1.そして悪人は異世界に捧げられる
8月の夏真っ盛りだというのに、その部屋だけ熱、というものが存在しなかった。
東京のど真ん中にありながら、見渡す限り手入れが行き届いた緑の庭園が、その部屋から見ることができる。
数十畳はあろうかという大広間の中には、髑髏のよう骨張った老人が一人、床に臥せっていた。
彼の名は田辺恒彦。
かつてこの国を裏から牛耳った、とされる男である。
―――朝讀新聞グループ総帥で、政界財界とも関わりが深い田辺恒彦氏の危篤報道が出てから早3日、永田町では田辺氏の安否を気遣う声が鳴りやみません―――
ふざけたことを言うな、と田辺は思った。
奴らは今、死にかけの自分を見限って後継者争いに必死だ。
回復が見込めない老人の見舞いなど、行く価値すらないのだ。
人の気配がしない部屋を眼だけでぎょろりを見回した。
これでも自分は、この国のために粉骨砕身してきたつもりだ。
あくどいこともやった。反対勢力は完膚なきまでに叩き潰した。
それもこれも、この国の平和のためだ。自分のためにしたことなど一度もない。
そう信じた結果がこのざまだ。
政治と金と指導者争いの舞台装置、権力の権力による権力のための歯車。
田辺恒彦は其れまで成した行為で自らを摩耗し尽くし、いまその生涯を終えようとしていた。
「ジャーナリストが正義の味方を気取るなよ。お前は社会の木鐸であるべきだったんだ」
かつて師事していた人の言葉を今際の際に思い出す。
木鐸、周囲に危機を知らせる木の鈴、木の鈴は自分では鳴らず、ただそこにあるだけ。
だから、自分は鈴を鳴らす人になりたかった。
―――それが、間違いだった―――
確かにこの国に貢献はした、だが自分の仲間は全員不幸になった。
自分は鈴を鳴らして、付いてきた皆を谷底へ突き落してしまった。
友も家族もすべて捨て、得たものは何だったのか。田辺にはわからなくなっていた。
(もう寝よう、次こそ目が覚めなければいい。もう十分だ……)
そうしてその老人が目をつぶろうとしたその時
「お前は悪人か」
男とも女とも付かない無機質な声が聞こえた。
田辺は目だけを庭先へと向ける。
誰もいないはずの緑の庭の中心に、黒いフードを被った人影が姿を現していた。
部屋の中からでは、その人影の顔を窺い知ることはできない。
だが、田辺には『それ』が人ならざるものだ、と長年の経験で感じていた。
(死神、というべきか。最期の面会人が死神とはお誂え向きだな)
「重ねて問う、お前は悪人か」
「……そうさな、世間は俺を『悪の帝王』と呼ぶし、まあ悪人なんだろうな」
「そうか。では『使わせてもらう』ぞ」
と言葉を言い終えた瞬間、庭先にいたはずの人影が自身の枕元に移動していた。
「やはり、人ならざるものか、久しいな。ドサ回りの時に見た以来だ」
田辺はくっくっと笑ったが、人影はその行為に対して興味を一切持たず、フードの下から青白い手を伸ばして、田辺の顔の上に乗せた。
熱のないこの部屋より、さらに冷たい手であった。
「悪人よ、お前にはもう一度生の苦しみを味わってもらう。このような楽に逝ける脆弱な肉体ではない。どれほど辛く、悲しかろうと朽ちることのない猛き身体でだ。その肉体、魂、嘆きや叫び、喜びや悲しみはすべてかの世界に召される。それが悪人と認めたお前の責だ」
「……俺に『お前たちと同じになれ』と?」
「それは違う。お前と同じく悪人はすべてかの世界に召される。彼らはかの世界の供物となる。お前も。我らは幽世、かの世界より出でて、かの世界の供物で顕現せしもの。お前は贄だ。決してこの世界には戻れない」
「ふん、死んで仲間の餌となれ、ということか」
それは確かに悪人にふさわしい末路だ、と田辺は思った。
そうして顔の上に乗せた手が僅かに発光したかと思うと
「お前の贄で、幽世より現世への道が開かれた。願わくば贄の行く末に幸多からんことを―――」
田辺の意識が深く深く沈んでいく。消えゆく間際に思ったことは
―――あの一瞬見えた顔、死んだ妻に似ていたな―――
だった。