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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【 オリジナル / 短編 】

【 スウィートブラッド・コロン 】

作者: 夜斗

 トントントントン……と軽快なリズムを刻みながら小気味良く響く音。

 それに加え、部屋にふわっと漂う味噌の香りに刺激され、眠っていた本能がゆっくりと覚醒し俺は瞼を開く。

 寝ぼけ眼をゴシゴシこすりながら布団から身を起こし、音と香りの出所の方へ視線を動かすと、そこには一人の少女が立っていた。

 背丈はそう高くない、中肉中背な自分とあまり変わらない程度だろうか。

 真っ白で清潔そうなエプロンを着て台所に立つその姿は何処か初々しく、さながら新妻のような甘酸っぱさを感じさせてくれる。チェック柄のフレアスカートからは細過ぎず太過ぎずの健康的な太ももがバッチリと見えていてこれまた眼福極まりない。

 どうやら音の正体はまな板の上で踊る包丁らしい。とすると、今漂っているこの香りからして彼女は味噌汁を作っているのだろうと予測できる。

 と、ここで俺の視線に気づいたらしく件の少女がクルリと振り返った。


「あ、おはようございます先輩。今朝ご飯作ってるんで、ちょっと待っててくださいね」


 そう言ってから彼女はニコッと天使のようなスマイルを花開かせると調理を再開する。

 そんな後ろ姿をぼんやり数秒間と眺めてから、あぁ何をボケッとしてるんだと思い至り、俺は布団から飛び出し押し入れに片付け、入れ替えに折り畳み式のテーブルを取り出した。


「あぁ、そういうのも私がやりますから先輩はゆっくりしててくださいよ」


 いやいや、ここで寝転がってちゃ男が廃るってモンです。

 彼女が味噌汁に具を注ぎ足す間にテーブルを広げ、そして部屋を軽く見回し簡単に掃除を始める。

 「も~、それも私がやりますから~」と聞こえたような気もしたが一切構わず、ついでにテーブルを布巾で磨き始める始末。

 そんな俺の雑務が一段落すると同時、彼女は時代に遅れ気味のガスコンロの火を止めて出来たての料理が並ぶトレイを運んできてくれた。


「こういうコトも全部私に任せてくれればいいのに……でも、そういう優しいところも好きです」


 それまでインスタントな惣菜やスナック菓子しか乗せなかったような小皿には色鮮やかな、それでいて温かな料理が盛り付けられていた。

 少々焦げ目の付いた紅ジャケが一つ、突いたら崩れてしまいそうなふわふわの玉子焼き、きんぴらごぼうの隣にはきゅうりの浅漬けなんてものまで。ワカメ&豆腐というゴールデンコンビな味噌汁と熱々のご飯を彼女の手から直接受け取れば、目の前には古式ゆかしくも今なお愛され続けている我らが日本伝統の朝食風景が完成した。欲を言えば納豆が欲しいところだが、世の中には腹八分という言葉もあるので我慢。


「ちょっと、失敗しちゃったかもしれないけど……」


 焼き上がった紅ジャケよろしく頬を染める少女はエプロンを付けたまま俺の正面にちょんと正座する。

 改めて真正面から見るとかなりの美少女だ。

 サイドアップにまとめたライトブラウンの髪に、あまり化粧っ気を感じさせない清楚な小顔。その左目の下にチャーミングな泣きぼくろがひとつ見える。

 全体的におっとりとした天然系のお嬢様といった印象だ。エプロン姿も十二分に似合っているが、何となくダッフルコートとかマフラーみたいな防寒具で完全武装した姿も見てみたいとあらぬコトが頭の片隅に過ぎる。


「? どうしたんですか? ボーっとしちゃって。……もしかして、シャケはお嫌いでしたか?」


 シャケが嫌いな日本男子なんていません!!

