対潜捕鯨船団の奮闘
久々の「サムライー日本海兵隊史」シリーズの外伝の投稿になります。
その為に設定を知らない方が、多々おられると考えるので、少しこの世界の説明を。
この世界では、戊辰戦争の際の旧幕府艦隊の北航は起こっておらず、その為に五稜郭の戦い等は起こりませんでした。
その一方で、旧幕府関係者は史実よりも海軍内部で力を持つことになり、密かに旧徳川家等を護る為に海軍内で海兵隊を存続させ、又、屯田兵も海兵隊の傘下に置くことに成功します。
そして、海兵隊は史実とほぼ同様に起きた西南戦争等で偉功を挙げ、確固たる地位を築きます。
更に説明を端折りますが、その後のバタフライ効果から、日露戦争後の満鉄は日米共同経営となり、第一次世界大戦で日本は欧州派兵を行う等の事態が起きて、韓国は親日米の独立国として存続します。
そう言った様々な事態が起きたことから、この世界の第二次世界大戦は、独ソ中対米英日仏伊満韓という大戦争になり、ソ連崩壊等が起きた末に終結することになりました。
そして、第二次世界大戦後に起こったエピソードの一つになります。
「よし、出航するぞ」
「はい」
船長の私の言葉に、東京水産大学を出たばかりの新採用の三等航海士が張り切って応答する。
「良い声だ。その声に応えて、良い鯨が獲れれば良いな」
私の言葉に、周囲の乗組員まで含めた笑い声が上がる。
「それにしても新造された捕鯨母船を中心に、16隻の捕鯨船が円陣を事実上は組んでいこうか。かつての戦争、第二次世界大戦のときを、どうしても自分は思い起こすな」
「言われてみれば、その通りですな。捕鯨母船ならぬ輸送船の数は比較にならない程、多かったですが」
「だろう」
その場にいる一等航海士がしみじみと言い、その言葉に実戦経験のある面々が無言で肯く。
「それにこの捕鯨船や周囲の捕鯨船全てが、元を糺せば海防艦だったから、尚更だな」
「全くですね」
共に海軍予備員で士官資格を持ち、又、実戦経験のある私と一等航海士が更に言うのを、三等航海士は不思議そうな顔をして聞き、私達に尋ねて来た。
「この捕鯨船は、元は海防艦だったのですか」
その言葉を聞いた私は、(実際の行動には出さなかったが)頭を抱え込んだ。
幾ら第二次世界大戦終結から10年近く経つとはいえ、更にこの捕鯨船が海防艦から転用されたのは5年程も前になるが、それ位は調べるというか、知っておいてくれ。
更に言えば、東京水産大学を出ているお前は、海軍予備員で士官資格もある身だろうが。
そうしたことから、周囲の雰囲気までが、微妙になり出した。
「全くある程度は、自分が乗り組む船の略歴を調べておけ。周りの雰囲気を壊すもとだ」
私は少し小言を言ってから、三等航海士にこの船(及び周囲の捕鯨船)の略歴を話しだした。
私達が乗っている「第一大山丸」だが、この大山丸は全部で第十六まで、全部で16隻の捕鯨船の集団となっており、第二次世界大戦終結に伴って建造された日本最大の捕鯨母船である「大鯨丸」と共に捕鯨船団を構成している。
更に言えば、この16隻の捕鯨船は訳アリもいいところだった。
もとを糺せば、韓国の海防艦だったのを、武装撤去の上で払い下げを受けて、捕鯨船になったのだ。
もっとも、これが本来の姿、ともいえるのが、何とも皮肉なことだった。
そもそも論を言い出せばになるが、第二次世界大戦の危機が迫りつつある中、英国は局地防衛用の沿岸警備艇の整備計画を立案した。
とはいえ、こういった船を平時から大量に整備するのは、予算面等で問題がある。
だから、戦争の危機が迫ったら、速やかに建造しようということになり、取りあえずと言っては、言葉が悪いが、様々な設計案がまずは造られることになった。
そうした中で取り上げられたのが、漁船といえるトロール船や捕鯨船を参考にして、軍艦を建造してはどうか、という提案だった。
実際問題として大戦に突入すれば、これまで軍艦を建造して来た造船所以外、漁船等の民間船舶を建造していた造船所でも軍艦を建造できるようになれば、急速に軍艦を増強できる。
そうしたことからすれば、極めて合理的な主張と言えた。
