カサブランカダンディ マルセル・セルダンに捧げる愛の讃歌
これは単なる一人のボクサーの小伝ではない。フランス人の誰からも愛された世界ミドル級チャンピオン、マルセル・セルダンと魂を込めて彼を愛した悲劇の歌姫エディット・ピアフに捧げるレクイエムである。
一九一六年七月二十二日、仏領アルジェリア生まれのプロボクサー、マルセル・セルダンは、一九三四年のデビュー以来、モロッコのカサブランカを主戦場としてキャリアを重ね、『カサブランカの殴り屋』の異名を取った。頑強な体格からも伺えるとおり、桁外れのスタミナとタフネスを誇る好戦的なラフファイターで、一流のテクニシャンをも力でねじ伏せるさまは、まるで獲物に襲いかかる大型肉食獣のような殺気と迫力に満ちていた。
彼の活躍した一九三〇年代後半から四〇年代にかけてのミドル級は、トニー・ゼール、ロッキー・グラジアノ、ジェイク・ラモッタ、シュガー・レイ・ロビンソンといったボクシング史上でも有数のタフガイたちが凌ぎを削り合っていたが、打たれ強さとハートの強さにかけてはセルダンの右に出る者はいなかった。技術的にも戦術的にもこれといった特徴がない代わりに、並のボクサーなら間違いなくダウンしてしまうようなクリーンヒットを浴びても、ひるむどころかかえって闘争心に火がつき、その「倍返し」のようなラッシュで反撃するハートの強さがあったため、ハードパンチャーとの打撃戦で打ち負けるというようなことはまずなかった。
デビューから四十五連勝の後、一敗を挟んで二十三連勝、さらに一敗を挟んで三十九連勝と取りこぼしが少ないのは、苦戦していてもワンチャンスで形成を逆転してしまう集中力があったからだ。一撃必殺のパンチというより、集中砲火で相手をなぎ倒すタイプだけに、あっという間のワンパンチKO劇に比べると、セルダンの鬼気迫る怒涛のラッシュは、声援を送る観客との一体感を生むという意味において見応え満点だった。
リングの上では獰猛なセルダンも、一たびリングを降りると、ユーモラスな口調と屈託のない笑顔が魅力のナイスガイで、性格はいたって庶民的だった。
パリで売れっ子になると、眼疾で盲目同然になった幼馴染を、カサブランカからパリまで呼び寄せて治療を受けさせるなど、情にも厚く、誰からも愛された。
デビューから三年間負けなしのセルダンが初めてフランスのリングに登場したのは、一九三七年十月のことである。以来北アフリカからヨーロッパ各地を股にかけて戦い、一九三八年二月にはフランスウェルター級タイトル、一九三九年六月には欧州ウェルター級タイトルを獲得。当時流行していたハードボイルド映画の主人公にも通ずる、粋で渋みがかったルックスと男性的なファイトぶりで、たちまちパリっ児たちを虜にした。
第二次世界大戦中はパリ陥落に伴うしばらくのブランクの後、再び北アフリカに主戦場を移していたが、パリ解放とともにフランスに戻り、一九四五年十一月にはフランスミドル級王座に就いた。
ヨーロッパの無冠の帝王セルダンの名はやがてアメリカにも伝わることとなったが、戦後までほとんどその名を知られることがなかったのは、キャリアの大部分をアフリカで送っていたことによるもので、戦前まで八十七勝二敗(五十一KO)という素晴らしい戦績を残していながら世界ランキングにも入っていない。ちなみにこの二敗はいずれも反則による失格負けであり、実質的には無敗であった。
セルダンの全米デビューは一九四六年十二月六日、スポーツの殿堂MSGで行われたジョージ・エイブラムとの一戦である。エイブラムは元世界ミドル級王者のルー・ブロイラード、ビリー・スーズに勝ち、トニー・ゼールとの世界戦(判定負け)でも初回にダウンを奪ったこともある実力派だったが、セルダンの重戦車のような突進力を止めることは出来ず、セルダンの完勝だった。