 ……と、豪語していいものかは不明だが少なくとも俺は嫌いではない。むしろ余裕で好物にランクインしている。余談だが一番好きなのはサバ、味噌煮ならなお好ましい。

 俺は丁重に合掌し、まずはシャケからと箸を伸ばす。

 シャケの身は程良い固さでほぐれ、噛みしめると絶妙な塩加減と甘みが広がり、思わず茶碗の中のご飯を一気に半分ほどかき込んでしまう。

 美味い、その一言に尽きる。

 次いで玉子焼き……と見せかけて、敢えてきんぴらごぼうに手を掛けてみる。

 細切りにされたゴボウとニンジンの煮物という至極シンプルな一品だが、シンプルであるが故にその味に誤魔化しは利かない。そして結論から言ってしまえば――大変美味だった。ゴボウのシャキシャキとした歯応えの後にピリッと来る辛みは、俺の箸を倍速にさせるだけの魔力がきっちりと備わっていた。

 ちなみに、きんぴらごぼうの“きんぴら(金 平)”とは金太郎こと坂田金時の息子の坂田金平に由来している。江戸時代にはゴボウは精力の付く食べ物とされていて、化物をばったばった倒す英雄にあやかって名付けられたんだとか。以上、明日ドヤ顔で使えるかもしれない豆知識。


「あの、お味の方はどうですか? 濃かったり、薄かったりとか……」


 風に吹かれたら消えてしまいそうなほど小さくて気弱な台詞と共に、思わず抱擁してしまいたくなるような上目遣い。

 料理を作った身として、自分の料理の味を心配するのは大いに理解できる。俺はもがもがと頬張り過ぎた所為で首を縦に振る程度の返事しか出来なかったが、彼女はそれを見るなり表情をホッと綻ばせた。


「う、嬉しいです……ッ! デザートも用意してますから、ちょっと待っててくださいね」


 感動の所為なのかやや上ずった声でそう告げると、彼女は途中戸の縁に足を引っ掛けて転びそうになりつつもパタパタと台所へ戻って行った。

 絶品料理に舌鼓を打っていたのも束の間、俺はゆっくりと箸を置く。

 出来たての手料理を一口も味わわないのは失礼だと思ったし、何よりその好意自体はとてもありがたかったというのも事実。

 しかし、俺にはどうしても確認しなきゃいけないことがある。

 改めて整理しよう。

 俺は地元から上京してこのアパートで一人暮らしをしているしがない大学二年生である。

 両親以外に家族はいない、つまり弟や妹、姉や兄といった兄妹の類は存在していない。姉なら欲しいなぁとか今でも思わんでもない。理想としては背が高くて美人で巨乳で、出来たら一緒にお風……ごにょごにょ。

 ついでに言うと彼女いない歴=年齢である。……あ、ここは多少は見栄を張るべきだったかも。


「どうしたんですか、先輩?」

「ひとつ、訊いてもいいかな?」


 少女はぺたん、と最初に座っていた位置へ腰を下ろすとコックリと小さく頷いた。諸々の小さな所作も大変可愛らしい。


「何ですか? 私に答えられることなら、何でも聞いてください」

「…………君、誰?」


 ここまで何の変哲もなく日常的な光景をご披露してから言うのも大変申し訳ないのだが、驚くべきことに俺は彼女のことをこれっぽっちも知らない。

 知らないどころか、完全に初対面のはず。

 それなのに彼女は俺が目を覚ます前から台所に立ち、俺のための朝食を作ってくれていた。初対面で押し掛け女房されるような筋合いは無いし、そもそもそんなフラグ(、、、)を立てたような記憶も一切ない。


「私ですか? 私は凛です、相川凛って言います」


 それこそ聞き覚えのない名前だし、こんな可愛らしい女の子の名前なら否が応でも記憶に残るはず。

 大学の後輩?

 いやぁ、それこそ後輩にこんな白百合のように可憐な女の子がいれば否が応でも記憶に残るはずだし、親しげに話し掛けてくれるような女の子なら俺だって簡単に忘れたりはしない。


「えっと……じゃあ、凛ちゃん」

「はい」


 春の野に咲くタンポポのような無垢で明るい笑顔だが、その実彼女の行動そのものには少々疑問を抱かずにはいられない。


「何で俺の部屋にいるの?」

「何でって、先輩の朝ご飯作りに来たんですよ?」


 ニコッ、とこれまた混じり気のないピュア百パーセントな笑顔で答える。直視するのが少し辛いぐらいに眩しい。

 さて、彼女がここにいる理由は『俺の朝ご飯を作りに来た』ということらしいのだが、


「……俺、鍵かけ忘れてたっけかな」


 いくら一人暮らしの大学生とはいえど、玄関の鍵を施錠する程度の最低限の防犯意識はある。仮に窓から侵入するとしてもここはアパートの二階だし、何か物音がすれば気がつくようなものなのだが。


