嘘つき
小さい頃、静花は一度だけ人違いを起こしたことがある。
もしかすると他にもあったのかもしれないが、印象に残っているのはその一回だけだ。
なぜなら、他ならぬ大好きな姉を、別の人だと思ってしまったから。
「我ながら、完璧だったね」
姉は意地悪く言う。
嬉しそうな静音とは反対に、静花は拗ねていた。
「あれだけ私のことが大好きな静花を、うまく騙せたなんて」
「……ずるだよ、あれは」
文化祭の出し物の一つで、静音は仮装を披露したのだ。
それはもう見事な化け猫を。
顔中特殊メイクを塗りたくって、おどろおどろしく彩った服を着飾って、見事の猫の怪物を演じきった。
声色まで変えて、目にはカラーコンタクトを入れて、髪型も当然変えている。
さらには雰囲気を出すために香水まで振りかけていたのだ。
人のみならず、嗅覚に優れた犬だって、主人が仮装すれば見分けがつかなくなる場合もあると言うのに。
「演劇部が張り切っちゃってさ。どう?」
「……」
問われて、静花は。
そっぽを向くという選択肢を取る。
別に姉に騙されたことが不満なわけじゃない。
いや、ちょっとはあるけれど。
一番嫌だったのは、自分が見間違えたことだ。
あんなに大好きな、お姉ちゃんのことを。
「もう、怒らないでよ」
「……怒ってない」
「嘘。怒ってる」
「なんでわか――っ」
そっと背後から抱き締められて。
静花は反発することなく受け入れる。
「当然だよ。だって」
――姉妹だからね。
「ここが、迷える森?」
「あの兎野郎が身体を拾ったって場所だ」
ノラは、異常な歪み方の木々で構築される森を見据える。
木の一本一本が、来訪者を拒んでいるかのようだ。
夜の更けた明るい場所の中で、しかし森は暗闇に包まれている。
何の策もなく入ったが最後、遭難してしまうだろうな、と思う。
「安心しな。俺にはカンテラがある」
「明るくても、迷いそうだけど」
鬱蒼と生い茂る草木のカーテンは、空間把握を阻害してきそうだ。
しかしノラは自信満々だ。
そしてまた、確信的な顔つきだった。
「いるんだろ? トツカミ……」
「どうして、トツカミがいるって思ったの?」
「……企業秘密だ」
「教えて、くれないんだね」
ノラはトツカミについて探っている割に、トツカミについて具体的に問われることを好まない。情報屋に聞かれた時もはぐらかしていた。
だから、聞かれるのは嫌なのだろうと静花は聞かなかった。
そして、その推測は当たっていたようだ。
少し前なら、それでも良かった。トツカミを、その先にいるはずの姉を見つけられるのなら。
でも、今は。
「ノラは、どうしてトツカミを探してるの?」
「どうした? 藪から棒に」
迷える森の中へと、草を踏みしめて入っていく。
その背中を追いかけながら、静花は問いを投げかける。
「普通はたぶん、最初に聞くこと。でも、ほら、私って壊れてるから」
「奴は仇で、どうしても討たなけりゃいけない奴だ。それだけさ」
「誰の仇なの?」
「……別に誰でもいいだろうよ」
「それも、教えてくれないんだ」
一言、答えればいい。
敵討ちの原動力となる人間の、間柄なんて限られている。
家族だったり恋人だったり友達だったり。
恩人、だったり。
なのに、ノラはその一言さえ答えない。
――猫は嘘つき。
少女の言葉が呪詛のように、脳内を反復する。
「私に話すのが、嫌なの?」
ノラは無視した。
「私は、理由を話したのに?」
「俺だって話したろ」
「情報量が違うよ。私は――」
「ったく、一体どうしたんだ? お前は何も考えず、餌を演じてればいいんだよ!」
苛立つノラを前に、静花は言葉を止める。
嫌悪感は抱かない。抱けない。
しかし不信感は、抱く。抱ける。
なぜならば、信用に足るかどうかは大切なことだからだ。
姉を見つけるためには、騙されている暇なんかない。
そう、姉を。
全ては、お姉ちゃんために――。
そこで静花はハッとする。
その時ばかりは微かに、表情が色を見せた。
瞳が、捉えたのだ。
後ろ姿を。
見間違えることなき、姉妹を。
「お姉ちゃん」
