第2話 「ああ、君が嫌いな人の名前でいいよ」
「落ちて」いたのは数秒だったのか、それとももっとずっと長い時間だったのか。
急激に意識が覚醒し、私は上体を跳ね起こした。
「っと、危ないよリオ」
驚いた顔で私の頭突きから顎を守った漣に、小さく舌打ちしてみせる。
「ちょっ……今チってしなかった? しなかった?」
抗議しながらも、漣の目は楽しそうだ。
「……あのー」
「次は当てる」
「無理だね。他の誰かはともかく、リオは僕に不意打ちができない」
「どうして私限定?」
「あの……」
「僕がリオから注意をそらすなんてこと、たとえ下校途中に突然光に飲まれ、異世界トリップをして放り出されたってありえない。」
「あーはいはい、相変わらず残念なお脳だな。それと状況把握のための反復説明有り難う」
「すみませんが……」
「僕のことをそんな風に言うのもリオだけだよ。まあ、そこが良い所でもあるんだけどさ」
「あのー、少しこちらの話も聞いてくれませんか?」
「…………」
「…………」
「「あんただれ?」」
気付けば、じゃれ合っている私たちの傍らで、青い瞳が私を真っ直ぐに見上げていた。
「私はロクレアといいます。フォウンフォーブ神殿で託宣の巫女を務めております」
「エクレア?」
「クロレラ?」
エクレアが私、クロレラが漣だ。私の頭の中でチョコのかかったお菓子が急に緑の汁の味に変わり、嫌な唾が口を満たした。
しかし、聞き覚えの無い神殿の巫女様はエクレアもクロレラもご存じなかったのか、可愛らしい顔を軽く傾げただけで、話を続けた。
「昨夜、星の廻りがフォウンフォーブ様の御声を私に届けてくださいました。この場所に、我々を救う勇者様が現れる、と」
この場所、というロクレアの言葉に、ようやっと私は周囲を見渡す。
そこには、帰り慣れた通学路は存在しなかった。まあ、なんとなくそんな予感はしてたけど。
漣の白いカッターシャツが浮き上がるほど薄暗い森の中、私たちのすぐ横に、滾々と清水を吐き出す石造りの泉がある。
植物には詳しくないが、どうにも在来種には見えない草木と、巫女らしき少女のだぼっとした格好、そして西洋人に違いない目鼻立ちが、迷い込んだ世界を示唆していた。
「ロクレアさん、よければ、詳しい事情を教えて欲しいんだけど」
「ああ、いいよ。大体わかってるから。敵の名前と種類と数と場所、あと横槍入れてきそうな身内の名前だけ教えて」
一からの説明を求めた私の言葉にかぶせるように、漣が話す。
「え、あ……はい……」
あ、やっちゃった、と眉間をさする。私の前に割り込むように漣が顔を出したため、彼とロクレアは至近距離で見詰め合う形になってしまったのだ。この距離で蓮を見て、彼の美貌に呑まれなかった女を私は知らない。悔しいかな、私を含め。
「魔王の名前はわかっていません。ただ、強大な力を持った魔族だとしか。現在こちらに駐留している魔王の眷族はおおよそ千匹と言われています。ただし、使役している怪物や作り出した異形をあわせれば、その数十倍の規模があります。全てでは有りませんが、ほとんどは北のソルン山脈を根城としています……あと……」
熱に浮かされたように上ずった声で、ロクレアが一生懸命説明する。……おちたな。
「ああ、君が嫌いな人の名前でいいよ」
うっわ、こいつ大サービスだ。蕩けるような王子様ボイス。年端もいかない少女の耳元で囁くなこのロリコン。
「……宰相のサネク様です。軍部の味方で、フォウンフォーブ様への信仰の無い方です」
「有り難う、ロクレア。それで、僕らは今からどこへいけばいい?」
にっこり笑い、巫女のふわふわの金髪をぽんぽんと撫でる漣。
「まずは神殿へお越しくださいませ。司教様方にご紹介します」
まだ夢の中のような歩調で、ロクレアが歩き出す。恐らく、その頭の中には漣の微笑しか映っていないに違いない。
「リオ……リオ?」
そんな私も、どうにも環境に馴染めずぼんやりしていたようだ。そうだ。ここはどこなんだろう。
「リオってば……ごめん。怒ってる?」
怒る? 私が? 何に? 混乱はしてるけれど。ああ、やっぱりここは異世界なんだ。月が七つもある。落ち着かないな。
「リオ」
突然近づいた漣の声、抱きすくめられた背中。私は思考を中断し、ほう、と息をつく。
「ごめん。今は少しでも速やかに情報と味方が欲しかったんだ。次からは絶対にリオに相談無しに女の子に色目使ったりしないから」
小声の早口で告げられた言葉に、私はようやく、混乱と言うタグをつけてしまっていた感情を引きずり出した。
感情の本当の名前は、嫉妬。
「別にいい。それより、他にも色々聞いておいたほうがよかったんじゃないか?」
どうして私の前にわざわざ割り込んだのか、と尋ねれば、漣は私の真横に寄り添い、小声で解説を始める。
「まず、ここが僕らの知る世界じゃないことは、空見ればわかるよね。じゃあ、次に文明のレベル。ロクレアの服を見ると、汚れは無く清潔だけれど、機械で織られた布とは違う。装飾的なボタンは有るけれどジッパーは無い。靴も、マジックテープのようなものは無いし、子供靴なのに素材は皮。とすれば、大体14世紀くらいの文化だろう。彼女が見た目どおりの幼い少女だとすれば、そんな娘が一人で居ても危険が無い場所に僕らはいる。しかし彼女は『我々を救う』と言った。彼女らは何者かに襲われていると考えるのが妥当だ。そんな危険な世界に存在する安全な場所、とすれば、大きな権力か戦力をもった存在が、すぐ近くにある」
そこまで一気に喋り、漣は息をつく。
「だとすれば、放っておいても向こうから状況は説明してくれると思って。ここで聞いてもややこしそうなことは後回しにして、とりあえず気をつけなきゃいけない相手を聞いてみました」
にこりと笑い、私の頬に軽く口付けを落とす。
「……あとで撫でろ」
それくらいで許してやる。




