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てっきり、橋を渡って帰るのかと思ったら、高砂さんは事務所の隣にあるマンホールの蓋を開けました。
「どうぞ」
「ここから帰るんですか?」
「そうだよ。橋は橋姫の管轄だからね。
大丈夫、この方法でも帰れるよ。
私の先輩も、似たような方法で異界と行き来していたんだから」
高砂さんは、相変わらず微笑みながら言い、「はい、これは君の落とし物だよ」と、私に鞄を渡しました。
それはこの世界に来る時に持っていて、どこかに落とした通学鞄でした。
「ありがとうございます」
「元気でね」
マンホールの穴は暗く、元の世界に帰れるのか不安がこみ上げてきます。
それに―――それに、本当にこれでいいのでしょうか?
闇の中に問いかけます。
このまま帰ったら、モモカさまはどうなるのかしら?
聞けば、マンホールを通り抜ける頃には、魂と身体が分離するそうです。
「桃香の身体はしばらく使い物にならないけど、必ず元に戻すから君は心配することはない。任せなさい」
私の身体は、空っぽとのことです。
「誰も中に入っていないから、すんなり元に戻れるよ。それに、時間軸も君がいなくなった直後になるから、なんの不都合もないはずだ」
気になることを全て、聞く前に答えてくれます。
それなのに、安心するどころか、その逆です。
マンホールの蓋を開ける器具を両手に持った高砂さんを見上げます。
彼はなんでも知っているようです。
その人が、かつて私の……モモカさまブログになんとコメントを残したのでしょうか。
『今日の歌もとても良かったよ。
夏に会おう。
その時まで、仲良く頑張ってね。
高砂』
『夏に会おう』
その通り。私は夏に高砂さんに会えました。
『その時まで、仲良く頑張ってね』
では、これは?
耳の側で、おばあ様のふるう、竹の物差しの音がしました。
私はモモカさまと仲違いしたままです。
もっと言えば、凪子ちゃんとも。
あれはいけなかった。
このまま帰ったら、私は、元の、家柄しか取り柄のない、嫌われ者の百花のままです。
せめて、この世界では、この世界でだけは、私は美しくありたい。
モモカさまのように。
今、どこにいるのかしら。
あんなひどいことを言って、謝りもせずに帰るなんて出来ません。
まして、魂の無いモモカさまの身体では、アイドル活動が出来ないのです。
凪子ちゃんに……私の最初のファンに、私自身でちゃんとした『モモカさま』を見せてあげたい。
それこそが、モモカさまへの私が出来る、せめてもの恩返しです。
あの輝く笑顔で、私を孤独から救ってくれたモモカさまへの―――。
マンホールの縁から手を放しました。
「百花ちゃん、帰らないの?」
「帰りますわ」
「そうか。気を付けてね」
なんでも知っている高砂さんは、いちいち私に問い質したりはしません。
それが正解なのか、誤答なのかも教えてくれません。
だけど、だからなんだって言うの?
『モモカがそう決めたんですからっ!』
それは絶対の正解です。
心の中で、モモカさまの決め台詞を叫び、通学鞄を抱きしめて、堤防を駆け下りました。
途中、振り返って、高砂さんに手を振ります。
「高砂さん! ありがとうございます!!!」
「桃香ちゃんによろしくね〜。飛梅の子も、よろしくね! あの子は……あの子も……次は、冬に会おうね! その時こそ!……そのときこそ……みんな……」
周りがぼやけ、高砂さんの声も消えてなくなります。
「歌を歌いますから! あなたに届くように! またブログにコメントを書いてくださいね!!!」
今度も、きっと大切に読みます!
真っ白になるまで手を振り続けました。
また機械的な『とおりゃんせ』の音が聞こえてきました。
あの童子二人が両脇にいる横断歩道が見えてきます。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
私は帰ってきました。
「ただいま!」
二人に言って、横断歩道を渡りました。
確かに、行くよりも帰る方が難しかったわ。
元の世界に戻れるという魅力的な話を蹴って、『こちら側』に『帰って』くるなんて。
高砂さんは分かっていたんだわ。
ちょっとだけ意地悪な人かも。
ひゅん! と竹の物差しの音がしました。
ひぇ! ごめんなさい!!!