この勝利で本場アメリカでの評価を決定的なものとしたセルダンに対し、エイブラムは二ヶ月後のシュガー・レイ・ロビンソンとの対戦で判定負けに退き、ミドル級タイトル争いから脱落したが、スプリット(二対一)の判定に憤慨した観客が一斉にロビンソンに対して大ブーイングを浴びせる一幕もあったほどの接戦だった。
一九四七年二月には欧州ミドル級王座を獲得。翌月にはMSGで今をときめくニューヨークきっての人気男ロッキー・グラジアノに二勝一敗と勝ち越しているハロルド・グリーンを二ラウンドでストップし、いよいよ世界ミドル級王座への道のりに立ち塞がる相手はいなくなったかに思われた。
ところが一九四八年五月二十三日にブリュッセルで行われた欧州ミドル級タイトル三度目の防衛戦で、稀に見る大番狂わせが起きた。これまでの一一五戦中、失格負けを除いては敗北の味を知らなかったセルダンが、地元ベルギーでは『ターザン』の愛称で知られる人気ボクサー、シリル・ドラノワに判定で敗れ去ったのである。
腰痛の悪化で練習もままならなかったというセルダンは動きが悪く、前半はドラノワの一方的リードを許していた。ようやく六ラウンドにドラノワからダウンを奪ったものの後が続かず、実質的な初黒星を喫してしまった。誇り高きセルダンは、ただちにリターンマッチを申し入れると、七月十日の再戦ではドラノワから四度のダウンを奪う快勝。二ヶ月後に迫ったトニー・ゼールとの世界戦に弾みをつけた。
一九四八年九月二十一日、ジャージーシティで行われた世界ミドル級タイトルマッチは、フランス人初の世界ミドル級王座を目指すヨーロッパ随一の人気ボクサーに対する注目度もさることながら、かつてジャック・デンプシーとの世紀の一戦で全米中を沸かせたフランスボクシング界最大のスター、ジョルジュ・カルパンティエがセルダンのトレーニングキャンプを訪れて軽いスパーを演じるサプライズなどもあって、前評判は上々だった。
試合の賭け率はグラジアノとのラバーマッチに完勝したゼールの強打を買う声が多く、二対一でゼール有利。ゼール自身も「七ラウンドまでにKOする」と自信のほどを覗かせていた。
試合は予想通り序盤から派手な打ち合いとなった。グラジアノばりの荒っぽいファイターであるセルダンが、中間距離からでも腰の入った左右フックを振り回してくるのに対し、ゼールはジャブと右アッパーでガードを下げさせてからタメの効いた左フックを叩き込むというお馴染みのスタイルで迎え撃つが、グラジアノと唯一勝手が違ったのは、セルダンはダッキングが巧みなうえ、右を出した後にガードポジションに戻すのが素早いため、得意の左がなかなか命中しないことであった。
四ラウンドに入ってようやくゼールの左がセルダンの動きを止める場面も見られるようになったが、そこからの回復力が驚異的で、回を追うごとにセルダンの圧力が次第にゼールの手数を少なくしていった。
十ラウンドに入るとゼールに明らかに疲れが見えてきた。それもそのはず、戦後のゼールはグラジアノとの二戦目にKOで敗れた以外の十六試合全てを六ラウンド以内のKOで片付けており、七ラウンド以上のファイトは六年前のビリー・コン戦にまで遡るからだ。世界タイトルを握って以来、ほとんどの試合を早いラウンドで終わらせてきたゼールは三十五歳という年齢も省みず、無尽蔵のスタミナを誇るセルダンとの打ち合いに応じたことでペース配分を狂わせてしまったのだ。