こうしたことから、英国は捕鯨船を参考にして、フラワー級コルベットを設計、建造した。
又、余談だが、トロール船を参考にして、武装哨戒トローラーとしてツリー型トローラー等を設計、建造もしたのだ。
さて、こうした状況に、日本海軍は極めて冷淡だった。
沿岸警備艇は航続距離が短い等の欠点があり、長大な太平洋航路を守るのには向かない。
更に日本近海は言うまでもないが、英国沿岸部よりも荒天の危険が高い。
捕鯨船やトロール船を参考にした軍艦を造るよりも、ある程度は大型で航続距離があり、荒天に耐えられる軍艦(最も日本海軍にしても戦力の急速な増強の為に、短期間で建造できる等の配慮はしている)を戦時には増強すべきだ、という判断をしていたのだ。
そして、1939年に第二次世界大戦が勃発して、日本は米英等と共に独ソ等と戦うことになったのだが、想わぬ国からの支援要請に頭を痛めることになった。
韓国が、ソ連太平洋艦隊の潜水艦の沿岸航路襲撃に悲鳴を上げたのだ。
とはいえ、日本海軍にしても、自国の通商路防衛が最優先で、韓国の沿岸航路防衛となると、手に余る話で、自分の国は自分の力で守れ、と突き放した。
だが、それだけでは日韓関係の悪化につながってしまう。
そこに介入、仲裁したのが、同盟国の英国だった。
英国のフラワー級コルベットの設計図等を日本政府に提供して、それに基づいて日本の民間造船所が建造して、それを韓国に提供してはどうか、と提案したのだ。
確かに、そうすれば、韓国海軍は対潜用の艦艇を入手できるし、日本としても、韓国にそれなりの恩を売れることになる。
又、英国から大型レシプロ蒸気機関製造のノウハウ等が得られるということから、日本の財界も乗り気になった。
こうしたことから、韓国に提供するための海防艦が、日本で建造されることになった。
尚、対ソ戦の推移から、最初は24隻が建造、提供される予定だったが、18隻が建造、提供されるに止まった。
又、18隻中2隻が対潜戦闘によって失われる一方、日本海軍や自国の航空隊との共同戦果ではあるが、3隻のソ連潜水艦を仕留めており、それなりの戦果を挙げてもいる。
そして、1943年に第二次世界大戦は終わったのだが。
当たり前のことだが、大量に抱え込んだ様々な余剰兵器の処分に各国政府は頭を抱え込んだ。
それなりに性能の良い代物は、そのまま保有することにしたし、場合によっては、アジアや中南米等の諸外国が買い取ってもくれたが。
そして、韓国が保有したこのような海防艦に、良い買い手が付く訳がなかったのだ。
何しろ必要最低限の対潜能力があれば良いとして、割り切って建造された代物だ。
平時に保有する軍艦としてみれば、低速で小型だし、対潜戦闘にほぼ特化した軍艦だ。
(一応、艦砲や対空機関砲を備えてはいるので、全く対水上艦戦闘や対空戦闘で無力ではないが)
機関も大型とはいえ、旧式と言えるレシプロ蒸気機関なのだ。
何処に取り得があるといえるの?と買い手から言われてしまう。
英米日のような国だったら、関係諸国に押し売りすることもできたが、韓国にそんな手は使えない。
かといって、単に海没処分等したら、税金を海に捨てるのか、と戦後不況に苦しむ国民の怒りを買うのが目に見えているし、単に予備艦として保管するにしても、それなりに整備費用が常に掛かるのだ。
(潮風に常に軍艦が晒される以上船体等が自然に傷むのは、当然のことといって良いし、幾ら予備艦とはいえ、自国の軍艦に錆が浮かんだりするのは、それこそ恥を晒すことである)
スクラップで売ることも検討されたが、スクラップにする費用の方が高くつくとして、誰も相手にしてくれないような状況で、韓国政府は頭を抱え込んだ。
そうした中で、韓国政府に飛び込んできた情報が、建造途中だった海防艦6隻が、民間会社が捕鯨船として買い取ることで建造続行ということになり、捕鯨船として使われた結果、それなりに高評価をうけているということだった。
更に日本の水産業界では、この捕鯨船を更に建造する動きがあるとの情報まで飛び込んできた。
韓国政府は、この情報を得たことから、日本の水産業界、具体的には大洋漁業に対して、海防艦16隻を捕鯨船とすることでの買取りを打診した。
