東郷湖畔に眠る南条家軍資金
東伯耆南条家は八代城主南条備後守宗元の時代に、尼子新宮党による伯耆攻めで、鎌倉時代より統治した領地を失う。宗元は全てを一瞬に失った悲しみ加え、領地奪回における軍資金も無かった。
四十四歳にして東伯耆三郡(河村郡・久米郡・八橋郡)の統治者に復帰した宗元は、南条家の後日を憂い息子達に南条家の再興軍資金を託した。
遺言で九代城主伯耆守元続・元清・元秋の息子達に南条家再興の軍資金の保有場所を記載した竹筒を渡し亡くなった。その後、舎弟元秋は吉川勢との長合田ヶ原の攻防で戦死し、兄元続は小田原参陣後に病死した。元続の後を託された小鴨左衛門尉元清は、南条家に復帰して羽柴秀吉より東伯耆三郡の統治を任される。元続嫡流の幼い元忠が成人するまで、東伯耆南条家を統率するが朝鮮出兵中に家中は、元忠継承を煽る南条家譜代の重臣達による家督相続嘆願書が五奉行筆頭の石田三成に届く。
東伯耆統治の混乱を恐れた五奉行は、朝鮮出兵中の小西行長に南条元清の処遇を任せる。
盟友行長より南条家家督相続嘆願の儀を聴いた元清は、潔く東伯耆南条家から身を引く決心を行長に伝える。行長は元清の心情を受け止め、元清を肥後小西家与力衆として六千石で迎える。
元清が東伯耆南条家より潔く身を引いた事で、南条家のお家騒動は沈静化した。
しかし元忠が相続した南条家は、関ヶ原の戦いで西軍に加わりその後の敗戦により領地は没収され、元忠は高野山へ幽閉される。元清は行長不在の肥後宇土城攻防で、加藤清正の軍勢と対峙し奮戦したが、行長の捕縛刑死を知って宇土城を開城。その後は、盟友である加藤清正に乞われ、与力衆として六千石で召し抱えられる。清正の遺言で豊臣秀頼の守護を託された元清は、風雲急を告げる大坂城に向かう。
元清主従は、道中で郷里の東伯耆河村郡に向い父南条宗勝の「南条家再興の軍資金」を探索する。
宗勝の示す覚書を探索するが、東郷湖は水深が深く、軍資金の探索と引上げは容易ではなかった。初冬を迎え大坂の情勢が急変し、豊臣家と徳川家との開戦(大坂冬の陣)が迫っていた。
元清主従は軍資金探索をあきらめ、急ぎ秀頼の籠る大坂城へ急ぐ。11月の寒い時期の作業が、元清の体を衰弱させていた。丹波路の道中にて発病した元清は、京都にて数日療養したが病状は日々悪化しそのまま病没した。(一説には、徳川家との関係を恐れた加藤家重鎮が刺客を放ち毒殺したとも伝わる)
南条宗元の「南条家再興時の軍資金」は、今も南条家の再興を託され、東郷湖の湖底に静かに眠っている。
東伯耆(現在の鳥取県湯梨浜町)の南条家が滅亡してから、今年で四百十七年を迎える。
毎年七月二十日頃の水郷祭では、天正八年(西暦1580年)から始まる毛利と南条連合軍の戦いで戦死した両軍兵士の魂を供養のためか「南条浪人踊り」が町民により東郷湖畔で踊られている。
南条氏は、久米郡・河村郡・八橋郡の三郡を最も長く統治した戦国時代の国人。
南条家十代城主南条中務大夫元忠は、慶長五年(西暦1600年)九月に、元忠率いる南条勢千五百で京極高次が籠る大津城攻めの陣中で関ヶ原の西軍大敗を知る。敗戦後の士気は乱れ、兵卒は各々に逃亡し元忠も故郷に帰還することもできず京都に潜伏した。
東伯耆の領国、羽衣石城下および打吹城下は、鹿野城主亀井武蔵守玆矩の兵によって東軍傘下に収められ、留守居の南条家家臣郎党一族は諸国に落ち延びた。突然の関ケ原大敗に接した羽衣石城下は、逃げだす者が多く城下は荒れ果てた。