「鍵ならちゃんと持ってますよ。……ほら」


 そう言って彼女が差し出したのは――驚くべきことにこの部屋の鍵だった。

 まさかと思い、慌ててジーンズのポケットに手を伸ばしてみたがちゃんと硬い感触が返ってきた。


「……えっ?」

「そんなこと、今はどうでもいいじゃないですか。遠慮しないでもっと食べてくださいよ」

「いや、ちょっと待てって……!」


 寝起きでボケていた頭がいよいよ本格的に目覚め、ここに来てようやく事の重大さに気付く。

 目の前の可憐な少女にも、美味しい料理にも惑わされている場合ではない。

 内心は驚きや戸惑いで溢れつつもなるべく表には出さないようあくまで冷静に、今後の処遇など考えながら俺は改めて彼女と向かい合って話をしてみることにした。


「凛ちゃん……だっけ」

「凛って、呼び捨てにしてくれていいですよ?」

「それはまぁ、どうでもいいんだ。ってか何で俺の部屋の鍵を? それに俺、君とは初対面だよね?」

「私は先輩のことよく知ってます」

「いや、だから俺は君のことなんか……」


 相変わらずニコニコと笑顔を崩さず、それどころか彼女の笑みはピタリと張り付いてしまったかのように微動だにしない。


「先輩のことなら何でも知ってますよ、私。大学で経済学を専攻してて、映画評論のサークルで活動してますよね。好きな食べ物は意外と甘いモノで、男の人でお菓子が好きっていうのは可愛いと思います。そういえば、宮家通りの和菓子屋さんでよく羊羹を買ったりしてますよね。一昨日は店員のおばさんと仲良さそうにしてて、ちょっぴりヤキモチ焼いちゃいました。私にも、ああやって優しくしてほしいなぁ……なんて」

「ちょ……ちょちょっと待った待った!? 何でそんなプライベートなコトまで知ってるんだ? 誰から聞いたんだ?」


 そんな彼女の返答は、もはや薄ら寒ささえ感じる笑顔のみ。


「でもですね、先輩。何でも知ってる(、、、、、、、)私も昨日のヒトだけは知らないんです。……アレ、何だったんですか?」

「昨日のヒト……? えと、昨日って」


 昨日というと、前々から交流のあったサークルと合同で飲み会をしていたはず。

 元々お酒に強い性質ではないのだが、昨晩はその場のテンションに流され結構な量を飲んでいたような記憶がある。


「帰り道で、先輩に抱き付いてましたよね。アレ(、、)何だったんですか? 先輩には恋人なんていないのに、あんなコトしてるなんて」

「…………あ、あれは」


 相手サークルの先輩に『古宮玲花(こみやれいか)』さんという人がいる。

 彼女は俺が大学に入学して、今のサークルに所属してから知り合った一つ上の先輩で色々とお世話(深い意味は無い)になっている人だ。普段は落ち着いててキリッとした美人なのだが、何か一つでも変なスイッチが入ると色々とくだらない悪戯を企てる子供っぽい性格を垣間見せる。そんなギャップが魅力の彼女はサークル内外問わず人気の人物で、密かに俺の憧れの人でもある。


「先輩も隅に置けませんね。私がちょっと目を離した隙にあんなコトするなんて」


 ぷくーっと膨れる彼女の言葉を聞き、酒の所為で吹き飛んでいた記憶の一部がフラッシュバックして俺は頬が熱くなるのを感じていた。


(……そうだ、昨日の飲み会の帰り道で玲花さんに抱きつかれて…………き、キスされたんだ……)


 へべれけに酔い潰れた玲花さんを肩で担いで送っていた途中、何を思ったのか道端で突然猫のように飛び掛かってきて、受け止めた拍子に俺の頬に唇が触れたのだ。

 あの時の玲花さんの唇の柔らかい感触と、酔っ払った所為でトロンと蕩けた妙に熱っぽい眼差し。

 ……それと、非常に酒臭かったのを思い出す。


「あ、あれはただの事故……って、そんなの君には関係ないだろ? というか、見てたの?」

「見てましたし、関係大アリです。アレは先輩の何なんですか? ただのお友達ですか? 恋人ですか? 結婚を前提に、お付き合いしてたんですか? 答えてください」

「だから! 君には関係ないって――ッ」


 玲花さんの話題に触れた途端、少女の表情は急変し熱が一気に冷めていくのが分かる。

 食事が並ぶテーブルに両手を叩き付け、前のめりに俺を見つめ――いや、ほとんど睨みつけていた。可憐な少女の面影はほとんど失せていて、カッと開いた瞳には完全に怖気づいた俺の情けない姿が映り込んでいる。