勿論、民間に提供する以上、武装は完全撤去されることになる。
だが、韓国政府にしてみれば、武装だけを保管するのなら費用は低廉になるし、いざとなれば、処分しても、国民からの反発は低くて済むだろう。
一方、日本の水産業界にしてみれば、中古船ではあるが、建造されたのが1940年である以上、建造されてからまだ5年程で充分に新しいと言える船が手に入ることになるのだ。
ここに双方の利害は一致し、韓国の海防艦16隻は、日本で捕鯨船としての余生を送ることになった。
そして、この捕鯨船には第一大山丸等の名が新しく与えられることになった。
更に言えば、当然のことながら、新規に捕鯨船を建造するよりも安く、更にすぐに入手できたことから、大洋漁業は第二次世界大戦でソ連潜水艦の攻撃によって失われていた第二日新丸の代わりに、「大鯨丸」の建造が出来ることにもなったのだ。
「大鯨丸」はこれまでの日本の捕鯨母船では1隻単独ではできなかった、鯨肉の冷凍や塩蔵が1隻で出来るようになった画期的な新型の大型捕鯨母船だった。
鯨肉を日本の食卓に安く大量に届けたい、そうした想いから、大洋漁業の社内では建造が構想されていたが、捕鯨船を優先すべきことや建造費用面から数年先になるやも、とまで言われていた。
だが、そうした建造費用等の問題は、韓国から海防艦16隻の売却を受けたことから、解決することになり、速やかに捕鯨母船が建造がされた結果、ここに大鯨丸が竣工して、捕鯨の為に赴くことになった。
更にその周りを、かつての海防艦16隻が、捕鯨船として取り巻くことになったのだ。
私は、そういったことを三等航海士に語って聞かせた。
その言葉を聞いた面々、中でも実戦経験のある面々の中には、涙を浮かべる者までいた。
この場に居る実戦経験者の殆どが、海防艦等の護衛艦や輸送船に乗り込んで、あの戦争中を過ごしたのだ。
少なからぬ犠牲者が出て、同僚や上官、部下達が戦死傷するのを実際に見聞きしたのだ。
共に列を組んだ僚艦や船が攻撃を受け、沈んでいくのを見た者も、私を含めて何人もこの場に居る。
私自身が話をするうちに、その頃を思い起こして、涙を少し零した。
私の話を聞き終えた三等航海士は、改めて海軍式の敬礼を私に対して行いながら言った。
「この船のことを知らずに、大変に失礼なことを、船長や皆様に申し上げました。真にすみません」
「分かってくれたのなら良い」
三等航海士の言葉に満足し、私はそう言った後に付け加えた。
「さて、潜水艦狩りではなく、鯨狩りのために行くか。平和は良いな」
「はい。ですが、南極海に赴くまでが地獄になりそうですよ」
「確かにな。ま、何時ものことだ」
一等航海士の言葉に肯きながら、私は言った。
「吠える40度、狂う50度、絶叫する60度」
と、船員仲間では謳われている暴風と大波浪の壁が、南極海に赴くまでには立ちはだかっているのだ。
三等航海士がどんな目に遭うだろうか、そんな想いが私の脳裏に浮かぶ。
だが、少なくとも戦時中の海を航海するよりも、遥かに安全なのは間違いない。
そんな会話を交わした後、私達の捕鯨船団は、南極海へと赴いた。
そして、私達の捕鯨船団は、鯨を大量に仕留める大戦果を挙げることに成功して、
「潜水艦狩りが得意だった元海防艦は、今は鯨狩りが得意な捕鯨船に転職した」
とある新聞の見出し記事にまでなった。
それをきっかけに、私達の捕鯨船団は、
「対潜捕鯨船団」
という異名が付けられ、10年余りに亘る栄光の日々を過ごしたが、南極海への往復航海は、捕鯨船を相次いで老朽化させていき、1960年代末に全捕鯨船が廃船になった。
だが、それに乗り組んだ私達にとっては、未だにあの栄光の日々、大量の鯨肉を確保しては日本の食卓へと提供した日々が、誇りをもって脳裏に刻み込まれている。
分かる人には分かると思いますが、史実でも似たような事態が起きており、それをオマージュして使わせて貰いました。
それにしても、この世界ではベイスターズは、未だにホエールズのままの気がします。
ご感想等をお待ちしています。