その頃、九州の肥後熊本では、加藤清正による小西家宇土城攻めが行われていた。関ケ原による西軍の大敗、小西行長逃亡行方知れずの報に接した小西家与力、南条左衛門尉元清は、宇土城代小西隼人正行景と降伏開城を決めた。隼人正は、後顧を元清に託し、城内将兵の除名嘆願を願い自刃した。
その後南条左衛門尉元清は、旧友加藤清正に乞われ、清正側近として六千石の知行で加藤家に仕えた。元清は、加藤家と豊臣家の連絡役として徳川政権の横暴に備えた。(元清は、領国の統治実績もあり数々の武功もあり、豊臣恩顧の大名諸将との人脈もあった)清正は、元清を加藤家の与力衆に加える事で、その後の豊臣と徳川の騒乱の対して、秀吉の遺児秀頼救出に向けた体制を整えた。
清正は病床の枕元に元清を呼び、これまでのお互いの深い縁の繋がりに感謝を述べ、改めて秀頼公の存亡の危機を救うように懇願して世を去った。元清は清正の死を深く悲しみ出家して名を元宅(清正が元清に託すの意)と改めた。
元清は、父八代南条備後守宗元と兄南条伯耆守元続・舎弟南条右衛門尉元秋の親子で南条家存亡の危機に備え密かに蓄えた、軍資金の確保が気になっていた。父宗元は、何不自由のない東伯耆統治下で十八歳の時に八代城主として家督を相続した。その後、雲州・伯州は、月山富田山城主尼子経久による「伯耆の五月崩れ」と語られる戦いで、伯耆一円の武将は敗れ国を追われた。逃亡生活の中で困窮した宗元は、領地奪回の戦いを幾度か仕掛けるが、ことごとく失敗し軍資金の無さを悔やんだ。
苦節二十数年、四十四歳で東伯耆三郡を奪返した宗元は、毛利与力衆として尼子攻めに奔走する。その傍らで密かに南条家の危急の折の軍資金調達を急ぐ。橋津港を整備して、日本海交易を活用し敦賀や博多との交易を活発にした。その役目を松ヶ崎城主小森和泉守方高に任せた。(方高は、側室お里の実兄であった)
松ヶ崎城には、里の子供達三人(後の元清、行衛姫、元秋)が天真爛漫に育っていた。
方高は、宗元より「南条家危急の折の軍資金を確保せよ」と密かに内命されていた。そのため方高には、宗元により諸将に比べ、比較的多くの領地と東郷湖の権益を優先的に与えられていた。(この事が、後に小森家の災難に繋がる)方高は、密かに蓄財した「南条家存亡の危機に備えた軍資金」を東郷湖に沈めた。その所在は、宗元と方高以外には知らされなかった。
宗元は亡くなる前に元続、元清、元秋を枕元に呼んで
「今は毛利の世で南条家は安泰に見えるがいずれ毛利も衰退し、南条家も存亡の危機を迎えるだろう。南条家再興には莫大な軍資金が必要となる。我は流浪して一文無しになり困窮した時期を過ごした。其の方等に同じ苦労はさせまいと方高と二人で、密かに軍資金を蓄え隠した。兄弟で力を合わせ、たとえ一人になっても南条家の再興を果たすように致せ」と遺言し数日後亡くなった。
その後、伯耆の南条家は滅びたが、元清は肥後で南条家を六千石で存命させた。宇土城代の元清は、側近の元亮に南条家再興の軍資金確保を内命し、東伯耆の国東郷湖へ向かわせた。
時は流れ令和二年(西暦2020年)南条家軍資金は、四百二十年の眠りを覚ますように、南条家の復興を願って目覚めようとしていた。
