20.篤郎からの頼み
「――ということがあり、急遽やってきたわけです」
僕の説明と括りに、眼前で文庫本を構える藍子さんは、それを降ろして「なるほど」と瞳を細めて、僕と紗江さんに向き直った。
わざわざ記憶堂へとやってきたのは、僕から願い出たことだとは言え、これから話すことは記憶堂への正式な依頼として表に出したいという、紗江さんきっての願いであるからだ。
走って息を切らして、つい数時間前までいた記憶堂へと戻って来た僕らに、藍子さんはとりあえず話を聞いてみない事にはと、前向きな返答をしてくれた。
ここからは、僕もまだ聞いていない話。
紗江さんの口から語られるのを、ただ待つしかない。
と、徐に紗江さんはスマホを操作し始めた。
何文字か打ち込み、少し間を置くと、そこに表示された一枚の画像をこちらへと向けて来た。
金閣寺。
言わずもがな、名所中の名所である。
敢えてそれに「これが何か」とはこちらからは問わず、紗江さんの言葉を待つ。
「とある一枚の写真を、私は自宅で管理しております」
「持っている、という表現はしないのですね」
返したのは藍子さん。
それに対し、紗江さんはスマホを机上に置きながら「えぇ」と小さく頷いた。
「頼まれたのです、とある方に。これは孫に見せないでくれって。傷つくのはあなた――つまり、私の方だからって」
先に見たより深い影を顔に落として、紗江さんは訥々と語り始めた。
十と数年前。
高宮家の両親がまだ存命だった頃、葵も年の頃は三つかそこら。
その時分は、遥さんがまだヴァイオリンを習い始める少し前のことだったが、親同士で予てより付き合いがあったことから、当時十五歳は志望高校への入学が決まった紗江さんを祝おうと、両夫婦に紗江さん、まだ幼い遥さんと葵も連れ立って、祝いの小旅行をしようという話が上がったらしい。
そこで目的となったのが、京都市内は北西部、金閣寺のある周辺への観光――そう。その時はまだ元気だった篤郎さんも一緒での観光だった。
あれやこれやと見て回り、最後に立ち寄った真冬の金閣寺。
雪化粧をした辺り一面の中心にあって異様な存在感を放つそれは、まるでこの世ならざる絶景を見ているようで、紗江さんは記念にと思わずカメラのシャッターを何度かきっていた。
そんな折、それならばせっかくだから皆で写真を取ろうとカメラを取り上げたのが篤郎さん。
美しい風景の中に残す二家族の笑顔は、それはそれは晴れやかなものであったとか。
しかし、事が起こった九年前。
葵らの両親が亡くなった少し後で、紗江さんの元を篤郎さんが尋ねたことがあった。
その際に告げられたのが、紗江さんの口にしたとある写真の管理と、それについて葵や遥には語らないこと。
「家に帰ってそれを眺めていると、ふと写真の裏面に、文字が綴ってあることに気が付いて」
「文字…?」
「はい。”割れた鏡は元に戻る”と。昔から言葉遊びの好きなご老人でしたが、こればかりはさっぱりで…」
「割れた鏡…」
難しくはない。
ただ、そは簡単だという意味ではなく、そも難易度すら測れない程に、言葉の意味が分からないものだ。
一通り話し終えた紗江さんは残っていた息を吐き切って、僕、そして藍子さんへと視線を上げた。
「すぐに、とは言いません。藍子も神前さんも、お忙しいことでしょうから。だから、そうですね――葵ちゃんのパーティーには参加する旨を表明しておりますので、それまででお願いしたく」
「構いません」
ノータイムで頷く藍子さん。
そんな安請け合いして大丈夫か、と流石に心配にもなる僕に、目を伏せ、
「――大方の予想はつきましたから」
小さく、僕にだけ聞こえる程の声で呟いた。
「ありがとうございます、藍子。神前さんも。これで、本当に帰りますね」
「はい。お気をつけて」
「あ――と、藍子さん、紗江さんを送ってきますね」
「はい。ありがとうございます」
穏やかな笑み。
いつも通りと言えないことはない、というレベルの自然な笑みで、僕らを送り出す藍子さん。
訝しみながらも紗江さんを先に出し、後からゆっくりと着いて行き、僕らは記憶堂を後にした。
「ここらで大丈夫ですよ」
大通りへと出る辺り。
ここまで来ればもう駅もすぐ近くだからとそのまま着いて歩いていると、紗江さんがふとそう言って振り返って来た。
「依頼も、そして諸々とお言葉、本当にありがとうございます、神前さん」
「いえ、別にそんな――それより、さっきのお話ですが。また後日、写真の実物を持って来て頂くことは可能でしょうか?」
「えぇ、構いませんよ。記憶堂へお持ちすれば良いですか?」
「あぁいえ、わざわざ足を運ばせるのも悪いので、また大学でお会いした時で構いません。重要なことの大半は先ほどお聞きしましたから」
「なるほど、了解しました。では、その折に」
とりあえずの約束を交わすと、紗江さんはぺこりと頭を下げて先を歩いていく。
どことなく寂し気な背中が、いやに頭に残ってしまった。