18.恋のお話
話している内に運ばれて来ていた品を、遅れ馳せながら飲み、食べていく。
「神前さんは、不思議な方ですね」
そんな中、涙を拭った紗江さんが、ふとそんなことを呟いた。
「そうでしょうか?」
「えぇ。昨日初対面の私に、そんなことを言うなんて」
少し無理やりが過ぎた言い分は、お気に召さなかったのか。
まぁ無理もないと言えばないのだが。
「あ、えと…怒りましたか…?」
「いいえ、全く。寧ろ、感心してしまいましたから」
感心とはこれいかに。
「それほどまでに今、葵ちゃんに惚れ込んでおられるとは。驚きです」
「そっちですか…」
「勿論ですよ。神前さんの仰られる通り、葵ちゃんに会うのが楽しみになって来てしまいました。どれだけ素敵な女の子になっておられるのか、気になります」
気になるのは結構。結構なのだけれども――どうしてだろう。岸姉妹に絡まれた折のことがフラッシュバックしてしまう。
そうして、結果的にその予想は当たってしまう訳で。
「今の葵ちゃんと出会う前に、まずは神前さんから情報を、と銘打ちまして、お二人の恋路を応援したく」
――そう言われてしまっては、断れないどころか嬉しくもある。
ブレンドを一口含んで喉へと送ると、紗江さんは「はふぅ」とこれまた桐島さん――基、藍子さん似の吐息で以って一拍置いて、まずはと言わんばかりに、
「馴れ初め、とか」
落ち着いた声音でそんなことを聞いて来た。
「そうですね…記憶堂での初仕事で依頼を持って来たのが、当時お祖父さんのことしか頭になかった葵でした」
「お祖父さん…?」
「昨年亡くなられたお祖父さんと昔行った、思い出の地――と言っても、写真で残っているだけで、それがどこの場所だかは分からず」
「記憶堂へ、ということですか」
「えぇ」
あれからまだ一年と経っていないが、もう随分と懐かしく感じてしまうのは、以降も忙しく濃い日々が続いていた所為だろう。
あの頃の葵は、文字通り静かで大人っぽい女の子だった。
祖父の足跡を追いかけて、それしか考えてなくて、危うくも心の綺麗な女の子。
そんな第一印象だったな、と思い出して懐かしい。
「場所を特定し、いざそこへと向かう道中のことでした。故あって知り合った方々と一緒に歩いていたのですが、運の悪いことに、雨が襲って来まして」
「それは災難」
「はい。けれど、藍子さんは「引き返す」と言い出したのですが、葵は頑として譲らなくて」
「訳は聞いても?」
「休日で本当に良かったと、今でも思います。その日――丁度その日が、そのお祖父さんの命日だったんですよ」
「――なるほど、譲りはしたくありませんね。雨が止む保証もありませんし」
ただ通り雨ならまだしも。
「そんなことを聞いてしまったら、ほら、断るわけにもいかないじゃないですか。それで葵側に着いて、藍子さんに敵対してみたら……その当時、葵は"尊敬の意味で好きだ"と言ってきたのです」
「馴れ初めとしてそれを語るということは?」
「えぇ、この時から僕は、高宮葵という女の子が気になり始めていました」
気付いたのは――気付かされたのは、ヴェネツィアでリルに言われてからだけれど。
今思い出しても、他人に言われてやっとだなんて情けない。
とは言え正直な気持ちであることに変わりはない。今は堂々と、高宮葵という一人の少女が好きだと言い張ることは出来る。
例え他人からの後押しがあったからでも、他人から気付かされたものだとしても、確実に自分の心から葵が好きだと思えている。
それだけは、本当だ。
「まぁ、そんなところです」
僕はそう括って、残ったブレンドを飲み干した。
空になったカップを眺めていると、どこか少し寂し気にはなったが、追加で注文することなくそのままカップを置いて深い息を吐いた。
ちらと見やった紗江さんは、頬杖をついて目を細め、僕の方を見つめていた。
晩酌に付き合わされたヴェネツィア初日の夜、藍子さんが見せたものとよく似ている。
「ちょっと意地の悪い質問をしても良いですか?」
「――唐突ですね。許せる範囲でしたらお答えしましょう」
「はい」
答えると、紗江さんはついていた頬杖を解き、背筋を伸ばした。
何かとこちらも反射的に背筋を伸ばし、正面から言葉を受け止める姿勢を取る。
そうして待つこと数秒。
宣言通りの言葉を言いそうな意地の悪い表情を浮かべて一言、
「藍子のことは好きにならなかったんですね」
と、そんなことを聞いて来た。
当然と言えば、ある意味で当然だと言えるような疑問ではある。
ただそれは、岸姉妹も誰も尋ねては来なかった事柄だったから、どう答えたものかと、僕は瞬間言葉を詰まらせた。
何せ。
恋、とはっきり言えたものかどうか疑問点ではあるけれど、藍子さんと二人で何かをしている時、僕は心臓が五月蠅くなる時が何度かあった。
それがただ緊張感やその類のものでないのだとすれば、紗江さんの質問はもっともだと言える。
藍子さんのことは――
「とっても魅力的な女性だということは、言うまでもありません」
「――ふむ」
「何と言いましょうか……仮に、藍子さんを好きになったとしましょう。すると、好きであることは確実だというのと同時に、告白をする勇気には至れないかと」
「自信がないのですか? それに関しましては、きっと藍子は――」
「いえ。どう言ったものか悩みどころなのですが――優しく頼り甲斐があって、子どもっぽいところもある落ち着いた綺麗な女性なんて、藍子さんに関してはその物腰の柔らかさから一見すればお付き合いまで至れそうなものですが、僕はそうは思えない。彼女が恋愛に興味があるかはさて置いて、とても手を出していいようなものだとは思えないのです」
「難しそうだということでしょうか?」
「ある意味で言えば。彼女自身が難しそうと言うよりかは、そういった意味では近付き辛いと言うか、近付いてはいけないような……すいません、どう言ったものか」
「いえ、それはお気になさらずなのですけれど――なるほど。確かに、難しそうですね」
紗江さんはうんうんと頷き納得した。
そして少し遅れて、言いたかったことを頭の中で言葉に出来た。
そう。全てが綺麗過ぎるのだ。
見た目の麗しさは勿論のこと、中身まであり得ないくらい澄んでいる。
彼女を構成する全ての要素が綺麗過ぎて、とても僕なんかが触れて良いものやらと、たまに怖くすらなってしまうのだ。
加えて、そのスペックの高さ。
どう頑張って追い付こうと足掻いても、彼女は何歩も何十歩も先を歩くのだ。
「怖い、ですか」
「えぇ。ただそこにあるだけなのに綺麗で美しい精巧なガラス細工に、指紋を付けて冒してしまうような。そんな感じなのだと思います」
綺麗で高貴で冒し難いものを、敢えて汚してしまう必要はない。
見ているだけで良い存在は、そこに在るだけで十二分なのだ。
「だから、という理由では決してないのですけれど、その点で言えば、葵は全く同じ歩幅で歩けそうな女の子なんです。葵には悪い言い方をしますと、僕には葵のような子が合っていると」
「そういうものですか」
「そういうものですね。まぁ、あくまで僕個人の意見ですが」
「いえ――きっと、そういうものですよ。自分よりも何かを持っている存在は、手に入れるよりライバル視することの方が多い気がしますから」
「同意を得られて安心しました」
きっと、そういうことだ。
藍子さんは、ただそこに存在していて、僕らはそれを眺めているだけでも良い。
ライバル視するのだって、前回の一件でとうに諦めてしまった。