2.そして悪人は異世界に捕らわれる
目覚めると、乳白色の部屋の中にいた。
縦横奥行き10メートルほどの空間で部屋の材質はわからない、大理石に近い気もするが、光源も見当たらないのに淡く光を帯びていた。
どうして自分はここにいるんだろう、そう思ったとき、異変に気が付いた。
―――自分の名前が思い出せない―――
これまでの人生を振り返っても、名前の部分だけ、ぽっかりと穴が開いているかのようであった。
高校時代、剣道の全国高校総体決勝で敗れた、親友の名前も覚えている。
大学で出会った妻の名前も覚えている。
社会人となり、記者となり、これまで出会った人々の名前も思い出せる。
だが自分の名前だけどうしても思い出せない。
どういうことだと頭を抱えると―――
「……犬耳……だと……」
改めて自身の身体を観察する。淡い光しかない部屋の中で、何故かはっきりと見ることができた。
床に臥せっていた自身の身体とは似ても似つかぬ、筋骨隆々の肉体が、纏っていた布の上からでもわかる。
骨張った老人の手ではなく、猛禽類のような鋭い爪をもつ手、そして耳と同じく存在感を放つ犬尾。きっと大型犬のそれに近いのだと思う。昔飼っていたシベリアン・ハスキーを思い出した。
その時、箱状の空間の向こう側から何者かの気配を感じ取れた。こちらに歩いてくる。
仰向けの身体を起こし、気配のするほうに正対する。
ほどなく、部屋の一角がずずず、と動き出し、崩れて強烈な光が差し込んだ。
光の中から人影が数人、こちらを見ているように感じられた。
「……誰だ、あんたら―――」
そう言いかけた瞬間、人影から緊張感が伝わった。それだけではない、これは―――
(……敵意……!?)
「リーヤチ、イザーターシイハ!」
「バンシオャシ! アン<レンエビンアュジ>タ!」
人影が次々に叫ぶ。数人が、何かをこちらに向けて構えているように見えた。その瞬間、ダン! ダン! と何かの発射音が聞こえた。
―――あれは『銃』だ!―――だが認知した瞬間には、銃弾が目の前に迫っていた。
とっさに屈み、直後に横っ飛びで回避する。床には四肢の跳躍により付いた焦げ跡が残っていた。
銃を撃った側は驚きながらも想定内といった風を見せている
「<レンエビンアュジ>シィデオダ。イーダーフュシノンイエ」
再度、相手は銃らしきものを構えてこちらににじり寄ってくる。
(待て……俺の今の動きは何だ、銃弾が来てから避けたのか……!?)
そして、銃を向けられた側は、その敵意より、それを回避する自身の肉体に驚いていた。自身の手をぎゅっと握る。自身のイメージ以上の動きをするのであれば、次はイメージを追いつかせるだけだ。
距離を取って相対する、光に慣れてくると相手が鎧で身を固めていることが分かった。
さっき撃ってきた銃の形状も判別できた。中世のマスケット銃に近い形だ。だが撃ち終わった後だというのに、弾を込める様子は見えない。
他にはクレイモアに似た大剣や小剣、小さな金属を多くつなぎ合わせた鎧や甲冑。頭全体を覆う巨大な甲冑。まるで古今東西の博物館から武具を拝借したコスプレ近衛兵を見ているかのようだった。
だがわかったことがある。鎧で姿かたちは見えないが、彼らはきっと『人間』だ。言葉は通じないし敵意を向けられてはいるが、まあそれは昔よく経験したことだ。
そんな時の対処法は、こちらに敵意がないことを示すこと、そして通じなくてもボディランゲージでもいいから、自分の意見を伝えることだ。
「待ってくれ! 言葉はわからないかもしれないが、俺に君たちと争う気はない、<止まれ!>」
こちらに近づこうと歩み始めた相手に対し、両手を前に出しながら上にあげるジェスチャーをする。
しかし、その言葉に呼応するかのように、相手側の集団が金縛りに遭ったが如く動かなくなった。
「ラ、<トマレ>グンヨーシータ! バンエシイェウンへ!」
相手から更なる敵意を向けられる。交渉は完全に失敗してしまった。
(く……! 今相手はなんで動けなくなった……。俺が何かをしてしまったのか……)
もはや穏便な手段は使えない。かといって、自分の名前もここの状況もわからない現状、ファーストコンタクトの彼らと事を構えることに一切の利益はない。となれば―――
「三十六計逃げるに如かず、というやつだな!」
その瞬間、相手側の金縛りが解けたらしい、こちらに再度銃を向けて弾丸を放ってきた。弾を込める暇はなかったはずだが……
(とにかく、新しくできたあの道から逃走せねば―――)
先ほどとは違い、連発してくる弾丸の雨を縦横に、壁を使い三次元で躱し続ける。そのまま出口へ向かう。殿にいた鎧人間が出口の前で大剣を構える。
振り下ろしてくる瞬間、逃走者は一層の速度を上げて、鎧人間の懐に潜り込み、振り下ろした手を掴んでクルンと捻り投げた。
大きな音を立てて鎧が叩き付けられる。その衝撃で相手の兜が外れた。
―――まだ、子供じゃないか―――
長い黒髪を後ろに束ね、薄い藍が入った大きく丸い瞳には涙をため、白磁のような肌は朱を刺したように紅潮し、打ち付けられて呼吸ができず苦しんでいる姿さえも可憐に見えた。
一瞬、見とれてしまった逃走者は、彼女が最後の力で自分の足を掴んだことに気づくことができなかった。
「オアィデオパンフ……<レンエビンアュジ>!」
絞り出すようなその声で、逃走者は我に返ったが、掴まれた手を払うその刹那、出口から飛来した何かに捕らわれた。
「これは……投網か……!」
身動きが取れなくなった逃走者が出口を見やると、部屋に入ってきた数十倍の鎧人間が戦闘態勢を整えていた。
もとより逃がすつもりはなかったのだろう。不意にあの時言われた言葉を思い出す。
―――お前と同じく悪人はすべてかの世界に召される。彼らはかの世界の供物となる。お前も―――
一人の鎧人間が近寄り、銃口を目の前に構える。
(こんなけったいな肉体になって、供物とは……)
言葉も通じない、名前も思い出せない、ここがどこかもわからない。
発射された銃弾に痛みを感じることはなかった、急激に意識を失う中で、それだけが救いだと、この世界の供物は思った。