『よう来たの〜恐竜王国屋台村』
序章 凍てつくリビング
敦賀の冬は、どこか湿っている。日本海から吹きつける湿った強い風が、重たく垂れ込め、街全体を冷え切らせていた。
その日の夜も、久保田家の食卓は冷ややかな静寂に包まれていた。
「……瑞稀、これ、税理士講座のパンフレット。机の上に置いておいたで、ちゃんと読んだんか」
父の祐司は、湯気の消えかけた味噌汁をすすりながら、視線も合わさずに言った。四十五歳。地元の税理士事務所を開業して十数年、真面目だけが取り柄のような男だった。
「見たけど。あたし、税理士なんてなる気ないって何回、言ったら分かるん? 普通に服飾系の専門学校か、東京の大学行きたいって言ってるやん」
高校一年生、十六歳の瑞稀は、箸を乱暴に置くと、不機嫌そうにスマートフォンの画面をスクロールした。
「東京なんかいってどうするんや。敦賀で税理士になれば食いっぱぐれはないんやざ。お父さんの事務所も継げるし、それが一番確実なんやから」
「自分の理想や押し付けんといてよ! もうお腹いっぱい」
瑞稀は立ち上がり、ドタバタと大きな音を立てて自分の部屋へ階段を駆け上がっていった。
「瑞稀! ……まったく、誰に似たんや。……遥斗、お前は社会保険労務士の資格、興味あるって言ってたな? お母さんの仕事、見学に来るか?」
母の麻美(四十三歳)が、今度は中学二年生の遥斗(十四歳)に矛先を向けた。麻美もまた、敦賀市内で社会保険労務士として独立しており、夫婦揃って士業という、世間から見れば「恵まれた家庭」の象徴のような家だった。
「……別に。僕、ゲームのクリエイターになりたいって言ったやん。社労士とか興味ないし」
遥斗はヘッドホンを首にかけたまま、ボソボソと呟き、自分の器をシンクに下げると、早足でリビングを去っていった。
残されたのは、夫婦二人だけだった。
「……ハァ。どいつもこいつも、親の苦労も知らんと」
「ほんとやね。私らがどんだけ苦労してこの立場作ったか、何も分かってないんやわ」
麻美は溜息をつき、手元のスマホに目を落とした。
2024年に北陸新幹線が敦賀まで延伸して以来、祐司の仕事は劇的に増えていた。金沢や東京への出張が頻繁になり、家にいる時間は激減した。麻美もまた顧客対応に追われ、夫婦の会話すら「連絡事項」だけに痩せ細っていた。
福井県は「幸福度ランキング日本一」だと、テレビや雑誌は誇らしげに報じる。しかし、この家に漂う空気は、幸福とは程遠い「冷めた同居生活」そのものだった。家族四人で同じ屋根の下に暮らしながら、心は遠く離れている。
子どもたちが小さかった頃、勝山市の恐竜博物館へ家族で何度も出かけた記憶がある。あの頃は、車内で瑞稀と遥斗が笑い転げ、祐司がハンドルを握り、麻美がおにぎりを口に運んでくれた。あの温かな時間は、今となっては幻のように遠い。
「そういえば、祐司さん。これ、何なん?」
麻美がテーブルの端に置かれた封筒を指さした。
「あ、それか。今日、取引先の社長から貰ったんや。大野市に新しくオープンした、宿泊施設付きの『屋台村』の無料招待券や。一泊四人分、屋台も食べ放題で温泉もあるらしい」
「大野? なんでまたわざわざ、この二月のクソ寒い時期に、特別豪雪地帯の大野なんかに行かなんのよ。雪で車が動かんくなったらどうするんよ?」
「僕もそう思ったんやけどな。期日も今月中やし、使わんと勿体ないやろ。普段でもな大人1人1万円で食べ放題・温泉付きやぞ。せっかくもらったから、今週末にでも行くか」
「はぁ? 私は仕事溜まっとるんやけど」
「子どもらも連れていくぞ。たまには家族で出かけるのも悪ないやろ」
会話はどこまでも無機質で、義理立てのような提案だった。
翌日、瑞稀と遥斗に伝えると、案の定、猛反発が起きた。
「はぁ!? 大野の雪深いとこなんて行きたくない! 友達とも約束あるし!」(瑞稀) 「僕も家でWi-Fi繋いで対戦ゲームしたい。寒いの嫌や」(遥斗)
「タダなんやから行くの! もったいないやろ!」
麻美の半ば強引な一言で、久保田家の「不本意な家族旅行」が決まった。
第一章 電波の消えた雪国