「先輩に、あんなヒトは必要ありません。もっと先輩のことだけを見て、先輩のことだけを考える私の方が相応しいんです。あんなヒトに先輩なんか関わらせたくないし、触らせたくありません。汚れて、腐ってしまいますから」

「い、いったい君は何なんだ!? 別に俺と玲花さんのコトなんて関係ないだろ!? 見ず知らずの君に、どうしてそこまで」

「私、先輩のことが好きです」


 突如、彼女の頬に一筋の雫が零れたのを見て俺は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 鬼気迫るような表情から一転、今度はボロボロと大粒の涙を落とし、彼女はしゃくり上げながら言葉を紡いでいく。


「私は先輩のことが好きなんです。他の誰よりも、世界中の誰よりも先輩のことが好きです。あんなヒトに取られたくないんです。世界中の誰よりも、先輩のことを愛してるんです。だから、だから……」

「だ、だからって……なぁ……」


 詰まる所、彼女は何らかがきっかけで俺に好意を持っていてくれていて、玲花さんとキスしたのを目撃して感情が抑えられなくなり、俺の家に侵入して朝食を作り今に至る――ということだろうか。

 他に追求することが幾らでもあるだろうに、彼女の潤んだ瞳に見つめられた俺はそれらを溜息といっしょに吐き捨ててしまった。


「まぁ…………その、なんだ。気持ちは嬉しいけど不法侵入はよくないんじゃないか。俺だって、きちんと連絡とか貰えばやぶさかじゃ」

「だって……その…………は、恥ずかしいじゃないですか」


 絞り出すような声でそれだけ言うと、彼女は精一杯頬を赤らめてしゅんと小さく俯いてしまった。

 朝一番に侵入して台所に立っていたアグレッシブな女の子の台詞とは思えない。


「とりあえず今日のところは……」


 このままお帰りいただこうかと思って窓に視線を向けると、外は生憎の雨模様。

 雨の中を、それも女の子を一人で帰すのは何となく忍びない。幸いなことに雨脚はそこまで強くなかったので、しばらく様子を見ていれば止んでくれるかもしれない。


「嫌です。私、もっと先輩の傍に居たいんです。まだ帰りたくありません! ……傍に居たら、迷惑ですか?」

「へ? あ、いや……うぅん」


 可愛い女の子に「傍に居たら迷惑ですか?」と聞かれて「迷惑です」って即答出来る男は果たして本当にオトコ(、、、)なのだろうか。

 とはいえ今回は事情が事情だし、ここでハッキリと拒絶の意を示しておくべきである。


「……雨が止んだら、ちゃんと帰るんだよ」

「ありがとうございます! 大好きです、先輩ッ!」

「うおわぁッ?!」


 そんな拒絶の意なんてのは彼女の美貌の前に数秒で霧散して消え失せる。

 パァッと雲の切れ間から注ぐ陽光のような笑顔を浮かべた彼女は食事が並ぶテーブルを飛び越え、俺の胸元に向かって弾丸のような勢いで抱き付いてきた。


「んなッ……わ!? な、何もくっ付く必要はないだろ!? というか君は今立派な犯罪を犯しててだな」

「何言ってるんですか? 先輩だって、私の心を盗んじゃったんだから窃盗罪ですよ?」


 上手くない、決して上手くなんかないんだからね。

 俺に飛び付いてきた彼女は、まるで人に慣れた野良ネコみたいにその小さな身体をすりすりと押し当ててくる。密着して分かったのは、まず彼女は見た目に反してかなり大きかった(、、、、、)ということが一つと。