誰にも、先導するノラにすら聞こえぬほどか細い声で、呟く。
ばつの悪そうなノラがゆっくりと振り返った。
「まぁ、とにかくだ。お前は姉のことだけを考えていれば――おい?」
瞠目するノラ。
静花は忽然と姿を消していた。
不気味に歪んだ枝木。風で妖しく唸る葉草。凹凸が酷く歩きづらい土根。
薄暗い森の中を、静花は追いかける。
根に引っ掛かって転びそうになっても、鋭い葉に身体が傷ついても。
構わず、走る。その全てがどうでもいい。
姉に会えるなら、なんでも。
心が壊れていても、肉体は正常に疲れる。
荒い息を吐きながら無我夢中で走って、失速。
冷静に姉の姿を捉えようとして、
「……」
息を整える。
気付けば開けた場所に出ていた。
静音は、森の真ん中にぽっかりと空いた空間の中で佇んでいる。
黙したまま、近づく。
健常者であれば笑顔を振りまいたりしただろう。
だが、静花は無表情のまま、接近する。
ずっと追い求めていた存在に。
ある程度まで距離を詰めて、
「おねえ……」
そこで止まった。
あれだけ、探し求めていた。
心が壊れた要因を前にして。
「あなたは、誰?」
ゆっくりと振り返る。
静音は――静音を模した何かは。
「誰って……私だよ?」
近づいてくる。何かが。
静花はゆっくりと後ずさる。
だが、何かはどんどん歩調を速めていった。
静花のスピードも上がるが、
「あっ」
後ろ歩きのせいか、足が根に引っ掛かった。
いや……先程はなかったはず。
静花は倒れて、天を仰ぐ。
夜の中に、真っ黒な太陽が輝いている。
カサカサと、草木が揺れる音がした。
まるで嘲笑しているかのような。
「何で、逃げるの?」
「あなたが違うから」
「どこが、違うの?」
姉のコピーは不思議そうな声音で、静花を覗き込んでくる。
「だって……」
静花は見つめた。違和感の極致たる部分を。
「顔がないんだもの」
「ああ……そっか」
それ以外の容姿はそっくりだった。特に後ろ姿は。
けれどやはり、顔がない。のっぺらぼうだ。
何もない顔を、こちらに向けたまま何かは納得したように頷く。
「そっかそっか。君の真似をしたせいで、顔がなくなっちゃったんだね」
「……」
静花は冷徹に周囲へ目を配る。
どうにかしてこの場を切り抜けなければならない、と。
「でも、いいね。やはりいい。こんな状況でも、狂わない。ずっと美しいまま」
のっぺらぼうは静花の左胸へと触れた。
「綺麗な、魂」
「トツカミ……」
「その呼び方、好きじゃないなぁ。それに、正しくもないし」
とことこ、と。
寝転がる静花の周りを歩き始める。
「けどまぁ、名前なんてどうでもいいかな? 私はね、私たちは。取り戻さないといけないの」
歩いている最中、のっぺらぼうの姿が変わっていく。
服が変わる。髪の色が変わる。
顔が変わる。
白い髪の、天真爛漫な少女へと。
「何を?」
問うと顔を寄せてきた。
「力を」
「力……」
「そのためには、君が必要なんだよ」
「……私の魂でしょ」
「そうとも言う」
にっと笑って、少女は静花の胸にまた手を置いた。
「いい心臓だね。ドクンドクンって、きちんと鼓動してる」
「嘘つき……」
「嘘を吐いた覚えはないけどなぁ」
白々しく笑う少女。
「古今東西、猫は嘘つき。でしょ?」
少女は静花の胸を掴んでいる。
このままどうにでもできるだろう。
少女の身なりだが、実体は違う。得体の知れない怪物だ。
静花は文字通り急所を掴まれた。
生殺与奪の権を握られている。
しかし心は怯えない。狂うこともない。
ただただ冷静に、生き延びる術を模索している。
「フフッ。いくら強がってもね。鼓動は速まってるよ」
「……どうして、私なの?」
「ああ……知らないんだ」
恍惚と、少女は笑う。無邪気のように見えたが、違う。
邪気に塗れた笑顔だ。
「それはね……おっ」
パン、と渇いた銃声が響いた。
血が飛び散って、静花の身体を濡らす。
「どうしてここが……ああ……そのランタンか」
「見つけたぜ……トツカミ……眷属!」
「君はわかるんだね。流石薄汚いドブ猫だ」
再び銃声が轟いて、少女が跳躍。
