さまよう少女
あの日から、世界は色褪せた。
目の病気ではない。肉体的な問題はない。
精神的なものだ。
その知らせは、柊静花の日常を、これまで大事にしてきた物事を、徹底的に破壊した。
楽しみにしていた映画も、熱心に追いかけていた推しも。
定期的に遊んでいた友達も、クラスメイトとの何気ない雑談も。
車の音。人々の喧騒。電車の騒音。スマホから漏れる通話。
その全てが、どうでもいい。
他人事のように感心したぐらいだ。
まるでガラス細工のよう。
とても硬くて壊れないと思っていたのは、自分の思い込みだった。
帰宅して早々、親から告げられたその一言は、しかしてガラスな心を完全粉砕には至っていない。
なぜかというと、こうして静花は思考ができる。
目に映るもの、耳に届いたものを、適切に理解できる。
心はまだ死んでいない。
生きてはいないが、死んでもいない。
「ある意味では、一番残酷かもしれませんね」
そう呟いたのは誰だったか。医療関係者か、警察関係者か。
親が雇った探偵だったかもしれない。記者とか、全く知らない人かもしれない。
そんな言葉を聞いても平常心を保てるぐらいには壊れているし、納得できるくらいには動いてもいた。
絶望的だが、希望は残されている。
中途半端で、宙ぶらりん。
だから動く。
止まらない。
ふらふらと、夢遊病者のように。
探しては寝て。探しては寝てと繰り返す。
今日もまたそうやって、当てもなく探し回って。
自宅のベッドで、横になったはずだった。
「ここは……」
静花は見知った形の、知らない部屋で目を覚ました。
内装は自室そのものだが、その全てが朽ちて壊れかけている。
ボロボロのベッドに、穴が開いた床。薄汚れた机に、破れたぬいぐるみ。
割れて床に散乱した鏡が、自分の身体を映している。
ストレスで真っ白になったぼさぼさの髪に、色白の肌。死んだような、紺碧の瞳。
着替える手間すら惜しんで眠り、着たままだったセーラー服。
「夢……」
静花はもっとも可能性が高い事象を口にして、腕をつねった。
痛い。
「現実?」
この薄暗い部屋は、確かに存在しているようだ。
或いは、いよいよストレスで脳がやられたか。
どちらにせよ、目が覚めたのなら必要なことをするだけだ。
「学校に、行かなきゃ」
入院措置から逃れるための条件がそれだった。
どうしても探したいというなら、探してもいい。
その代わり、きちんと学校に通うこと。
自分のことを、大切にすること。
そう親に言われて、静花は素直に従った。
軋む扉を開けて、月明かりで目を細める。
「街がない」
外は、廃墟がいくつか点在する場所だった。
そもそも二階ですらない。自室だけのこじんまりとした廃屋の中で寝ていたようだ。
二階建ての我が家は、どこかへと行ってしまったらしい。
或いは、自身だけが。
「これじゃ、登校できない」
自分に言い聞かせるように呟いて。
「だったら、探そう」
いつものように足を動かす。
褪せた光景は、しかして普段よりも奇天烈だった。
見たことない不可思議な形状の植物に、遠方では真っ黒な山がそびえ立っている。
木もまたグニャグニャに歪んでいた。
近くにはひまわりらしき花が咲いている。
確証が持てないのは、どこか瞳のように見えるからだ。
じっと見られているように感じる。
「やっぱり狂っちゃったかな、私」
他人事のように思いながら、見知らぬ土地を歩いていく。
知らない土地に来ると、ちょっぴりだけ、期待してしまう。
いるのではないか、と。
ただ、今この時ばかりはいて欲しくないという気持ちも芽生えている。
理想を言えばきりがないが、もっと優しくて、温かい場所にいて欲しい。
そう思った瞬間に、そんなことは有り得ないと自己否定する。
そんな場所にいるならば、きっと連絡してくれるはずだからだ。
ないということは、冷たくて、恐ろしくて、酷いところにいるのだ。
「ここがどこだか、知らないと」
静花は周囲を見回す。まずは人を見つけなければならない。
しかしこんなところに人がいるのだろうか。
いたとしても、話が通じるのだろうか。
危機感を覚えながらも、足は軽率に動いた。
その時はその時。
捨てバチのように、身体は動く。
「誰かいますか?」
もし誰かが似たようなことをしていたら、きっとこう言っただろう。
迂闊だと。
だが、静花の歩みは止まらない。
三度ほど、問いかける。
と、反応があった。
「どうかしたの?」
幼子の声がする。
場所を訊ねるのなら、子どもより大人の方がいい。
それでも、情報がないよりはマシだった。
静花は躊躇いなく声の元へ向かう。
幼子は、廃屋の中に座っていた。
白いぼろきれを纏う黒髪の女の子。髪はとても長く、表情は窺えない。
異常な光景だ。
現代日本では考えられない。もしかしたらこういうケースもあるのかもしれないが、極めてレアなのは間違いない。
「大丈夫、お姉ちゃん」
「どうかな……」
割れた窓ガラスに反射して、自分の表情が見える。
乏しくて、何も考えていないような顔だ。
「困っているの?」
「ここがどこだかわからなくて。帰り道が、わからないの」
「そうなんだ」
淡白に幼女は相槌を打つ。他人事同士の会話みたいだ。
「何か知ってるかな?」