十一ラウンド、相変わらずガンガンと攻め立ててくるセルダンに対し、ゼールはせいぜい単発のパンチを返すだけで、あとはクリンチで凌ぐのがやっとという状態。ロープ際でのもみ合いの最中にセルダンの左フックがゼールのチンを打ち抜いたのはラウンドの残り時間一秒のところだった。ゴングと同時に身体を硬直させたゼールが膝から前のめりに倒れてくるところをレフェリーのキャバリエが支えると、ゼールのコーナーからトレーナー達が一斉に飛び出し、半ば失神状態のゼールを何とかコーナーまで引きずってきたが、もはや十二ラウンドのゴングに応じることは出来なかった。
パリの街ではセルダン勝利の朗報が届くや、深夜にもかかわらず一斉にイルミネーションを点燈させ、街中が喜びに湧き返ったという。
この試合は『リング』誌選出の一九四八年度最高試合に選ばれたが、その前の一九四六年度、一九四七年度ともにゼール対グラジアノの一戦が選ばれており、ゼールにとっては自身の出場した試合が三年連続で最高の評価を得たことになる。ちなみに一九四五年度はグラジアノ対コクラン戦が選出されており、いかにこの時期のミドル級は層が厚く人気選手が揃っていたかがわかる。実際人気面でも、ジョー・ルイスの独り舞台の感があったヘビー級を凌いでいた。
フランスに歴史上初めて世界ミドル級タイトルを持ち帰ったセルダンは、一躍時の人となった。翌年にはロンドンで英国ミドル級王者ディック・ターピンをKOした他、第二の故郷カサブランカでの凱旋試合もKOで飾るなど相変わらずの無敵ぶりを発揮する一方、主演映画も封切られ、芸能界でも人気者となったが、この時期最も世間の注目を浴びた話題は、何と言っても『フランスの歌姫』エディット・ピアフとの恋であろう。
セルダンより一つ年上のピアフは、世界的大ヒット曲『バラ色の人生(一九四五)』などで知られるシャンソン界の女王だった。二人の出会いは一九四八年の夏、セルダンがふらりと立ち寄ったモンマルトルの『クラブ・デ・サンク』で歌っていたのがピアフだった。ピアフはかつて未婚のまま産み、その二年後に亡くした愛児マルセルと同じ名前のボクサーとの恋におちた。
セルダンには妻子がいたが、国民性なのか、フランス国民の多くはこの世紀のカップルを暖かく見守り、その恋愛が成就することを願った。
セルダンの初防衛戦は一九四九年六月十六日にデトロイトのブリッグススタジアムで行われた。挑戦者のジェイク・ラモッタは、ゼールのような一発はない代わりに執拗な連打で相手を次第に戦意喪失に追い込んでゆくタイプのボクサーで、フィジカル面メンタル面のタフさも含めてセルダンとの共通点も少なくない。それでも賭け率が二対一でセルダン有利と出たのは、ラモッタには試合ムラがあり、大物喰いの反面、格下に不覚を取ることがあったからだ。とはいえ、世界タイトルはかつてその挑戦権を餌に近づいてきたギャングと組んで八百長に魔で手を染めたことのあるラモッタにとって、やっとつかんだ千載一遇のチャンスである。この夜のラモッタはいつになく闘争心旺盛で、まさにその綽名の通り『レイジングブル(怒れる牡牛)』そのものだった。
最初に仕掛けてきたのはラモッタの方だった。一ラウンドからまるで最終ラウンドのように攻め立ててくるラモッタのラッシングパワーの前にはさすがのセルダンもたじたじの様子だったが、身体がほぐれてきた二ラウンドからは逆襲に転じ、五ラウンドまではほぼ互角の打ち合いに終始した。
六ラウンド、セルダンに異変が生じた。全く左が出なくなったのである。これは一ラウンドにクリンチを振りほどこうとするラモッタからキャンバスに投げ飛ばされた時に左肩を打撲したことによるもので、このラウンドにはもはやジャブさえ出せない状態だった。そのことを知ってか知らずか、ラモッタは執拗にボディを狙ってくる。すでにブロックの役割しか果たせていない左を下げさせようというのだが、連打の回転の速さのわりにはパンチ力に乏しいため、セルダンのガードは下がらない。