湯梨浜町(旧東郷町)の江戸時代後期より、語り継がれた昔話に
「元徳と薬師如来」という物語が語り伝えられ、今日まで残っていた。
その昔話は、「ある日の元徳の夢で、光り輝く薬師如来が、元徳を導いていた」と云う。
元徳の日課は、産後の日断ち薬の薬草を山から摘んで持ち帰る事だった。正直者で働き者の元徳は、夜明けから夕暮れまで山に入りっぱなしだった。ある時、夢に見た山の景色と同じような場所にであった。それまで夢の事は、忘れていた元徳が
「なんだか見た事のある場所だなあ・・・」と先を視ると、金色色に光を放っている土山が見える。近くに寄って見ると、土山は昨夜の雨で一部分が崩れていた。元徳は、導かれるように金色色の光を放つ土山を崩した。
土山からは、木箱が出てきたが長く埋もれていたのか、木箱には所々穴が開いていた。土山から木箱を掘り出した元徳は、木箱を開けて光り輝く仏像を視て仰け反った。
「夢で見た薬師如来様じゃな・・・」小さく掌に収まるが、ずっしり重い。
「薬師如来様が、世にでたかったんじゃなあ・・・」と思った元徳は、自分の懐に深く仕舞い込み持ち帰った。
それから元徳は、薬師如来様を家で祭り、家宝として大切にした。その後、元徳は医者になり、ある時不治の病で苦しんでいた龍野藩主の病を治し、大いに褒め称えられた。しかし元徳は、生涯誰にも、薬師如来を見つけた場所を語らなかった。夢のお告げを聴いた正直者の元徳は、薬師如来だけを持ち帰り家で奉った。
夢のお告げは「ゆめゆめこの場所は、誰にも語らぬように・・・」との事だった。
元徳が、老衰で旅立つ夢枕に、薬師如来様が現れた。
「元徳よ、そなたはまじめで善く務めを果たした。褒美に一枚の絵図をみせよう・・・」と言って薬師如来様は、笑顔で絵図を見せて消えた。
元徳は、薬師如来様から教わった絵図を書き写したが、後日の禍を恐れて燃やした。
それから数日後元徳は、薬師如来様に導かれるように旅立った。
元徳が、死の間際に子供達を集め
「薬師如来様を朝な夕なに拝み、お供え物を絶やさないように致せ。病の者を治す事に精進せよ。ゆめゆめ栄達を望まず、人心を大切に致せ・・・」と言い残してあの世へ旅立った。
元徳が旅立った後、元徳の三男が遺品を整理していた。三男は、何度か書き直した絵図を手に取って薬草のある場所が記された絵図と思い大切にしまった。その後、その絵図は行方知れずとなったが、誰もゆめゆめ薬師如来様の埋もれていた場所を指し示す絵図とは思わなかった。
南条元清は、元秋・元続と若くしてこの世を去った兄弟に
「南条家の再興のための軍資金は守る」約束した。
その後、時は移り十代城主南条中務大夫元忠は、関ケ原の戦いで西軍に属し南条家は領地没収となった」高野山に配流された元忠は、肥後熊本城主加藤清正の家老となった南条左衛門尉元清に庇護される。大坂冬の陣にて大坂城へ向かう南条元宅(出家して名を改める)は、東伯耆の河村郡東郷湖に立寄った。
南条家再興を賭けた大勝負をするため、宗元が残した軍資金の保有を再確認し徳川政権の中枢藤堂与衛門高虎に南条家再興の働きかけを行う。高虎とは深い縁の元清は、豊臣秀頼の国替えを働きかける。
肥後熊本十万石を、秀頼の領地として分地する案を上申していた。(清正の遺言であった)
徳川政権中枢の藤堂高虎へ、南条家再興の軍資金を融通する覚悟を決めていた。