土曜日の朝、自家用車は敦賀を出発した。 国道を進むにつれ、車窓の風景は劇的に変化していった。敦賀のうっすらとした雪景色から、勝山、大野へと近づくにつれて、道路脇の雪壁は大人一人の身長を遥かに超え、周囲は圧倒的な白銀の世界へと飲み込まれていく。
車内は地獄のような静寂だった。瑞稀はイヤホンで音楽を聴きながらスマホを弄り、遥斗はタブレットで動画を見ている。夫婦も一言も交わさない。ただエンジンの重い回転音と、ワイパーが湿った雪を払う音だけが響いていた。
二時間ほど走り、車は大野市の山あいにひっそりと佇む施設に到着した。
『越前大野 レトロぬくもり屋台村&湯治宿』
木造建築の重厚な門構えには、赤提灯が雪の中にぽっかりと灯っていた。昭和の街並みを再現したような宿の入り口は、どこか懐かしく、そして幻想的だった。
しかし、フロントに足を踏み入れた瞬間、瑞稀の悲鳴が上がった。
「えっ……!? スマホ、預けるん!?」
フロントの若いスタッフが、穏やかな笑顔で木箱を差し出していた。
「はい。当施設は『日常を忘れる時間』をコンセプトにしておりますため、滞在中は緊急時以外のパソコン、タブレット、スマートフォンの使用を一切禁止させていただいております。チェックアウトまで、こちらの金庫でお預かりいたします」
「無理無理無理! マジで言ってるの!? インスタのストーリーズも更新できんし、友達からの連絡返せんやん!」 「僕も! 今日のイベントログインできんくなる!」
子どもたちの猛烈なブーイングがロビーに響き渡る。
「瑞稀、遥斗、いい加減にしねま! 決まりなんやから預けねま!」 麻美が苛立った声を張るが、自分自身も仕事のメールが確認できないことに焦りを隠せないでいた。
祐司も苦笑いしながら自分のスマホを木箱に入れた。 全員のデジタル機器が没収され、鍵がかけられた瞬間、家族四人の間に言いようのない「手持ち無沙汰」が訪れた。縋るべき画面を奪われ、視線の持っていき場がないのだ。
重い足取りで案内された客室は、広々とした畳の部屋だった。 驚いたことに、テレビすらない。その代わり、壁際の棚には昭和から平成初期の少女漫画や少年漫画、文庫本、そして昔懐かしいDVDやボードゲームがずらりと並んでいた。
「なにもない……マジでなにもないやん、ここ……」 瑞稀は畳の上にゴロンと横たわり、天井を見つめた。
「はぁ……暇すぎる……」 遥斗も手持ち無沙汰に部屋の隅に転がっていた『人生ゲーム』の箱を触っている。
「ほら、文句言わんと、温泉でも行ってきたらどうや? 温泉もサウナも使い放題なんやろ」 祐司が言い、家族は各自タオルを持って大浴場へと向かった。
第二章 赤提灯と湯気の魔法
温泉は、極上だった。 源泉掛け流しの湯はとろりとしており、露天風呂からは大野のしんしんと降る雪が見えた。
(……仕事のこと、考えんでもええんか)
祐司は一人、湯船に肩まで浸かりながら、深く息を吐いた。ここ数年、頭の中を占めていた数字や顧客の顔、新幹線のダイヤのことが、湯気とともにすーっと消えていくようだった。
男湯のサウナで、偶然にも遥斗と二人きりになった。 普段なら家で顔を合わせても「お帰り」「あぁ」程度の会話しかない。
「……遥斗、学校はどうや」 「……普通」 「そうか」
サウナ室の砂時計が静かに落ちる。
「……ゲームのクリエイター、なりたいんか」 祐司が尋ねると、遥斗は驚いたように顔を上げた。いつもなら「そんなもので食っていけるか」と一蹴されると思っていたからだ。
「……うん。僕、自分でストーリー考えて、世界観作るのが好きなんや。友達ともオンラインで遊ぶし」 「ほうか。……父さんはな、お前が社労士になれば安泰やと思ってたけど……ゲーム作るのも、大変な仕事なんやろな」 「……めっちゃプログラミングの勉強要るし、数学も出来んとあかん。簡単やないよ」 「そうか。勉強しとるんか。えらいな」
遥斗は少し照れくさそうに視線を泳がせ、「……水風呂行ってくる」とサウナを出て行った。ほんの数分だったが、二人の間の氷がわずかに溶けた瞬間だった。
