旅行は、波乱の始まり。⑶
少女は物心ついた時には独りぼっちだった。
両親の顔など記憶の片隅にすらない。
幼い記憶にあるのは大人たちの視線。
孤児院という檻の中でいくつもの視線を向けられていた。
その視線に愛情や温かみなどは存在せず異質なものを見る冷ややかな視線だった。
少女は喋らなかった、いついかなる時でも。
喋れなかったのかもしれないし、或いは元々喋ろうとしなかっただけなのかもしれない。
だが、それを知る術は周りの大人たちには無く、出来るのは少女へ冷たい視線を送ることだけだった。
「何なのかしらあの子…不気味よね」
「ホント…表情すら変わらないから何を考えてるのか分からないし」
「この間、同い年の子たちに虐められてたから止めてあげたんだけど、あの子ったら無言のまま何も無かったように平然とまた一人で遊び始めたのよ?」
少女は大人たちが自分を好いていないことを知っていた。
それだけでなく、同年代の子どもたちにも自分が浮いた存在として見られていることを知っていた。
それでも少女は弱音一つ漏らすことなく沈黙を貫いていた。
そんな生活を一変させる出来事が起こったのは少女が7歳を迎えてすぐのある日だった。
「ねー、君っていっつも独りだけど楽しいの?」
その言葉に少女は複雑なボックスパズルを解いていた手を止め顔を上げた。
そこには今まで少女が見たことのない表情を浮かべる少年がしゃがみこんで少女の様子を伺っていた。
少年の表情には嫌そうでも不気味そうでもなく、ただ少女への興味だけがあった。
彼の表情を見た少女は生まれて初めて動揺し、少年から視線を外した。
周囲のいたずらっ子たちに皮肉交じりにその言葉を浴びせられることはあってもこんなに不思議そうに声をかけられたことがなかったからである。
「なんでみんなと遊ばないの?」
今までどんな人間のいかなる言葉にも何も感じなかった少女の心が、初めて話したばかりの少年の一言でチクリと痛んだ。
だが、少女にそれを答える術は無かった。
少女が目を泳がせていると少年は更に質問を重ねてきた。
「なんで何も言わないの?」
少年のその言葉にトドメを刺された少女の目に感じた事のない熱いものがこみ上げ、少女の頰を濡らした。
少女は泣いていた、表情こそ変わらないが彼女は確かに泣いていた。
これまで大人たちに陰で不気味がられ、同い年の子どもたちに貶されていながら何も感じなかった少女。
しかし、ようやく少女は気付いた、何も感じなかったのではなく、無理やり感情を抑え込んでいたことを。
「なっ…なんで泣いてるの?ぼくのせい?」
突然、泣き始めてしまった少女を見て少年は慌てて尋ねる。
そこで初めて少女は少年の質問に答えた。
声を上げず弱々しく首を横に振ることで、君は悪くないと。
そんな涙の滲む少女の視界に一つのものが目に入った。
院の職員が落としていったのであろう、ボールペンだった。
少女は服の袖でグシグシと顔を拭うと、ボールペンを掴み、落ちていた画用紙に何か書き始めた。
「きみのせいじゃない」
少女は画用紙に何か書き終えるとそれを少年に見せた。
ところどころ涙で滲んでいるが、彼の質問への返答で間違いなかった。
少年も最初はキョトンとしていたが、すぐに安堵の表情を浮かべてホッと一息ついた。
「よかった…急に泣いちゃったからぼくのせいかなって」
「ううん。あたしがなきむしだから」
「はいこれ」
俯く少女の前に少年が自分の持っていたハンカチを差し出した。
それを見た少女は少年の方を向いて不思議そうな顔をしたが、そのまま少年が彼女の目元をハンカチで拭き始めた。
「泣かせちゃったから、ごめんね」
少年が少女の涙を拭き終えて離れると共に、彼女は先の少年の言葉を否定するように勢い良く首を横に振った。
「大丈夫…?僕の名前は晴信っていうんだ、君の名前は?」
「てるとら、あたしのなまえ」
「じゃあ輝虎、ぼくと友達になってよ!」
そう言って少年はニコッと笑いながら手を差し出した。
しかし、少女は素直に受けることができずにいた。
何故なら自分といることで彼にまで迷惑をかけてしまうのではないかと幼いながらにも気付いていたからである。
「すこしかんがえさせて」
そう言って少女は少年の申し出から逃げてしまった。
それから数日が経ち、少女は相変わらず独りで遊んでいた。
少年も他の子どもと遊んでいて少女の方には見向きもしていなかった。
少女は彼が自分と同じ目に遭わずに済むと思い安堵すると同時に言い様のない寂しさを感じていた。
そんな時、少女の目の前で水が弾け、彼女をずぶ濡れにすると共に完成しかけていた膨大なピースのジグソーパズルを吹き飛ばした。
「やーい、オバケーどっかいけー」
「オバケとか気持ちわるー」
「悔しかったら喋ってみろよー」
少女が声のする方へ目を向けると水風船を持ったいかにもいじめっ子といった様子の三人組の少年たちがニヤニヤしながら再び水風船を投げてきた。