人間離れした跳躍力を披露して、人とは異なる反射神経で銃弾を避ける。
銃撃者は拳銃から散弾銃へと装備を変えて、撃ちながら静花の元へ駆け寄った。
「おい生きてるか!?」
「大丈夫」
立ち上がった静花は、その背中を見つめる。
ノラ・キャット。その世においての、一蓮托生の相手を。
ノラは散弾を二発撃つ。
トツカミの眷属は、素早い動きで拡散範囲内から外れるが、
「そこだ!」
動きを学習したノラの本命の射撃が、回避先に到達する――刹那。
突如として生えてきた木々に、銃撃を台無しにされる。
「チッ、なんだよ!」
「木が生えた……いや」
静花は周辺を目視。
ノラに声を掛ける。
「ねえ、そのランタンって特別?」
「いきなりなんだよ?」
ポンプを奏でるノラの、腰に差してあるランタンは今もなお煌煌と輝いている。
「迷わない?」
「ああそうだよ! こいつは迷わねえ。だがそれがどうした!?」
「貸してくれる? それと、ナイフも」
「ああ!? チッ!」
弾切れのタイミングを狙って、足元から木が生えてくる。
ノラは咄嗟に静花を小脇に抱えると、少女に負けず劣らずの脚力を発揮して避けた。
「どうにかしてぶち当てねえと……!」
「たぶんそれじゃダメ」
「どういうことだよ」
降ろされた静花は指摘する。
「嘘つき、だから」
「……考えがあるんだな?」
「うん。いいかな?」
「わかった。……持ってけ」
ノラに託されたランタンとナイフを持って、反対方向へと走り出す。
視線を落とした状態で。
「逃がさない――邪魔を!」
拳銃による銃撃を、少女が木々で防ぐ。
「てめえの相手は俺だぜ? アホンダラ」
不敵に笑うノラが、銃声を響かせ続けた。
ランタンの明かりを頼りに、森の中を進む。
不気味に蠢く、恐ろしき森を。
動物めいて、草木が動いている。
まるで手足のようだ。
一つ一つが、意思を持っているかのよう。
「ある、はず」
まさに草の根を分けて探すように。
一心不乱に足を動かし、目を凝らす。
遠くからは銃声が轟いている。
だが、その回数は少なくなってきている。
持久戦では持たないとわかっていた。
弾数も、ノラの体力も。
だから、急ぐ。
思い返すのは、初めてトツカミの眷属と戦った時のこと。
「弱点……」
普通に考えれば、少女の身体だと思うだろう。
弱点でもない部位を、わざわざ木々で防御する必要はない。
そんなことをしている暇があるなら、攻撃に転用してしまえばいい。
けれども。
「嘘つき……だし……」
だから、見たままで受け取ってはならない。
いくら弱点に見えても。
……姉のように、見えたとしても。
実態は異なるのだから。
身体を限界まで稼働させて、探し続ける。
ヒントがないわけではない。
地面を血管のように巡っている、根っこだ。
「どこまで、続く……」
息も絶え絶えになりながら、追跡する。
この森は、生きている。
迷える森は、一つの生命体。
それが静花の出した結論だった。
だったら、どこかにあるはずなのだ。
心臓が。
自身の鼓動のうるささが耐えがたくなってきた頃、ランタンが一際輝きを増した。
ハッとして、茂みの奥を見つめる。
鼓動が聞こえた。
自分とは別の。
ドクン、ドクンと、とても喧しく。
ツタのようなものに覆われた、心臓が木の中に埋まっている。
「見つけた!」
ナイフでツタを切り払う。不慣れのため時間が掛かった。
もはや銃声は聞こえなくなっている。
無表情の顔を、汗が伝う。
無言でナイフを突き立てて、血が迸る。
制服が赤く染まるが、
「足りない……」
心臓は鼓動を続けている。
何度か突き立てたが、少量の血が漏れ出るだけ。
「魂の、含有量……!」
ノラのナイフでは心臓を壊せるほどの魂が含まれていない。
そうこうしているうちに握力を失ってしまった。
ノラの腕力ならばどうにかできたのかもしれないが、静花の力では……。
膝をついていると、地面から胎動が伝わってきた。
土の中を蠢いて、何かが近づいてきている。
根か枝か木か。いずれにせよ、静花を害するものなのは確かだ。
どうすればいい。
どうすれば、この心臓を破壊できる?