 それから、花のような果実のような甘ったるい香りが鼻をついた。

 女の子は良い匂いがすると専らの噂だが、仮にそれが香水の匂いだったとしてもこの至近距離だと少々キツいような気もする。……と思うのは贅沢か。

 それ自体はまぁ、決して悪い気はしない。

 けど、こんな状況を流されるままにアッサリと肯定してしまうのは男としてどうなのかと逡巡したりもするのだが。


「ちょちょ、離れ、っててば。動き辛いし、その……だな……」

「私の心も体も、ぜんぶぜーんぶ先輩のモノです。……私のハジメテ(、、、、)も、もらってくれますよね?」

「か、からかうなって!」


 白くて細い指先を俺の胸に突き立てながら、やけに艶っぽい笑みを浮かべて彼女は小さく舌舐めずり。

 笑ったり泣いたり、不意に激昂したかと思えば果ては誘惑して。

 まるで喜怒哀楽を詰め込んだ万華鏡のようにクルクルと移り変わる彼女の表情の豊かさに度肝を抜かれつつ、それでも懸命に一線(、、)だけは踏み違えないようにと気力だけでギリギリの状態で理性を踏み止まらせる。


「ダメ……ですか? 先輩の望むことなら、私どんなコトでも何だってしますよ?」


 彼女の指が俺のスーッと頬を滑り、ぴと、と唇に触れる。

 お互いの息遣いさえ触れ合うこの零距離に。

 エプロンの隙間から覗かせた、まだ何の汚れも知らないような柔肌。

 臨界寸前の意識が脳の中を濁流のように暴れ回っている。


「せ・ん・ぱ・い?」


 ――プツ。


 彼女の手の平に優しく押し倒されたその時、偶然俺の後頭部にテレビのリモコンがぶつかったらしく、その衝撃で画面が切り替わってワイドショーとニュースがごっちゃになった番組が映し出された。


『――った速報です。本日未明、○○区の路上で大学生と思われる女性の惨殺死体が発見されました――』


 事務的で無機質なニュースキャスターのその言葉を聞いた瞬間、俺は身体をハッと起こし画面に映し出された見出しに視線を無理やり動かした。


「○○区……って、近所じゃないか」


 誘惑を振り切るための話題反らしとしてはかなり強引かと思ったが、彼女は不満げな表情こそ浮かべたものの特に何も言わず俺の腕をぎゅっと握りしめて離さなかった。


『発見された女性は全身を鋭利な刃物のようなもので滅多刺しにされ即死。警察では身元の照合と犯人の捜索を――』

「…………」


 殺人事件だなんて聞いても普段は他人事と傍観するくせに、いざ事件現場が近所だったりすると急にその意識を改めるのはかなり現金だと思う。

 だが何故か、この時の俺は何とも言いようのない灰色の靄のような不安が胸の内に湧き起こっていた。


『ウチ散らかってて恥ずかしいからこの辺でいいよ。それとも何? おねーさんと一晩明かしちゃうぅ? ちゃぁんとゴムとか持ってんでしょうねぇ?』


 別れる直前に聞いた玲花さんの言葉が妙に遠く感じる。

 俺は寮まで送ると言ったのだが、あの人はそれをケラケラ笑いながら断って街灯の仄明かりの向こう側へ消えてしまった。

 惨殺された女子大生が玲花さんだと信じているわけではないがあくまで確認、確認のために声が聞きたいと思った。番組のコメンテーターがあるコトないコト適当に喋り始めたところで俺は枕元に置いてあった携帯電話に手を伸ばして――、


「あ……れ?」


 普段から目覚まし代わりにも使っているはずのガラケーの姿が忽然と消えていて俺は首を傾げた。起きた時に適当な場所にすっ飛ばしてしまったのだろうか。枕元はもちろんのこと、枕の下もテーブルの近くもパソコンを置いてある机の上も、思い付く場所すべてを探してみたのだが影も形もなかった。


「先輩? 何を探してるんですか?」

「携帯だよ。ガラケーで、いまいち緩くないゆるキャラのストラップのついた」

「あぁ、それならそうと言ってくださいよ」


 そう言って彼女がエプロンのポケットから取り出したのは――俺が探し求めている携帯電話だった。七年使い続けてボロボロになったカバーに、何処ぞの地方団体が世間のゆるキャラブームに一石投じたいだとか言って作らせた、目つきの悪いネコなんだか犬なんだか曖昧なデザインの生き物のストラップ。

