前書き
空の青くない場所を、ご存知だろうか。
金が石ころより価値のない国は、二足で歩く獣の暮らす町は。
この世の不可思議は、絵本や言伝にあらず。たった今、現実で起きているのだ。
我が故郷ノェルド――小さな荘園にいた頃は幻想に過ぎなかった摩訶不思議、荒唐無稽をこの眼で見た。
そんなはずはない、貴殿貴女がそうお思いなのは察するに難くない。ヒトは、手に触れられるものを、自らの利益になるものこそ真実と捉える生き物だからだ。そういった聡明な方は、この書を火口に使うか、山羊にでも喰わすのをお勧めする。
そうではない愛すべき愚者、我が同胞はこの書を懐中に厠へ行くか、薄く絞ったランプの灯りの下か、いずれにせよ人目につかぬ場所でもって一読してほしい。本当の真実に眼を向けた同胞が、異端者扱いされては忍びないからだ。
好奇心旺盛な同志諸君、ページをめくろうと手をかけてはいないかね。早いところそのおかしな話とやらを見せてみろ、と。
そうしていただけるのは物書き冥利に尽きるところではあるが、その前に私の身の上話をひとつ。我が旅の目的のひとつに大きく関わる故、堪えていただきたい。
私は幼い時分、部屋に篭りがちな少年であった。生まれつき肺があまり強くなく、他の子供達のように日向の中駆け回るような真似ができなかった。もっぱら私の友と呼べるものは本しかなく、それは私をどこへでも連れ出してくれた。
開いた眼と、窓からの景色は代わり映えすることがなくとも、瞼の裏には無限の世界があった。私の夢は、それが現実にあるのかを確かめること。この脚で、眼で、肌で。感受性の敏感な少年にとって、故郷は狭すぎた。
そしてある日、転機が訪れた。雷雨だ、芝生がめくれるのではと思うほど強く、情けのない雨の夜だった。
わたしは喘息のような発作を起こし、寝込んでいた。私の咳き込む音は雨音にかき消され、どこか現実味のない雰囲気にわたしは怯えていた。
雨音が、一層強くなった。表の戸が開けられたためだ。両親が、こんな雨の夜の来客を迎え入れたのだ。私は訝しんで、なるべく咳を押し殺し、部屋の戸の隙間から様子を伺った。
両親はこの訪問者をよく思っている様子ではなかった。頭から爪先まで隠れるような、薄汚いフードとローブ。行き倒れ寸前の旅人だった。母は面倒事を嫌うタチなので最後まで眉根を寄せていたが、父がなんとか制したようだ。この雨の中放り出しては死んでしまう、ここに助かる命があるなら、と。
私は父の行いを尊敬すると共に、食い入るように居間の様子を覗き込んだ。異邦人は目深に被ったフードの隙間から、どこか触れがたい、神秘的な白髪を覗かせていたからだ。旅人の声の調子から、加齢によるものではないことと、女性であることがわかった。荘園から脚を踏み出したことのない私は、外の世界を知る旅人に俄然興味が湧いたのだ。
気が付いた時には、私は部屋の戸を開け、旅人のもとへ歩み寄っていた。どこから来た、その髪の色は、歳は、尋ねたいことなら山ほどあった。
母は悲鳴に近い怒号をあげ、私を部屋に戻そうとした。私の身体を気遣うのと、旅人が危害を加える可能性が捨てきれなかったからだ。
だが、私にはわかった。彼女が無法者の類ではないことが。私の低い目線からは、彼女のフードの下の相貌が見えたからだ。とても、とても澄んだ瞳だった。
私と目が合った彼女は薄く微笑むと、腰にあった剣をテーブルへ置いた。父が預かる旨を彼女に伝えると、迷いなく頷いた。
一晩の宿の礼が出来る金はないが、と言って彼女が取り出したのは、小さな薬瓶だった。苔色をさらに黒ずませたような液体が入っていた。肺にいる病魔を退ける薬だ、と彼女は言った。これをもって礼としたい、と。
そんな怪しげなもの、飲ませられるわけがないと母は癇癪を起こしていた。父も無言の警戒心を漂わせた。
旅人は、私の前にしゃがみ込み、語りかけてきた。
「この薬は、ここよりずっと西の西、森のなかに住むある種族の知恵だ。額で湯が沸かせそうな熱で悶ていた自分が助かった薬もそこにはあった」
私は興奮混じりに、かなり咳き込んだ。痰に血が混じるようなやつだ。
このまま放置すれば、命をなくす。彼女は断言した。実際、町医者の治療に効果はなく、私の身体は日増しにやせ細っていくばかりであったから、私たちはそれが嘘偽りのないことであるのは理解できた。
「君は、大きくなったら何がしたい」
旅人は私に、そう尋ねた。
本を書きたい。この世界を自分の眼で眺め、地を歩んで、感じた全てを伝えたい。私は、そう答えた。
「だったらいつか、わたしの故郷で会うかもしれないわね」
彼女は笑った。そして、私にしか見えないようフードを横へずらした。耳が、ヒトのそれよりずっと長く、横へ伸びていた。
「知らないから、怖いだけ。見てないから、わからないだけ。真実はとても単純で、手にしてみればあっけなく過去を消し去るもの」
そう言いながら彼女は、私に薬瓶を手渡した。手の中で転がしてみると、粘り気のある液体が少し遅れて動きについてきた。
母が私の手から瓶を取り上げるより速く、私は薬を飲み干した。あの味といったら、未だに忘れられるようなものではなかった。苦いという一言だけでは言い表せない、喉へこびりつく青臭さ。粘り気を帯びて口中に留まる不快感、良薬口に苦しとは言えど、その不味さで数日うなされてもおかしくなかったほどだ。
喉元までこみ上げてくる嘔吐感をなんとかこらえ、私は床について気を失うように眠った。
そして朝、寝ぼけ眼をこすると、ベッドの脇に旅人が立っていた。雨が晴れていい空気だ、と私はこぼした。
彼女は、安心したように私の頭を撫でた。今日の空気は、蒸しててさほどよくもないと言われた。それはきっと、君が初めて健康な身体で吸った空気だからだ、と。
彼女にそう言われて、私は初めて自分の咳が止まり、身体の軽くなったのを覚えた。両親へ伝えるべく、わたしは居間へ駆け出した。
信じ難い、と言う両親の前で、私は飛んだり跳ねたりしてみせた。三人で涙を流して喜びあったものだ。
改めて礼を言おうと自室へ戻ると、そこに旅人の姿はなく、開け放たれた窓から吹き込む暖かい風と、それに運ばれた花の匂いだけが残されていた。
彼女を抱きしめようと伸ばした手のやり場を、ポケットへ移すと、小瓶が入っていた。綺麗に洗われ、薬の代わりに畳まれた紙片が収められていた。
そっと、まるで秘密の暗号を交わすようにそれを開いた時から、私の旅は始まったのだと思う。
西の果ての森、サラルの友より未来の旅人へ。
『幻想の世界に、ようこそ』