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たった三曲、しかし、長いイベントが終わって舞台裏に引っ込めたというのに、息継ぐ暇も、モモカさまのお説教を聞く時間もありませんでした。
なぜならば、すぐに特典会が始まるからです。
CDを買った人と握手をする握手会ですわね。
私、握手会は初めてです。
参加する方も、される方も、です。
ずっと参加してみたかったのですが、誰か知り合いにあったらどうしようかと恐れるあまり、なかなか踏み出せないでいましたの。
これも後悔せずにはいられません。
握手会って、どんな雰囲気なのかしら?
ゲームの中と同じような感じで構わないのかしら?
『春告』の中でなら、今日は松田と竹井しか参加する人間はいないはずですのに、見れば、梅花谷グループの人間が列をなしています。
CDを買うお金も出しているのかしら?
さすがに全員ではなく、半数くらいしか残っていませんでしたが、それでも多いですわ。
もう帰って休みたい。せめて、この靴を履き替えたい。ナメクジもどきだけでも追い出したい。
しかし、そんな要望を訴えることも出来ずに、お水を飲み、汗を拭き、息を整えると、小田原に率いられて、みなさんの前に連れ出されました。
アイドルって、思ったよりもハードですのね。舞台の上でキラキラしているだけではない地道な活動に、モモカさまへの尊敬の念がさらに高まります。
『当たり前でしょう! あなたに任せないといけないなんて、本当に不安ですこと』
アイドルとファンの間をやんわりと隔てる為に置かれた握手会用のテーブルの下にある荷物置き用の棚に陣取ったモモカさまに話しかけられました。
『大丈夫です!』
『さっきもそう請け負ったくせに、あの体たらくはなんですの!』
心の中で会話出来るのは、便利なようでいて、不便ですわね。
握手会をこなしながら、モモカさまのアイドル訓示を受けるなんて。
もっとゆっくりした時に、そのお話はお伺いしたかったです。
もっとも……握手列の大半は梅花谷グループから動員された社員及び関係者なので、私とは握手することはありませんでした。
みなさん慇懃無礼に一礼して去っていきます。
中には「素晴らしいステージでした」などと褒めてくれる者もいましたが、本来のモモカさまの実力ではないことを自分が一番分かっているのですから、自惚れる気分にはなりませんでした。
そう考えてみれば、好文百花として生きていた頃は、同じようなことをよく言われては、『当然』と思っておりましたが、あれもまた、好文家の令嬢に対するおべっかにすぎなかったのでしょう。
うっ……落ち込んできました。足元のぬめりが、ほとほと嫌になってきます。
『そうでもないわよ……二曲目からは悪くありませんでした』
『まぁ! モモカさま! 褒めて下さるのですか!?』
『一曲目ほどは……という意味です。
あやうく久延さんの前で、この私に恥をかかせるところでしたわよ!』
『……?? 久延さんは確かにいらっしゃいましたが、中身は他人ですもの。お気になさることはありません。
……一曲目が散々な出来だったのは、弁解の余地がありませんが』
中身は不明な偽・久延さんには、思いっきり軽蔑されていましたが、それがどうしたというのです。
あんな男にどう思われようと、私は平気です。
けれども、私と同じく繊細な心のモモカさまには耐えられないのでしょう。
ああ、お可哀想なモモカさま!
私の力が及ばないせいで、申し訳ないですわ。
『……い、いえ、そこまでは……あなた、ちょっと思い込みが激しいタイプって言われない?』
『いいえ、そんな風には言われたことはありませんわ。百花は素直で一途な女の子ね、とは言われますけど』
『そう……』
また一礼して梅鉢紋のバッチをつけた社員が通り過ぎました。
私服に社章は普通付けないでしょうに、皆、一様にそれをしていると言うことは、やはり仕事、だからなのね。
残念ですわ。
さらに憤りを感じるのは、次の人が来るまでが長いことです。
この事実は、つまりは、先に立っている千草と愛との会話が長くて、私の所まで辿り着くのに時間がかかる上に、滞在時間が短いことを意味しているのです。
先ほどの一人を見送り、手持無沙汰で隣の愛と嬉しそうに会話する男を見ます。ようやく愛の手を離したと思ったら、私の前で一礼して帰っていきます。この男も梅花谷グループの人間なのに、私よりも愛の方に魅了されてしまったようです。
納得できませんわ!!!
愛よりもモモカさまの容姿の方が絶対、美しいのに。
足でも踏んでやろうかしら。
ふと、そんな気持ちがよぎった瞬間、むにゅう、とナメクジの粘液が靴の中で暴れました。
いやぁ、気持ち悪い。
握手会が終わるまで、私、この足を一歩も動かしませんわ!
「モモカさまぁ?」
靴の中の感触に顔を顰めていると、舌足らずの声が下の方から聞こえてきました。
見れば、髪の毛をツインテールにし、苺柄のピンクのワンピースを着た小さな女の子が立っていましたの。
まぁ、なんて可愛いワンピース! 私も苺柄は大好きですわ!!
「こら、モモカお嬢さまに、なんて口を……」
どうやらやっぱり梅花谷グループの社員である父親が娘の不作法を窘めます。
良くってよ。
不躾ですが、こんな幼い子供にしては礼儀がなっている方です。ちゃんと私が『モモカさま』であることを理解しているではありませんか。
「そうよ、私がモモカさまよ!」
そう言って、手を差し出しました。
この私……ではなくって、モモカさまから握手を差し出されるとは、光栄なことなのですよ。
しかし、女の子の手は机と身長差に阻まれて、私の手を握ることが出来ませんでした。
「少ししゃがんであげるといいですよ」
隣の愛が握手しながらも、耳打ちをしてきました。
分かってますわ! そんなこと。
ただ、好文家の人間は、そう簡単に他人に膝は屈しませんのよ!!
しかし、今はアイドルのモモカさま。
私はぎこちなく膝を折ると、女の子と握手しました。
記念すべき、握手第一号ですわ!
体温の高い、しっとりとした小さな手は、あまり気持ちよくはありませんでしたが、なぜか自然に笑みがこぼれます。
「モモカさま、お歌、ありがとう」
なんて、出来た子供なのかしら? 大勢いた大の男たちよりも、この頑是ない幼子の方がよほど人間の価値について理解していますわ。
まさか神童!?
「おっほほほほ! モモカさまのお歌が気に入って!?」
思わず高笑いが漏れます。
「えー、あの子。
自分のことモモカさまだって」
「しかも、何、あの笑い方。
どこのお嬢さまよ」
「そういうキャラ設定なんじゃない?
お嬢さま設定!」
「うっわー、キツイ。
あとから黒歴史になるんじゃない」
あははははははは―――
通りすがりの女子高校生が指を指して笑っていきます。
でも、怒ったりはいたしませんわ。
モモカさまの価値が分からないなんて、可哀想な子たちなのです。
そう思えば、この無礼も寛大な気持ちで許せますわ。
何しろ私には、この小さいながらも、真実を見抜く賢者がいるのですから。
「また聞きにくるとよろしくってよ!」
「うん、また来る! バイバイ!」
「ごきげんよう」
大きく手を振る小さなファンに、私は優雅に手を振りかえしました。
「小鳥さんもバイバイ!」
「小鳥?」
父親が訝しげに身をかがめるので、慌ててプラムの姿のモモカさまを後ろ手に隠しました。
あの子の目線だと、モモカさまが見えたのですね。
『ごきげんよう』
モモカさまも、聞こえないながらも、小さな女の子に挨拶をしていました。