 間違いなく俺の携帯電話、しかし何故か主である俺の手の中にではなく彼女の手の中に収まっていた。


「でも、携帯なんて何に使うんです? 今日はバイトお休みですし、授業もありませんよね?」

「な……なんで君が持ってるんだ? ……て、そんなのいいから早くこっちに渡して」

「誰に連絡するんですか?」

「いいから!」


 問答無用に伸ばした手は彼女の手にパシッと叩かれ携帯電話には届かず。

 彼女は携帯電話をぎゅっと胸の前に握り直すと、怯えたような表情でこちらを一瞥。


「……先輩、怖いです」

「そりゃ君が携帯電話を貸さないから……あぁ、ゴメン! でも本当に急いでるんだ!」


 ほとんど引っ手繰るようにして彼女から携帯電話を奪い、電話帳のメニューから『古宮 玲花』の名前を探し出して素早くコール。


 ――――、――――、――――、――――。


 呼び出し音だけが無情に耳朶を打ち、俺の心臓は凍りついた手で鷲掴みされたかのようにゾッと冷えていく。

 ……そうだ、たまたま手が離せないだけ。

 それか、買い物しようと街まで出かけたら、携帯電話を忘れて愉快な玲花さんってだけ。

 彼女が殺されたなどとは露にも思わない。

 ニュースで聞いた惨殺された女子大生が玲花さんであるわけがない。

 不安と言う名の靄を払うように、心の中で何度も何度も思考を振りかざす。

 早く、出てほしい。

 早く、声を聞かせてほしい。

 あっけらかんとした声で『ばーか。おねーさんがそんな簡単にくたばりますか』とか言ってほしい。


 ――――、――――、――――、――プツ。


 聞き間違いかと思うほど小さな音だったが、それを聞いた途端俺の心はホッと安堵した。


『も、もしもし! 玲花さんですか!? あの、えっと、今朝のニュース見てちょっと心配になってあの、俺も大袈裟かなぁと思ったけど。玲花さん、大丈夫で』

『……電話しても無駄ですよ。この人、もう死んでますから』

『……………………え?』


 スピーカー越しに聞こえているはずの声は何故かとても近くて、そして何故か先刻から聞き続けている少女の声と同じ声が響いている。

 恐る恐る――自分でも、何を恐れているのか分からないまま俺は視線をそっと彼女に動かす。

 彼女はニコリ、と微笑(わら)い。

 そして、見覚えのあるカタチのスマートフォンを床に放り投げた。


「何でアレに電話するんですか? 先輩の恋人じゃ、ないんでしょう?」


 パールホワイトカラーの極薄デザインの最新型の背面部には何故か、べったりと赤黒いシミが付着していて。

 それを見た途端、最悪のケースとして頭の末端に追いやっていた一つの妄 想(イメージ)が急に色濃く鮮明に浮かび上がっていった。


「……これ、玲花さんの携帯……だよな? どうして、君が?」


 まだ、それを認めるわけにはいかない。

 認めてしまったら、俺の中で何かが壊れてしまいそうで。


「その前に私の質問に答えてください先輩。どうして、アレに電話したんですか?」

「どうしてって、今のニュース聞いて心配になったからに決まってるだろ!? そんなコトもわ――」

「心配する必要なんてないじゃないですか。先輩の傍には私が居るんですから……ふふ」

「いい加減にしてくれよ!? 何なんだ君は!? 玲花さんに何を――」

「だって、先輩は私のモノでしょう?」


 俺の言葉と彼女の言葉にズレが生じ始めた瞬間。

 ふらり、と立ち上がった彼女は口の端を釣り上げながら表情を歪ませていく。


「私のモノを奪うヒトなんて邪魔じゃないですか。先輩だって、邪魔なゴミは捨てるでしょう?」

「なに……言って…………」

「安心してくださいね先輩。もう先輩が心を痛ませる必要なんてこれっぽっちも無いんですよ。だって――」


 焦点の定まっていないような虚ろな瞳で俺を見つめ、


「アレは、私が殺しましたから」


 彼女は背筋が凍りつきそうな言葉と共に歪んだ笑みを浮かべた。


「な……ぁあッ!?」


 絶句する俺を、まるでからかうかのように彼女はクスクスと微笑を漏らし再び俺の身体にすり寄ってくる。


