人魚癬
雪雲のあいまから覗いた明かりは薄ぼんやりとして、樹氷の森を照らしていた。山の斜面に刺さり切る銀色の幹や梢は透明な針のむしろであり、時に烈しく冷たい太陽が降り注ぎいっせいに光り輝く様は、幼心に熱く焼き付くほどの眩さであった。
わたしは獣の足跡と糞がわずかに残るばかりの、山の道なき道を歩いていた。手袋ごしにも冷気で指先が凍り付いでしまうほど長くをかけ、この深い雪路をゆく。桶と保存用の食糧を抱えて険しい道を進むのは、ひとえに本来その役割を果たすべき両親が揃いも揃って臥せってしまったからであった。父は腰を痛め、母は長年の病が悪化し。それでもなお、峡谷の集落の背面にそびえる、この深く恐ろしい雪山に強行しようとする様を見かね、わたしが代役を買ってでたのである。
おそらくはわたしの生まれるずっと前から、父と母が、春も夏も秋も冬も変わらず通いつづける山のどこか。両親を案じる一方で、わたしの胸の内には、そのどこかに対する純粋な好奇心があった。冬眠に出遅れた熊がいつ襲い掛かるかも分からなければ、雪崩に押し潰される危険もあるこの山のうちに足を踏み入れる、その恐怖に打ち勝つほどのものが。
山小屋に行き、そこに水と食糧を置いていきなさい。よいかい、けっして、戸を開けてはならないよ。病に苦しむ母は、わたしの外出を渋々了承した上で、そのように言い付けた。
そして一面の雪原に方向感覚すらも失い始めた頃、わたしはその地に辿り着いたのであった。
春が近付き、日照時間も徐々に伸び始める時節である。陽に融けた雪があちこちで木々の梢からすべり落ち、ほとりほとりとかすかな水音を立てていた。焼け付くような白さのなか薪の積んであるあたりまで行って、重い水桶と食糧を詰めた篭とを地面に下ろす。母の言い付けに従うならば、ここで帰らねばならない。
けれどもそのとき、好奇心旺盛な時分であったわたしは、父や母が絶えず通い詰めるこの小屋の主は誰なのであろう、という疑問にとり憑かれてやまなかった。集落には住めないような余所者? 老人であろうか、若い者だろうか、男だろうか、女だろうか……ひょっとしたら、この地に根付く信仰から取りこぼされてしまったような、異教の神であるかもしれない。可能性は尽きぬまま、頭のなかを目まぐるしく駆けめぐり、そうともなると答えをこの目で確かねば気が済まない。
逡巡はわずか、わたしは山小屋を支える粗末な木材の合間から、その内部を窺い知ることにした。戸を開けてはならぬと言い放った母への誓いを破らないようにするには、それ以外の法が思いつかなかったからだ。けれども何かを見付けるよりもはやく、それは驚きとなってわたしの背後から訪れる。
なにかが肩を叩いたのだ。
一拍遅れ、それが屋根からすべり落ちたぼたん雪であることに気付くが、ただならぬ物を感じたわたしは、何物かに弾かれたように振り返った。鬱蒼としげる背の高い木々が真白に塗りつぶされるまばゆい世界。
それらのなかに――その者はいた。
「あ……」
ひょろりと背の高い若者。薄汚れた装束を身にまとい、頭からは毛乱れた帽子を被っている。その栗色の眸はまっすぐにわたしを見据えて見開かれ、わたしもまた、驚きに声を失った。
「あの………これ……」
数拍遅れて自分の役目を思い起こす。地面に下ろしていた荷物をぎこちなく指差せば、それを見て取って、黙りこくったままかれは頷いた。
「お母さんが病気で、お父さんは腰を痛めてて……それで、わたしが代わりに……」
しどろもどろに話すうちに、一歩、二歩、と若者が近付いてくる。
生臭い獣のような臭いが、一瞬のうちにむせるほどの密度となって立ち込めた。かれはそのまま水桶の前で屈み込み、わたしを見上げてにこりと白い歯を覗かせる。
「よかった。痒くて、たまらなかったんだ」
かれが興味を見せたのは水のほうだった。じぶんの両肩を抱いて一歩も動けないでいるわたしをよそに、服の袖をめくる。
一見すれば何の変哲もない若者だったが、かれの異質たるゆえんがそこにあることを、わたしははっきりと目にしてしまった。痩せぎすの、ほとんど骨しかないような細い腕。本来は白い皮膚で覆われているそこに、まるで川魚のような鱗が密集していた。陽光を受けて白く硬質に、ぬらぬらと光る無数の鱗。
かれは薄氷の張った桶のなかに、ためらいなくその腕を突っ込んだ。じゃぶじゃぶと手荒く洗い始める。もう片方の手に持った木の枝で鱗をこそぎ落とそうとするが、鱗は見た目以上に硬そうで、なかなかに剥がれようとしない。それでも幾度かこするうちに鱗の一部が取れると、ばらばらと水のなかに落ちた。それは乳白色で、いくらか透き通っていた。まるで鹿の脂身のようでもあるが、それにしてはやはり硬く凝固していた。
もう片方の腕も同じような有様だった。かれが両腕の鱗をすっかり削ぎ落とすまで、わたしはそこから離れられなかった。恐怖か、好奇心か。どちらともつかぬ感情が胸のうちをせめぎあい、わたしの両足を地面に縫い付けていた。
かれは擦りすぎて真っ赤になった皮膚を袖のなかにふたたび隠すと、肩を竦めて、わたしを見上げた。
かれの眸はガラス玉のようだった。
「きみの名前は?」
「……………イーミャ」
「イーミャ。そう」
かれはひとつ頷いて立ち上がり、服についた雪を払った。
「イーミャ。僕の呪いを治すには、山のふもとを流れている川の水がいいそうなんだ」
