第8話 「……脱がすな」
眠りは泥のように。
夢は見なかった。
ただ、温もりにすがって夜を明かした。
「おはよう」
涼やかな声がすぐ真横でする。なんとなく苦しくて、身をよじる。なんだか動きづらい。
「……脱がすな」
何故か私の体操着をたくし上げようとしている漣。まだ頭がぼんやりしているが、最大級のジト目を送ってやる。
「……まさぐるな」
動きを変えればいいというものではない。ええい、胸を揉むな胸を。
とりあえずベッドから這い出し、縋る漣を思いっきり蹴り付けた。
「朝から激しいねぇ」
反射的に受け止めながら、漣が悪戯っぽく舌を出す。その背景が私や彼の部屋ではなく、西洋風の白い土壁であることに、軽い絶望と落胆を覚えた。
「顔洗ってくる」
風呂にも入りたいが、この世界では水浴びだろうか。魔法があるのだから、お湯の用意は手軽だと思いたい。とにかく、この宿舎を出よう。
「おはようござ……うわぷ」
私の腹の辺りに何かがぶつかり、慌てて受け止めた。
「ロクレアか。人の部屋に入る時はノックしたほうがいいな」
何故か我々よりも寝てなさそうな巫女少女は、ぶつかった私を華麗にスルーすると、漣の元へと駆け寄った。
「おはようございますっ! レン様」
寝起きの漣も大変よろしくない色気があるので、一般人にはオススメできないのだが、まあ、いいか。恋人と可憐な少女を個室に置き去りにするのもあまり気分のよいものではないが、それよりも身嗜みを整えたかった。
宿舎の洗面所はすぐに見つかった。井戸水を利用するためか、屋外だ。すれ違った神官が気軽に教えてくれた。どういう仕組みかは知らないが、言葉が通じると言うのは素晴らしいことだが、純西洋風の相手の口からスラスラと日本語が出てくるのは、デー○・スペクターが沢山居るようで落ち着かない。
そう言えば、化粧ポーチも鞄と一緒に向こうの世界にサヨナラしてきたな、と考えていると、誰かの気配を感じた。
「失礼、見かけぬ顔だが、名を訊いても?」
低めの良く通る声だ。眠気覚ましに思いっきり顔を水に浸していた私は、目を擦りながら、そういえば拭くものが無いことに気付いた。ジャージで、というのも些か気が咎める。
「よければ使うといい」
ぬれた手の上に、触り心地のよいタオルがかけられる。
「あ、どうもすみません」
ありがたく使わせていただこう。きちんと礼を伝えるために慌てて顔を拭き、見上げた先にはこれまた声からの想像通りな美形さんがおいでだった。金髪をざっくりと後ろに流し、意志の強そうな眉の下に、少し優しい眼。鼻筋は通り、唇は薄いが、形良く結ばれている。
「リオです。これ、有り難うございます。今度洗ってお返しいたします。神官の方ですか?」
聞きながら、多分違うんだろうな、とも思っていた。何より着ている服が明らかに聖職者ではない。紫を貴重とした貴族じみた装いに、金糸で縁取り。まるで宝塚の衣装のようだ。
「君が此度の勇者と共に召還されたという従者殿か。報告ではリオ殿も男性と聞いていたが……失礼、名乗りが遅れたね。私はカリウスだ」
おや、彼は私を女だと一発で見抜いたな。まあ、これだけ美形なら女遊びもさぞ激しかろう。漣も言っていたフェロモンとかで男女を見分けるのかもしれないな。
「私は男だなんて名乗ったつもりは無いんですけどね。周りが勝手に」
なんだか漣も訂正しなかったようだが、あれは面白がっていただけだと思われる。
「そうか。神の使途ともあろう者達が、神が招いた客人に何とも礼を失することよな」
この男、苦笑しても様になる。漣とは違うタイプの、雄の雰囲気を持つ美形だ。うちの恋人様を水辺の蘭のようなたおやかな美しさだとすると、カリウスは肉食獣の肢体の美しさ。
「これは、どちらにお返しすればいいでしょうか?」
そういえば、パイル地のタオルってこの世界では結構高いのではないだろうか。
「ああ、それには及ばぬ。従者殿に差し上げよう」
おや、もらってしまった。今後も使うだろうし、非常に有りがたい申し出なのだが。タダで何かをもらうというのは気が引ける。今度何かでお返ししなければ。
「カリウスさんは何をされている方なんです?」
濃紺の瞳が、一瞬揺れた。普通の人ならまず気付かないだろう逡巡。
「ちょっとした汚れ仕事と言うところか。誇れるような大層な身分ではない。またそのうち会うこともあるだろう」
それでは、と微笑し、カリウスが踵を返した。その一挙手一投足がまことに気障だ。
「朝ごはん、あるのかな」
残された私は、タオルを首にかけて考えた。この世界でも空は青く、雲間を縫った陽光が辺りを照らしている。
去り際のカリウスの楽しそうな顔は、あまり好きになれそうに無かった。