セルダンは右一本でもヘッドスリップやアームブロックで勢いに乗るラモッタの連打を巧みにかわしていたが、いかんせん攻撃が右のロングフックだけでは簡単に相手に見切られてしまい次第に打つ手がなくなってきた。もはや形勢の逆転は不可能と踏んだセコンドが九ラウンド終了と同時に棄権を申し入れた。
負傷TKO負けというふがいない結果に大きくプライドを傷つけられた前王者は、すぐさま再戦を希望した。一方の新王者も、真の決着をつけるべく三ヶ月後の再戦を快く承諾した。
というのも、ラモッタの勝利は「セルダンの偶発的な負傷によるタナボタ」という見方も少なくなかったうえ、一部の専門家からも「腕一本のセルダンを倒せないようでは腕二本のセルダンに勝てるはずがない」といいう辛辣な評価しか得られなかったからである。
確かにラモッタはゼールやグラジアノのような一撃必殺の強打者ではない。それでも片腕のセルダンにあれほど手を焼いたのは、自身も序盤に左中指の付け根を負傷しており、左がほとんど手打ちになっていたからである。事実、試合直後のラモッタの左中指はかなり腫れ上がっていた。
再戦は当初九月二十八日にニューヨークで行われる予定だった。ところが試合の六日前にラモッタが肩を負傷したため、十二月二日へ延期となった。この事がフランスの英雄の運命を変え、シャンソンの歴史を変えた。
「勝つか、死ぬかだ」悲壮な決意を胸にセルダンは早めのキャンプインのため、十月二十七日にニューヨーク行きのエールフランス機に搭乗する。ラガーディア空港には一足先にコンサートのためニューヨーク入りしていたエディット・ピアフと彼女の親友であるマレーネ・ディートリヒが出迎えに来るはずだった。
しかし、セルダンを乗せたエールフランス機は北大西洋アゾレス諸島上空で消息を絶ち、フランスの英雄は不帰の客となった。同じ機にはフランスが世界に誇るバイオリニスト、ジネット・ヌブーも同乗しており、後日、愛器ストラディバリウスを抱いた彼の遺体が発見されたが、セルダンの遺体はついに上がらなかった(享年三十三歳)。
セルダンの死の翌年、稀代の拳雄に手向けられた一曲のシャンソンが世界中の人々の涙を誘った。
その曲の名は『愛の賛歌』。現在までシャンソン史上屈指の名曲として歌い継がれてきたピアフの代表作である。
作詞エディット・ピアフ、作曲マルグリット・モノーによるこの曲にはピアフの自身の苦難の半生と狂熱的な愛情が散りばめられた一種独特の世界観が表現されており、レコードのリリースも一九五〇年五月だったことから、一般的にセルダンに対する哀悼歌と見なされることが多いが、実際はセルダンの生前に完成しており、一九四九年九月十四日にニューヨークのキャバレー『ヴェルサイユ』で歌ったのが最初である。
それでもセルダンに対する常軌を逸した愛情がつづられていることは事実であり、録音は事故死後のことであったため、亡き愛人への思いを情感たっぷりに歌い上げるピアフ畢生の名唱に多くの人が心を動かされたのである。
ピアフはその後自暴自棄な人生を送り、慌しくセルダンのもとへと旅立っていったが(享年四十七歳)、セルダンの遺児、マルセル・セルダン・ジュニアが一九六〇年四月にアマチュアボクサーとして初めてリングに上がった時には、セルダン未亡人のマリネットと並んでリングサイドで観戦する姿が目撃されている。
一九六五年にプロに転向したセルダン・ジュニアは父と並ぶ四十五連勝を記録するなど、一時は世界ランキングを賑わす活躍ぶりだったが(最高位世界九位)、結局は無冠のままリングを去った。
セルダンとピアフの魂は、不朽の名曲『愛の讃歌』の中で永遠に輝き続ける。
読後にはセルダンとピアフのポートレート(画像)でも眺めながら『愛の讃歌』を聴いていただきたいです。ちょうどお盆でもあるので、良い供養になると思います。