風呂上がり、午後六時。 いよいよこの宿の目玉である「屋台村エリア」へと向かう。
一歩足を踏み入れた瞬間、四人は「うわぁ……」と声を漏らした。
そこは、吹抜けの大空間に作られた、昭和の映画セットのような街並みだった。 天井からは温かい色みの電球や赤提灯が何十個も吊り下げられ、雪の降る野外のような演出(人工の人工雪がちらついている)が施されている。
立ち込める香ばしい匂い。 「へい、いらっしゃい!」という威勢の良い声。
おでん屋の大きな四角い鍋からは出汁の湯気が立ち上り、焼き鳥屋からは炭火の煙とタレの香ばしい匂いが漂う。ラーメン屋、寿司屋、さらには奥の方に金魚すくい、射的、綿菓子、たこ焼きの屋台まで並んでいた。
「ここ、全部食べ放題なんか……?」遥斗が目を輝かせた。
「そうやよ。チケット見せれば、どの店で何回食べてもタダや。ほら、瑞稀も遥斗も、好きなもん食べてこねま!」祐司が言った。
「じゃあ、あたし、たこ焼きと綿菓子行ってくる!」 瑞稀の顔に、久しぶりに年相応の無邪気な笑顔が戻った。
「僕、ラーメンとおでん!」 遥斗も走っていった。
「ちょっと、瑞稀! 先にご飯食べねま!」 麻美が叫んだが、その表情は柔らかかった。
夫婦は、中央の大きな木製テーブルに座り、おでん屋から熱々の皿をもらってきた。 大根、厚揚げ、牛すじ、そして福井名物の「焼きちくわ」。出汁がしっかりと染み込んでいる。
「……美味しいな、これ」 麻美が出汁を一口すすり、ほっと息をついた。
「ほんとやな。敦賀の家で食べるのとは、なんか違うな」 祐司は冷えたビールを一口飲み、満足そうに目を細めた。
そこへ、両手に紙コップと皿を持った瑞稀と遥斗が戻ってきた。
「お父さん、見て! 射的でうまい棒10個当てた!」 遥斗が嬉しそうに戦利品を見せる。
「あたし、綿菓子自分で作らせてもらった! ほら、お母さんも食べる?」 瑞稀がピンク色の綿菓子をちぎって麻美の口に運んだ。
「甘っ! でも……美味しいわ。瑞稀、上手につくったねぇ」 麻美が目を細めて笑った。麻美がこんな風に笑うのを、祐司はいつ以来見ていないだろうと思った。
「ほら、お前らも座って食べねま。おでんもラーメンも取ってきたで」 四人は狭いテーブルを囲み、肩を寄せ合った。
熱々のラーメンをすする音。 「その焼き鳥、一本頂戴!」「ダメ、自分で行ってきねま!」という子どもたちの小競り合い。 「父さんにも一口頂戴」「えー、お父さんはおでん食べねま」という冗談。
スマートフォンという「壁」が消えたテーブルの上で、言葉が、笑顔が、湯気のように次々と溢れ出してきた。
第三章 雪夜の本音
お腹がいっぱいになり、射的や金魚すくいで一通り遊んだ後、四人は屋台村の隅にある小上がりの座敷席に移動した。そこには大きなこたつが置かれていた。
四人は吸い寄せられるようにこたつに潜り込んだ。
「あぁ〜……ぬくとい……」 瑞稀がこたつに深く潜り込み、声を漏らした。
「最高やな……家にもこたつ買えばいいのに」 遥斗がみかんを剥きながら言った。
「家やと掃除が大変なんやって」麻美が苦笑いする。
外は相変わらずの豪雪で、屋根を叩く雪の音がかすかに聞こえる。しかし、このこたつの中だけは、まるで別世界のように暖かかった。
静けさが訪れた。だが、それはいつもの嫌な静寂ではなく、心地よい沈黙だった。
「……ねえ、お父さん、お母さん」 瑞稀が、みかんの皮を見つめながら口を開いた。福井弁のイントネーションが、いつもよりずっと柔らかかった。
「……なに?」
「あたしな……やっぱり税理士にはなりたくないんやって。お父さんたちの仕事、凄いは思ってるよ? 忙しいのに私らを養ってくれて、感謝もしてる。でも……あたしは服とか、デザインのこと勉強したいんや。東京の大学行きたいって言ったのも、ただ遊びたいからやなくて、一番情報が集まる場所で挑戦してみたいんやって」
瑞稀の声は少し震えていた。いつもなら怒鳴り散らして自分の部屋へ逃げ込むはずの彼女が、まっすぐに親の目を見て話していた。
祐司と麻美は顔を見合わせた。
「……瑞稀」 麻美が優しく呼びかけた。