「先輩は、ずーっと私だけを見てればいいんですよ。私は先輩を裏切ったりしませんし、先輩の言うコト何でも聞いちゃいますし、何でもしてあげますから」

「ふ……ふざけるなよ!? そんなの、冗談じゃない! 人を殺すとかそんな簡単に……お前も、いい加減人をからかうのやめろよ!?」

「からかってなんかないのに……ふふ」


 そう言うと彼女は余裕たっぷりな笑みを浮かべながらスッと立ち上がり、俺の目の前でゆっくりとエプロンの紐を解き始める。

 バサ、と音をたてて落ちたエプロンのその下に広がっていたソレを見て俺は「ヒッ」と情けない言葉を漏らしてしまった。


「そ……それ、は……」


 胸元から腰元までベッタリと埋め尽くす、赤と黒とが入り混じる不気味なシミの数々。

 彼女を包んでいた甘い芳香は夢か幻のように消え失せ、気がつけば吐き気を催すほどの血生臭さが俺の意識を蝕んでいく。


 ――コロシタノハ、カノジョダ。


「私はぁ、先輩にウソなんか吐きませんよぉ? アレは私が殺したんです。この手で、滅茶苦茶にしてあげたんです。……最後の最後まで煩かったから、少し疲れちゃいましたけど」


 手にした大振りの包丁を愛おしそうに、艶めかしく、彼女の舌が刃を這って付着した血痕を舐め取る。

 その時の彼女の表情は、ひどく愉しそうで――掠れた悲鳴をあげるだけで精一杯だった。


「う、ウソ……だろ!? ひと、殺し……って…………う、うわ、あぁ……ッ!?」


 完全に常識を逸脱し、狂気の沙汰に踏み入った殺人鬼が今、俺の目の前で殺人者がニコリと微笑う。

 何処かの誰かの血に塗れた包丁をゆらり、ゆらりとスローモーションに揺らしながら、彼女は俺の元へとにじり寄っていく。


「まだ、信じてくれてないみたい……ですね。困ったなぁ……どうやったら、信じてくれますか?」 


 いくら身体を動かそうとしても、彼女から放たれる圧迫感と恐怖に全身が竦んで凍りついてしまって、そんな俺に向かって一歩また一歩と二人の距離を詰めていく。

 逃げたいのに、逃げれない。

 いや、彼女はきっと――逃がす気なんてさらさら無い。


「そうだ、イイコトを思い付きましたよ先輩」


 血走った双眸を三日月のように細め、端正な顔をニンマリと歪ませた彼女は俺に向けてそっと包丁を突き出しこう告げた。


「アレと同じことを先輩にすればいいんです。何処から刺して、何処から斬って落として……って、全部再現するんです。そうすれば先輩だって信じてくれるでしょう?」

「ばッ、やめ――!!」

「最初は……“足”だったかなぁ」


 逆手に持ち変えた包丁の刃を――彼女は何の躊躇いも無しに俺の右太股に思い切り突き刺す。燃え上がるような痛みと鮮血が吹き上がり、床一面に紅色の飛沫をぶち撒ける。


「ッぁあああああああ!?」

「次は……えっと、たしか」


 鮮血を滴らせた刃を無情に振り上げ、ヒュッと風を切る音と同時に胸に鋭い熱が奔る。


「がはッあ!?」

「うふふふ…………ふふふ……」


 無抵抗に成すがまま、彼女が振るう凶刃は俺の身体を容赦なく切り裂き、突き刺し、返り血を浴びるたび彼女の顔は悦に浸るかのようにうっとりと惚けていく。


「ふふふ……先輩って、イイ匂いしますよねぇ……」


 血だらけの笑みを浮かべた彼女がゆっくりと俺の胸元に飛び込んでいく。

 彼女の言っている“イイ匂い”なんてモノは、掠れていく意識の俺には何のコトだかサッパリ分からなかった。


「誰よりも誰よりも……愛してますよぉ……せ・ん・ぱ・い」


 ブツッ、と刃が皮膚を突き破る音と。

 そしてぐしゃぐしゃに狂い咲いた彼女の笑み。


 ゾッとするほど甘過ぎる残り香に包まれながら、俺の意識は漆黒の向こう側へと落ちていった。

 ふと『ヤンデレ』が書きたいなと思って、何となーく書き進めてたら出来上がったお話です。

 何か感想なんかいただけたら嬉しいです。


 ところで……

 朝目を覚ましたらとっても可愛い女の子が朝ご飯を作ってくれていました。

 アナタなら……追い出します?(笑)

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