第1話 「……どうしてお前はいい匂いがするんだ……」
凡庸な少女が完璧超人な男性に一目惚れされ、戸惑いながらも愛を育む……という王道のストーリーがある。ハーレクインとも言う。
実際にそんな事は有り得ないから、皆砂糖を吐き出しそうな甘い展開に夢想するのだ。
だが、実際にそんな生き物に懸想されてみろ。面倒臭いことこの上ない。
成績は常に校内トップ。というより全国模試のランキングを全教科で総なめにしてみたり、趣味の片手間にやったという自由研究で大学から推薦指名が来たり、料理をさせれば女の私が泣きたくなるくらい器用で、総じてそんなタイプはスポーツが苦手なものだが、身体こそ小柄なものの、所属はバスケ部・テニス部・空手部の掛け持ち。いずれも全国大会レベルだ。
それが、櫛田 漣という男だ。
「リオ、もう終わった?」
そんな完璧超人は、私の返事も聞かずに道場の更衣室を開け放つ。頭脳は明晰だが、性格はまったくよろしくない。まあ、私も慣れたもので、防具からジャージへの着替えなど、肌をさらさずとも終えられる。ちなみにリオというのが私。フルネームは小俣 梨緒という。
「……なんだ、残念」
瞬きのたびに風を巻き起こすのではないかと錯覚するほどのまつげが並んだ双眸が、色気のカケラもない私を見て細められた。
「私以外が居たらどうするつもりだったんだ? 性犯罪者」
わざと辛辣な言葉を選ぶが、この程度でショックを受けるような男であれば私も苦労はしていない。
「未だにそういったことで問題が起きたことはないな」
そうなのだ。この男に迫りたいという女は居ても、覗かれて困るという女は私も見たことが無い。
まったく持って不愉快な存在だ。
「それにしても、梨緒、また逞しくなっちゃったんじゃないの?」
帰り支度を進める私を見やりながら、漣が呟く。
「ああ。そのうち覗き魔を縊り殺せるくらいには膂力をつけるつもりだからね」
洒落で力瘤でも見せてやろうかと思ったが、ヤツの眼前に差し出した腕は絡め取られ、やんわりと腕を組まれてしまう。無駄の無い洗練された動きだ。今の動きを、関節を支点に逆に行えば、男の腕だって容易く捻り上げることができるだろう。
「……どうしてお前はいい匂いがするんだ……」
引き寄せられた漣の髪からは、何ともいえない良い香が漂っていて、私は次に吐く毒気を抜かれてしまった。
「梨緒も良い匂いがするよ。愛し合ってる男女はお互いのフェロモンを芳香に感じるんだ。当然だね」
「くっ……」
自分から振ってしまった話題は、目の前の男に 世にも恥ずかしく料理されてしまった。
「嬉しいな。梨緒もそう感じてくれてるなら。ボクらの仲は安泰だね」
鼻歌を歌いながら私を引きずっていく少年は、夕日に照らされて思わず見ほれそうなほど美しい。
この完璧超人に性格意外でケチをつける点があるとすれば、それはその容姿が男性としては極めて優しすぎる点であろう。
制服を着ていればまだマシだが、私服で街を歩けば5分に1度は声をかけられる……男性に。
アイドルも裸足で逃げ出す美少女顔の悪魔。それがこの、櫛田 漣という男なのだ。
そうして私は今日もため息をつきながら、漣に引きずられていく。
傍から見れば羨ましい図なのかもしれないが、まあ、私も満更ではないから羨まれるべきなのかもしれない。
他愛も無い話をしながら夕暮れの家路につく。何の変哲も無い日常。まあ、傍らに日常ブレイカーがくっついてはいるが、それすらも私の日常となりつつあった。
夕焼けに感化され、諦めにも似た切なさを吐息に乗せたとき、突然漣が私を抱き寄せた。
「リオ!」
いつもは静かに微笑を浮かべ、キラキラとした粒子を振りまいている彼の表情が、今はガラにも無く引き締まり、鋭い視線は私の背後に注がれている。
「な……何だ?」
肩越しに振り返った先には、見たことのない光景が広がっていた。
夕焼けの朱に染まっていたはずの歩道が、私たちの周囲だけ、ガラスが割れたような亀裂を生じていた。
それはギシギシと耳障りな音を立てながら、徐々に大きくなっていく。
亀裂からは陽の光とは違う白い閃光が漏れ出しており、亀裂が穴になるに連れ、輝度を増していくようだった。
「割れる……リオ! 目を閉じて」
再び強く抱きしめられる。ああ、こんな女みたいな顔をして、こういう時ばかり男の顔を見せるから、私の腹の奥でこの男を求める因子が疼いてしまうのだ。と、状況を弁えずに乙女してみたりした。
そんな現実逃避の間にも、私たちを包む空間はどんどん光に満ちて行き、やがて何も見えなくなった。ただ、漣にしがみついた腕だけは、何があっても放すまいと誓う。
そして、意識が飛んだ。