「私な、瑞稀が苦労するのが嫌やったんや。士業なら女性でも一生食べていけるし、安定してるやろ? 親として、一番安全な道を歩んでほしいって……それだけやったんやわ。でも……瑞稀の気持ち、ちゃんと聞いてなかったね。ごめんね」
「お母さん……」
祐司も深く頷いた。
「父さんもや。自分の事務所を継いでほしいっていうのは、ただの父さんのエゴやったかもしれん。……瑞稀、服飾でもデザインでも、本気でやりたいならやってみねま。応援するで」
瑞稀の目に、みるみる涙が溜まっていった。 「……ほんと? ほんとにいいん……?」
「おう。その代わり、生半可な気持ちじゃダメだぞ。しっかり勉強して、合格してみせねま」 「うん! うんっ! がんばる!」瑞稀は袖でゴシゴシと涙を拭いた。
その様子を見ていた遥斗が、ぽつりと呟いた。
「……僕も。ゲームクリエイターになりたい。社労士は嫌や。でも、数学とプログラミング、もっと勉強する。高校もそういう専門のコースがあるところ行きたい」
麻美は遥斗の頭を優しく撫でた。
「分かったわ。遥斗が本気なら、お母さんも応援する。……私ら、子どもたちの未来を自分たちの枠にはめ込もうとしすぎてたんやね。自分らが忙しいのを理由にして、あんたたちの本当の声、聞いてあげられてなかった」
「僕もや」祐司が言った。「新幹線が通ってから、仕事ばかりで家にいなくてごめんな。……久保田家は、ただの『同居人』みたいになってたな」
「ほんとやよ! お父さん、ずっと気難しそうな顔してさ!」瑞稀が鼻をすすりながら笑った。
「お母さんも、家でずっとカリカリして仕事の電話しとったやん」遥斗も乗っかる。
「む……それはごめんて。これからは家で仕事の話は減らすわ」麻美が降参するように手を上げた。
四人は顔を見合わせ、自然と笑いが弾けた。
「……なぁ、お父さん」瑞稀がこたつの中から手を出した。 「ん?」 「また……来ようよ。ここに」
「そうだな。夏休みにでも、また四人で来ようか」
「絶対やで! 今度は夏祭りの屋台村になってるかもだし!」 「僕、その時までに射的もっと練習しておく」
「約束な」
祐司はみかんを一口食べ、深く頷いた。
外の雪はまだ降り続いていたが、この小さなこたつの中には、間違いなく春のような温かい光が満ちていた。
最終章 ぬくもりを胸に
翌朝、雪は上がり、大野の街には美しい青空と、太陽に照らされて輝く白銀の世界が広がっていた。
チェックアウトの際、フロントで預けていたスマートフォンを受け取った。 画面には、仕事のメールや友人からのメッセージの通知が数十件溜まっていた。
しかし、不思議と誰も焦って画面を開こうとはしなかった。
瑞稀はスマホをバッグの奥に仕舞い込み、宿の庭にある雪だるまの写真を、自分の目だけに焼き付けるように眺めていた。遥斗もゲームのログインボーナスなどどうでもよさそうに、雪を丸めて投げて遊んでいる。
「……じゃあ、帰るか、敦賀に」 祐司が車のエンジンをかけた。
車内には、行きとは全く違う空気が流れていた。 音楽も動画も流れていない。けれど、誰も不機嫌ではなかった。
「お父さん、途中で勝山の恐竜博物館寄っていかん? 久しぶりに行きたいやん」 瑞稀が後部座席から言った。
「えっ、瑞稀、高校生にもなって恐竜なん?」遥斗がからかう。 「いいやん! 昔よく行ったやんか。遥斗なんかフクイラプトル見て泣いてたくせに!」 「泣いてないし!」
「ふふ、懐かしいねぇ。寄っていこか、祐司さん」 麻美が助手席から嬉しそうに祐司を見た。
「おう、よっしゃ。恐竜博物館寄って、美味しいおそば食べて帰るか!」
祐司はアクセルを踏み込んだ。 車は、雪晴れの眩しい道路を走り出した。
敦賀での日常に戻れば、また忙しい日々が始まり、壁にぶつかることもあるだろう。進路のことで悩む日も来るかもしれない。
けれど、もう大丈夫だという確信が、祐司の胸の中にはあった。 あの赤提灯の湯気の向こうで、自分たちは本当の「家族」に戻れたのだから。
雪国の温かい思い出をしっかりと胸に抱いて、四人を乗せた車は、新しい明日へとまっすぐに進んでいった。