おばあ様と同じくらい、厳しくて、優しい人なんだわ。
その証拠に、横断歩道の行き先は、元の街中ではありませんでした。
鶯橋に似た大きな橋がある川の堤防でした。
「モモカさま! ……っと、紅!」
鳥籠を持った、敵幹部・紅の姿を、私の目は捉えたのです。
「モモカさまを離しなさいよ!!!」
『あなた! 何しに来たの!?』
今にも鳥籠に入れられそうになったモモカさまが、私の姿を認めました。
口調が剣呑なのは、まだ怒っているからでしょう。
「迎えにきました! 私が悪かったの! モモカさまの姿を穢しましたわ。
これからは、もっと努力して、モモカさまに近づけるように頑張ります。
もう一度、私にチャンスを下さい!」
『……』
「『へぇ、帰らなかったんだ』」
紅が驚いたように言いました。
感情がないはずなのに、そう聞こえました。
「帰ってきたんですわ! 私の居場所はここです! 少なくとも、モモカさまにこの身体を返すまでは、ここで、モモカさまの代わりを務めます!」
イタタ……恰好良い姿を見せたいのに、お腹が痛みます。
つい、前かがみになってしまいます。
「モモカ!? 大丈夫か!?」
後ろから、声がしました。
白加賀久延です!
「どうして……」
耐え切れないほど痛み始めたお腹を押さえながら、振り向くと、思った通り、久延さんがいました。
「……探していたんだよ」
私を? それとも、モモカさまを?
「お腹痛いのか? もしかしてずっと? 今日の舞台の不調もそのせいか?」
「平気ですわ。アイドルたるもの、この程度の痛み……」
『駄目よ!!!』
モモカさまの鋭い声が聞こえました。
『早く病院に行きなさい!』
紅に握られたまま、身をよじって叫んでいるのです。
『でも、モモカさまを……』
『いつから痛いのよ! 最近、機嫌が悪かったのはそのせいなの!?』
『分かりませんわ。今月はずっと……』
お腹をさすります。固く張っている感じがします。
『痛かったの!? 盲腸だったらどうするの!』
『盲腸?』
『そうよ! 盲腸はね、すっごくお腹が痛くなるのよ!
それを我慢していると、ひどくなって、腹膜炎になっちゃうの。
そうなったら、もう手術することになるんだから!』
やけに詳しく、そして、やけに盲腸を恐れている様子に、私は首を傾げました。
『そこの久延さんの中に入ってる人! その子を病院に連れて行って!』
聞こえるはずが無いのに、モモカさまが久延さんに命じました。
しかし、それに反応したのは、なぜか紅でした。
「『……盲腸……もしかして、桃香? 君はあの時、本当にお腹が痛かったの?』」
『そ……そうよ……我慢したけど、どんどん痛くなって……病院に連れて行かれて、すぐに手術しろって……私は嫌だって言ったのに……』
紅とモモカさまが見つめ合っています。
二人には何か通じるものがあったようですが、私にはさっぱり分かりません。
しかし、久延さんには、分からないなりに、分かった事実があったようです。
「あー、モモカ? そっちのプラムの方の……。その盲腸の話が君の経験談なら、こっちのモモカの方は、少なくとも盲腸の心配はないよ」
『どうしてよ!』
「手術したんなら、盲腸は取ったんだろう? なら、モモカの身体は盲腸にはならないよ。普通は。
この世界の人間も盲腸は一個だろう? 本で見たけどそうだった」
至極、冷静で真っ当な意見に、モモカさまは動きを止めました。紅は……ちょっと笑ったかもしれません。
『…………!!! じゃあ、なんでお腹が痛いのよ!』
その時、私が借りているモモカさまの身体に異変が起きました。
とても殿方の前でしてはいけない……その……音と臭いが……。
いやぁあああああああ!!! 誰か! 誰か代わって!!!
動揺する私に、モモカさまが引きつった様子で問います。
『……あなた……最近、トイレ行ってまして?』
『あ、アイドルは……トイレには行きませんことよ』
『この期に及んでそんなしょうもないことを!!!』
紅が手の力を緩めたのでしょう、戒めから解放されたモモカさまが私に向かって突撃します。
『やめて! 突っつかないで下さい〜』
『食べ過ぎなくせに、出してもなかったの!