木の心臓を……。
――木。
そこで静花ははたと思いつく。
落ちている枝を取って、ランタンの蓋を開けた。
そこへ躊躇なく枝を突っ込み、
「そうだよね……いいんだ」
着火した枝を、心臓目掛けて放り投げる。
「燃やせば、いいんだ」
燃え移った火は瞬く間に、木を包み込んだ。
その中で鳴り響く鼓動ごと。
火から離れた直後、身の毛もよだつほどの絶叫が遠方から響いた。
「いそが、なきゃ」
もし全てうまく行ったとするなら、トツカミの眷属は程なくして消滅する。
情報を聞き出さなければならない。
本体のこと。
そして、姉の行方を。
だから急がないといけないが。
体力を消耗したところにやってくる、焦げた匂い。
煙は静花の視界を奪い、嗅覚を奪い、そして、酸素を奪っていった。
「おねえちゃ……」
ふらりと、身体を揺らして。
静花は呆気なく意識を手放した。
「ふふ、哀れ、哀れだねえ。いつまで、騙せる? 騙し通せる?」
「余計なお世話だ、くそったれ」
会話が聞こえてきて、静花は耳を澄ます。
ゆっくりと目を開く。血だらけで倒れる少女と、銃を突きつける女性が目に入った。
獲物を冷徹に解剖する狩人のように、ノラは死にかけの少女を見下ろしている。
「あはっ。いずれ、いずれ、頂く。全て、全て。そして、ここは、私たちの物に」
かふっ、とたくさんの血を吐き出して、少女の表情が無となった。
そして、死体すら残さずに霧散する。
「チッ、役にすら立たねえとは……」
「ノ、ラ……」
「気が付いたか」
起き上がろうとしたが、身体が動かない。
体力を使い果たしたせいか、煙を吸い込んだせいか。
或いは、その両方か。
「怪我はしてねえから、心配するな。少し休めば回復するだろ」
「トツカミ……眷属……何か……」
「残念だが、聞き出せなかった」
「私を、助けたせい……?」
気絶した静花をノラが運んだのは確実だ。
つまり、尋問するための猶予時間を静花のために使ってしまったということ。
もしちゃんと尋問できていたら、何か手がかりを入手できたかもしれない。
「どうせ野郎は喋らなかったぜ」
「ごめん……」
「謝ることじゃねえ。移動するぞ。この森は不吉すぎる」
ノラは静花をおぶって、来た道を戻り始めた。
気力を振り絞って、もう一度謝罪する。
「ごめん、ね……」
「だから謝るなって。進展もあったしな」
「進展……?」
「お前が餌として有用だってことだよ」
「それは……なによりだけど……」
理由はそれだけではない。
もう一つ、あるのだ。
「私は……ノラのこと、疑って……」
「奴の呪いか何かだ。気にしなくていい」
「でも……」
「お前はそこまで迂闊じゃない。その世に迷い込んだ時ならともかく、意味もなく単独行動するようなタマじゃないだろ? だったらそりゃ、お前のミスじゃねえ。そうなるように、誘導されたのさ。いくら心が壊れていても、思考は回るんだからよ」
「そう、なのかな……」
「そうさ。情報は得られなかったが、向こうもそろそろイラつき始める頃のはずだ。いくら眷属って言ったって、ぽこじゃかと作れるはずがねえ。こうやってぶっ潰していきゃ、そのうち本体にも巡り合えるはずだ」
「なら、役立ててるんだ、私」
「ああ。よくやった」
褒められて、静花はノラの背に身を委ねる。
微かに聞こえてくる鼓動。灰のコートから伝わってくる温もり。
そのどちらもが、優しかった。
トツカミのソレとは、比較にならないほどに。
「もしの……仮定の話、だけど……」
「どうした?」
「ノラが嘘つきでも、私は構わない、から……」
「そうか」
懐かしい記憶が蘇る。
遊び疲れて、姉におぶってもらった思い出が。
お姉ちゃんみたい。
なんて思った直後には、静花は寝息を立て始めていた。