その一投は少女の頭に命中し、水を被った彼女の身体は更にビショビショになってしまった。
「……」
少女は毎日の事に呆れる様子すら見せず、バラバラになってしまったジグソーパズルをかき集めて再び組み立て始めた。
ずぶ濡れの状態の少女が動じるそぶりを見せないと分かると、いじめっ子たちは声を上げる。
「無視すんなよー!」
「じゃあ、もう一個投げてやろうぜ!」
そう言ったいじめっ子の1人が水風船を掴み、頭上高々と振りかぶる。
その瞬間、パシャンッという音と共にいじめっ子の素っ頓狂な声が上がり、少女は思わず顔を上げた。
「男のくせに寄ってたかって女の子イジメるなよ!」
そこにいたのは、いじめっ子たちの後ろに立ち、水風船をいくつも持った赤髪の晴信少年だった。
「ヨッちゃん大丈夫かぁ⁉︎」
「なんだよお前、ジャマすんなよぉ!」
少年の奇襲を受け、ビショ濡れになってしまったいじめっ子の取り巻き達が口々に文句を言う。
しかし、少年はそれを意にも介さず切り返す。
「ジャマなんてしてないし、なんか面白そうなことやってるから混ぜてもらおうと思っただけだし」
その言葉を聞いて、ビショ濡れになり暫く惚けていた「ヨッちゃん」と呼ばれているいじめっ子がハッとした後、顔を真っ赤にして取り巻き達に命令した。
「むぅぅぅ!ケン、ヤスやっちまえ!」
「「あいあいさー!」」
そして、ケンとヤスは少年を挟むように陣取ると、少年に向けて同時に水風船を投げつけた。
しかし、少年はそれをしゃがんで器用に避けると、行き場を失った水風船は取り巻き達へとそれぞれ一直線に飛んでいき、当たって破裂、見事に2人をビショ濡れに変えた。
「うわーんっ!」
「おぼえてろー!」
「あっ、おいケン、ヤス!」
ビショ濡れになった取り巻きは泣き喚きながらどこかに走り去ってしまった。
その後ろ姿を呆然と立ち尽くしたまま見送っていたヨッちゃんだったが、「こんにゃろっ!」と振り向きざまに晴信へ水風船を投げつけた。
「よ、ほいっ」
晴信はそれを割らないように器用にキャッチすると投げ返す。
「ぴゃあ⁉︎」
まさか投げ返されると思っていなかったヨッちゃんは水風船をもろに顔面で受け止めて更にビショビショになってしまった。
「うぅ…いんちょせんせにいいつけてやるー!おぼえてろよー!」
「そりゃこっちのセリフだ」
「うひゃあ⁉︎うわぁぁぁんっ!」
敵わないと悟り脱兎のごとく逃げ出すヨッちゃんだったが、晴信はそんな背中に追い討ちのように水風船をお見舞いする。
三度ビショビショになったヨッちゃんはとうとう泣きながらどこかに行ってしまった。
「輝虎、だいじょうぶ?」
「へーき、いつものことだから」
そう言ってまたジグソーパズルに向かい始めた輝虎に晴信は少し悲しい気持ちを覚える。
どうしてこの子はこんなに何事も諦めてしまっているのか、そうか彼女には守ってくれる人がいないからだ。
その考えに行き着いてから晴信の口は自然に言葉を紡いでいた。
「ぼくが輝虎を守ってあげる」
「⁉︎」
その言葉を聞いた瞬間、顔を上げた彼女の表情は困惑と動揺が浮かんでいた。
毎日のように悪意を向けられることはあってもそんな言葉を言われたのは初めてだったからだ。
明らかに迷うようなそぶり、晴信はダメ押しとばかりにそれを口にした。
「だってぼくと輝虎は友達だから…友達は守らなきゃダメだから」
それを聞いた輝虎はキョトンと目を見開いていたが、すぐにその藍色の瞳いっぱいに涙を溜めてポロポロと嗚咽と共に零した。
「友達…だよね?」
改めて尋ねた晴信に輝虎は小さく頷いた。
「晴信くん、すぐに院長室に来なさい」
そこに現れた院長先生がビショ濡れで泣いている輝虎と水風船を抱えた晴信を見て、ハァ…と息を吐きながら晴信を呼び出した。
「あー…アイツほんとにいんちょうせんせにいったのか…しかたないや、輝虎すぐもどるから」
そう言って立ち上がろうとした晴信の服の裾を輝虎がキュッと掴んだ。
首を傾げる晴信に輝虎がスケッチブックに何かを書いて見せた。
「あたしもいく、いっしょにいんちょせんせにおこられる」
そんな必要はないと説き伏せようとした晴信だったが、彼女の強い意志を宿した瞳を見て、何かを言うのはムダだと感じたのか苦笑して手を差し伸べる。
「じゃあ、いっしょにきてくれる?」
それから時が流れ、経済上の理由で孤児院が閉鎖されることになった。
慣れ親しんだその建物の前に立ち少年と少女は出会った頃のことを思い返していた。
「色々あったけど、ここともお別れか。いざとなると寂しいもんだな」
「そうでもない。晴信がいっしょにいればへいき」
「嬉しいこと言ってくれるな」
少年が少女の頭をワシャワシャと撫でると無表情の中にもどことなく嬉しそうに目を細める。
そんな彼女に彼は尋ねる。
「輝虎、一緒に来てくれるか?」
「無意味な質問、晴信について行く、あのときから変わらない」
そして、少年少女は育った場所を背に新たな一歩を踏み出した。