お腹も痛くなるわよ! どうして気が付かないの! 普通、何日も出なかったら、気になるでしょうが!』
『元の身体で、こんなことなかったんですものーーー!!!』
久延さんと紅の前で、こんな下品な話をするなんて、恥ずかしいのに、モモカさまの追求は止みませんでした。
『ないの!? 一度も!?』
『ありませんわ!』
『まぁ……羨ましい体質なのね。
私はちょっと気を抜くとすぐに……その薬の助けを……』
完璧で美しいモモカさまにそんな悩みがあったなんて……。
「梅花谷家の食事に問題があると思うよ」
すっかり呆れた様子の久延さんが言います。
この人には、モモカさまの声が聞こえているようです。
初めて会った時は、そうじゃなかったのに……。
「食事?」
「そう、君がよくブログにアップしている料理。
脂質と糖分が多くて、食物繊維が圧倒的に足りていないよ。
それでその体型を維持しているから、正直、すごいなぁ、とは思ってたんだ」
まさか、愛だけでなく、私のブログまできちんと見ていたなんて。
嬉しいけど、こんな駄目出し、嬉しくありませんわーーー!!!
「とりあえず、病院に行こうか?
―――と言う訳で、俺たちは行くけど、君はどうする?
そっちがその気なら、やりあう準備はあるけど」
ポケットから、あの木彫りの鳥を取り出した久延さんが不遜に微笑みます。
そうでしたわ。
高砂さんが言っていた飛梅の子孫。
とても強い力の持ち主。
紅もそれを知っているのでしょう。
消えていなくなりました。
『モモカさま、ごめんなさい。
私が自分勝手な真似をしたせいです。
それなのに、私のことを心配して下さって……お優しいのですね』
両手で小鳥型妖精の姿になったモモカさまをそっと包みます。
『―――私は……優しくなんかないわ!』
『え?』
ぶるり、と手の中の羽毛が震えました。
『あなたの言う通り、私も悪かったわ……』
『いいえ! モモカさまは悪くありません!
こんないきなり小鳥のような姿になって、私のような女に勝手に身体を使われ、あまつさえ、イメージまで落としてしまうなんて!』
『違う』
はっきりとした声に、胸を突かれました。
言葉を失い、見つめたモモカさまは、小さくて弱くて……今にも消えてしまいそうです。
『違うわ。あなたは勘違いしている。
私は素晴らしいモモカさまなんかじゃないの。
嫌味で、嫉妬深くて、意地悪な女なの。
久延さんが振り向いてくれなくても当然なのよ。
だって―――だって!!!』
『悔しかったんだもの!』と、悲痛な声が響きました。
そこからモモカさまは堰を切ったように、愛への憎しみを語りました。
ぽろぽろとこぼれる涙が、胸元のフワフワな羽毛を濡らします。
『だから意地悪していたわ。ええ、そうよ。
キツイ物言いをしたわ。そこの男の言う通りよ!
でも間違っても、物理的な嫌がらせはしていないわ!
それだけは、私のプライドに誓って、一度もしていない!』
『モモカさま……』
『失望した? あなたの方が、私よりもずっと素敵なのよ』
思わぬ告白でした。
まさかモモカさまがそんなことを思っていたなんて。
けれども、裏切られた気持ちにはなりません。
なぜなら、私は知っているからです。伊達に長い間、一緒に過ごしてきたわけではないのです。
『―――モモカさま……それでも、私はモモカさまが好きですわ。
私は知ってますもの。
この身体……どれだけアイドルとして研鑽を積んで来たか、それだけは嘘ではありません。
それに……』
『それに?』
次の言葉を躊躇ったのは、モモカさまへの気持ちが偽りだからではなく、側に、今や私たちの会話が聞こえる久延さんが居るからです。
また変なことを言ったらどうしましょう……。
恐れが、言葉を奪います。
その言葉だって、他人の受け売りです。他人のふんどしで戦うのが、ほとほと身についてしまったようです。
でも……それ以外、モモカさまを励ます言葉が思い浮かびません。
『過ちて、改めざるを、これ過ちという。
モモカさまは自分の過ちも、弱さも、ご存知なんですもの。
きっともっと素敵な人になれます。
私も、モモカさまを見習って、自分と対峙してみようと思います』
一気に言葉を紡ぎだしました。
堤防の上に、川から風が吹いて、一瞬、涼しくなりました。
誰も何も言いません。おばあ様の竹の物差しの音も聞こえません。
恐る恐る久延さんの方を見ると、彼は、私を見て、ニッコリと笑いました。
「送っていくよ」
私は久延さんに連れられて病院に行きました。
腹痛の原因は分かりましたが、ついでに見てもらった頭痛の原因は不明でした。
ただ、頭痛の方は、自分で分かっているかも。この痛みは、自分を知るための痛みなのだと。




