊張し通しだった葵は、夕刻から目をこすり始め、寝ても良いよと岸姉妹に促されると、初めは申し訳ないからと必死に抵抗もしていたけれど、やがてふわりと心地良いソファに腰掛け静かに寝息を立て始めた。
程なくして横に倒れ、小動物のように丸まって寝る様に、皆が笑みを零したのは言うまでもない。
「すいません、皆さん。せっかく妹の為にと開いた会だったのに」
遥さんが葵に代わって頭を下げる。
間髪入れずにかぶりを振ったのは琴葉さんだ。
「気にしない気にしない。その日その時から祝いの会を開こうって方が、今考えたら葵ちゃんには酷だったろうからさ」
「ええ。まぁ、そうでないと意味がないのはその通りでもあるのだけれど——それは、葵ちゃんの目が覚めてから、改めて実兄の口から説明はして頂戴」
「はい、必ず。して、まことよ」
「え、あ、はい?」
急な流れ弾に素っ頓狂な声が漏れる。
事は、葵との仲についてだ。
ただ、茶化す様子は欠片もない。
「楽になりたかったって訳じゃねえんだ。勿論葵が一番で、それを上回る優先度の物事なんて、そうそうない」
「は、はぁ…」
何のとこやら。
首を傾げつつ相槌を打つと、
「ただ——俺も一人の人間で、大学生で、それも男だ。今までは経験したことのない"恋愛"ってやつには、無論興味関心はある」
「……琴葉さんのことですね」
「あぁ」
なるほど、まぁ言わんとしていることは分かるのだが。
「極力は葵のために動く。葵を一番に考えないといけないからだ。ただ、気付いちまった妹ちゃん先輩のことも、勿論無碍には出来ない。いや、しちゃいけない…と、思う。だから——」
「毎日、というわけにはいきませんが。まぁ仕方のない話ですよね。僕、もう葵の恋人になってしまいましたし。遥さんが私用で不在の折、時間が有れば葵のことは僕に任せてください。なんて、少し格好をつけ過ぎな言葉ですけれど」
「あ——と、はは。先に言われちまった。とどのつまりはそういうことなんだがな」
遥さんは笑って頬を掻いた。
申し訳なさそうに、恥ずかしそうに。
「改めて言うが、お前になら葵を任せても心配ないと思ったんだ。だから、俺も少しだけ……ほんの少しだけ、自分の周りのことにも目を向けても良いんじゃないかって」
「やっぱり漢ですね、遥さん」
「褒められると調子に乗るからな。むず痒いからよしてくれ。まぁ、そういうことだ。葵のこと、頼むな」
「ええ。お任せください、とここだけは強気に出ておきます」
「おう。悪いな」
それは言いっこなしなのだけれど。
お互い様だし。
と、そんな話が一段落した折だ。
一眠り過ぎて目を覚ました葵が起き上がった。
「おぉ葵、起きたか」
「うん……ごめんね、兄貴、みんな。ちょっと寝過ぎたかも」
「そんなことは——」
ない、と返しかけて。
僕は、ふと目をやった外が、既に真っ暗であることにようやく気付いた。
寝過ぎかな。
苦笑しつつ言ってやると、葵はバツが悪そうに「あはは」と笑った。
笑って、その後すぐで、
「……っ……!」
目が合うと、途端に顔が真っ赤になった。
そうしてそのまま俯き、何だか居心地悪そうな葵。
ただ、少し可笑しなその様子には、僕だけしか気付かなかったようで、皆首を傾げる素振りすらない様子。
気のせいだったのか、とは流石に思わなかったけれど、今ここでそれについて触れるのも無粋だと、僕は飲み込んで誰か次の言葉を待って、葵と同じように目を逸らした。
その先の机上にある、葵へのプレゼントの品々。
藍子さんは「女の子の最低限の身嗜みですから」と化粧品を、紗江さんはそれらを纏める小さなポーチをプレゼントしていた。
僕はと言うと。
そこそこ名のある、ちゃんとしたブランドもののトートバッグだ。
デザインは勿論、防水撥水と機能性も重視した。
丁度買いに行こうと思ってたんだ。
そう言って喜ぶ葵はーー何だろう。
金額以上のお返しを貰ったような気がする。
「さて——」
そんな当人が目覚めたとあって。
ようやく、此度の会に於ける本題へと、遥さんが覚悟の柏手を打った。
「場所を変えよう。ちゃんと許可も取ってる」
「許可?」
葵が聞き返す。
「ああ。出来ればその会場まで、葵には目隠しをしてもらいたいところなんだが、まぁ危ないからそれはよしておくとして、だ」
そんな言い分に、益々と表情が曇る葵。
何か悪いことが起こるのでは、とそんなことを思っている様子ではないのだけれども、少なからず不安要素はあるようで。
「俺は先にいってるから——そうだな。二十分後、皆で来てください。主賓は葵な」
「私?」
「そりゃそうだろ。まだこれは、お前の祝いの席なんだからな」
「そうだろうけど……ねぇ、兄貴。それって、前に紗江お姉ちゃんと話した時にちょっと聞こえた"ヴァイオリン"って言葉と——」
「じゃあな。まこと、任せたぞ」