一拍遅れて、それがわたしの運んできた桶の水であることを理解する。「呪い……?」とわたしは首をかしげた。
「そう。生まれたころに、どこかのだれかが、ぼくに呪いをかけたそうなんだ。これでもずいぶんと良くなったんだよ、と、あのひとたちは言うけれど。どうなんだろうね。きみはどう思う?」
「……よく、分からない」
「ぼくは生まれたときからここにいるんだ。きみは山のふもとの集落に住んでいるの? 若い女の子なんて、はじめて見たよ。ねえ、君? また来てくれるかい」
ふと伸ばされた指先がわたしの巻き毛に触れようとしたとき、わたしはとっさに後ずさっていた。びくりと怯えた態度のわたしに、かれは明らかに傷ついたような顔をしたけれど、すぐに薄い口元に笑みを刷いた。
「いいんだ、あのひとたち以外の人がたまに僕のもとに迷いこんでくるけれど。だいたい、みんな怖がるからね。僕の鱗を見たら。ねえ、きみは知っているかい。人魚のこと。人であって魚でもあるようなものが、この世界には存在するらしい。つまり僕は異端なんだね」
白く息をけぶらせながら、若者は独特の語調で語り続ける。それは言葉というものが堰を切って溢れ、とめどなく流れ出してゆくようでもあった。
「僕もはやく、きみたちのように暮らしてみたい。この寒い山小屋のなかで暮らし続けるのは、悪くはないけれど、つらいものだからね」
くしゃりと前髪を手で掴んで、かれは腰を屈めてパンの包みを抱えた。かれは続けざまに何かを言おうとしたが、その掴みどころのない、得体の知れない気配に怯えきったわたしは、その先を聞き届けることなくその場を走り去った。頭上で絡みあう梢のあいまからこぼれた日の光が、桶のなかで溜まりに溜まった鱗の塊に当たっていた。どこか遠くで、雪の塊がどさりどさりと落ちる音が、かすかに響いていた。
雪融けが近いのであった。
父の腰は三日で治り、母も間もなく快復した。わたしにあの役目が言い付けられたのは、一度きりの出来事となった。
父と母とわたしの三人の生活は、それからも滞りもなく続けられた。やはり父と母のどちらかが、あるいは両方が水桶とパンを持って消えることはあったが――あの日の出来事を話すことも無ければ、かれらの行動について問い質すこともなく。
鱗のある若者の話は、わたしの記憶の底へそっと追いやられていった。
そして時は流れ…………成人を迎えてまもなく、わたしは嫁に行った。夫が若くして落馬で死ぬと、追いやられるようにふたたび実家に戻り。老いた父と母はなおも優しくわたしを迎え入れた。間もなくわたしが死んだ男の子を身ごもっていることを知ると、かれらは手厚い世話をしてくれた。けれどもたびたび石女であればよかったのにとこぼした。
その頃にはかれらの山への往復は途絶えていたが、そうするにはかれらが老い過ぎたのか、あるいはあの若者が死んでしまったのか、問い質す機会もなければ、意識することもないほどに、一度きりの邂逅はわたしの記憶の底に封じられつづけていた。まるでそれが賢明であるとでも言うように。
その記憶が紐解かれたのは、長く肺を病んでいた母の危篤の日のこと。奇しくも、わたしが出産の兆しを見せた深夜でもあった。
産婆が失神し、父の慟哭が外の吹雪にも掻き消されぬほどに大きく響くなか、わたしはその子どもを腕のうちに抱いた。そしてすべてを悟ったのである。死の床で母は子を見てそうかそうかと二度三度頷き、長年の懊悩が克明なかげりを残す顔をゆがめた。そしてただひとこと、「これは血の呪いなのかもしれない」と言い放ち。それきり、彼女は物言わぬひととなった。
母の死に顔を見下ろしながら、わたしたちの祖先は人魚であったのかもしれない、そんなことを考えた。
母の葬儀は、あの日のような、雪雲のあいまから薄日が覗く日に執り行われた。
家が悲しみに包まれ、おいおいと女たちの泣き歌があたりに響きわたるなか、わたしだけがその場にいなかった。
まだ生まれたばかりのその子を抱いて、ひとり、二度目のあの山の道を辿っていた。
がらんどうとなった山小屋に入り、埃に満ちた寝台の上にそっと、その子を横たえる。子はいつのまにか眠りに落ちていた。わたしはその子のまだやわらかな頭皮を、頬を、首を、順に指先で撫でていく。あたりは寒々としていた。風がかすかにたなびいて、遠くで梢から雪の落ちる音がかすかに聞こえた。壁の隙間からわずかに射したひかりが、わたしの子のやわらかなげな曲線を浮かび上がらせる。
その子の両腕や腹、両足に浮かび上がった半透明な鱗もまた、日を受けて硬質な光を放っていた。
子が目を覚まし、不自由そうに拳を握り締めて泣き始める。わたしはその頭を撫でながら、ただただ途方に暮れるしかなく――けれど集落の輪のなかでこの子を育てることができないことだけは、はっきりと理解していた。この子は忌み子だ。異端なのだ。
あの日、わたしが出会った若者とそっくり同じように。
わたしは目を閉じ、あの日のことを思い浮かべた。あの若者は、わたしの兄であったのだろうか?
この鱗は、母の言ったように、わたしたちの血にかけられた呪いのためなのだろうか? 煩悶するわたしの頬を、一筋、冷たい涙が流れただけだった。
目を開いて見下ろした子の鱗は、光のなかで、まばゆいばかりに白く耀いていた。
それはこの山を流れる早瀬が大地を抜け、そしていつかは注ぐという海にいるという生き物のような、とてもうつくしい鱗なのであった。