「天国だよ」
「天国?」
「そうだよ。みんなが幸せになれる場所」
「そうなの?」
静花が知っている天国は、もっと温かくて、優しいところだ。
たくさんのお花畑に、楽器を奏でる天使たち。
みんなが笑っていて、幸福になれる場所。
しかしそうは見えない。全てが壊れていて、無秩序だ。
地獄ほど恐ろしくは見えないが。
天国ほど、極楽のようには思えない。
「そんな風には見えないけれど」
「見た目は本質じゃないよ。大事なのは、中身」
「……中身?」
立ち上がった幼女が近づいてくる。
「そう、中身。いくら見た目が壊れてても、醜くても、変わっていても。あなただってそう」
幼女は人差し指で静花に触れた。トン、と。
左胸を。
その内側に隠された心臓を。
「綺麗な、魂」
「たましい……?」
幼女の雰囲気が変わった気がした。
空気が淀んでいる。恐怖で身が竦んでしまうような重圧だ。
しかし静花は恐れない。
恐怖を感じられるほど正常ではない。
「君は一体……?」
「ねえ、帰りたいわけじゃないでしょ?」
質問に質問を被せられた。眉根を寄せる。
「ううん。帰らないと」
「会いたいんでしょ? お姉ちゃんの、お姉ちゃんに」
そこで初めて。
静花の表情に色が付いた。目を見開く静花に、幼女が笑いかける。
「知って、いるの」
「連れてってあげるよ。だから、いいよね?」
「どこにいるの?」
質問に幼女は答えない。
代わりに顔を近づけてくる。髪で隠れていた目元が見えた。
真っ黒な瞳。
射抜かれて、硬直してしまうほどおぞましい目。
長髪が意志を持ったように動き出す。
それは人の手のように静花の四肢を拘束した。
「いいよね、いいよね。食べて、いいよね?」
この子はどうやら自分を食べようとしているらしい。
食べる、と聞いて万人が想像するのは食事だろう。
肉食獣のような捕食。
或いはアダルトな、性的な意味合いか。
しかしこの幼女の食べる、は違う気がした。
常人が想像できる範疇を超えている。
それは困る。
静花は力任せ拘束から逃れようとした。
思いのほか、簡単に外れた。
脇目も振らずに廃屋から逃げ出す。
「鬼ごっこ? いいね、いいね。遊ぶのは、楽しいからね」
「逃げ切った……?」
ぐんにゃりと曲がった黒い木の前で息を整える。あの廃屋から、そこまで距離は離れていない。
楽観視するのは危険だが、不用意な移動もまたリスクがある。
さっきの幼女みたいな人間に、遭遇する可能性が高い。
静花はこの土地の安全地帯を知らない。闇雲に逃げたところで、夏の虫になってしまうかもしれないのだ。
飛んで火にいるつもりはない。
では、どうすればいいか。思考を纏めようとした時だった。
ポタリ、と液体が地面を濡らす。
「……血だ」
よく見ると、右腕から出血している。髪から強引に抜け出した時に切れたのだろう。
冷静なつもりだったが、相応にパニックを起こしていたらしい。
痛みが遅れてやってくる。結構な量だ。このままでは動けなくなる。
来た道を振り返ると、血が点々と続いていた。
まずい。
そう思った瞬間に、全身が影に覆われた。
「見つけたよ」
次の瞬間には、両腕と足を髪で縛られて、地面に寝かされていた。
幼女は髪をクモのように動かして、空中に浮いている。
逃げようと試みたが、手足は全く動かせない。
先程は手加減をされていたようだ。遊んでいたのだろう。
「勝ったから、いいよね?」
「そんなルールだったの」
それならそうと言ってくれれば良かったのに。
なんて考えて、脱力した。
「あれ。抵抗しないんだ」
「そうだね……」
別に死んでもいい。
これが最期でも、構わない。
痛いのは嫌だが、もう壊れている。
これ以上壊れたところで、何かが変わるわけでもない。
泣き喚いたり、絶望したりもしない。
壊れる前なら、騒いだだろうけど。
そこまで思考を回して、ふと考える。
自分がいなくなった後はどうなるのだろう。
両親や友達はきっと悲しむ。悲しまない、なんて薄情なことは思わない。
親は愛してくれていたし、自分もちゃんと愛してはいる。
友達とも、仲が良いと思っていた。
薄情で、恩知らずなのは自分の方だ。
だからきっと泣いてくれるだろうし、お墓も作ってくれるだろう。
そんな風に自分へ手厚く責務を果たしてくれた後に。
あの人のことを、探してくれるのだろうか。
それとも、諦めてしまう?
娘を二人も失った事実に耐えかねて、心が折れてしまうのではないだろうか?
「……だめだ……」
それはダメだ。
自分のことは良い。むしろ早々に諦めてくれて構わない。
いくら血が繋がっているとはいえ、心の折れた人間の世話など骨が折れるだけ。
でも、あの人は。
お姉ちゃん、だけは。
「……まだ、死ねない……!」
静花は力を入れて、逃れようとする。だが、結果は変わらない。
いくら生きる気力が芽生えたって、力が増えるわけじゃない。
火事場の馬鹿力と言っても限度がある。
暴れたって、どうしようもない。
ゆっくりと、幼女が降りてくる。あんぐりと大きく口を開けて。
漆黒の瞳と、目が合う。
『今度、実家に帰るね』
突然、声が聞こえた。
いや、違う。思い出したのだ。走馬灯のように。
静花のスマホの画面には、女性が映っていた。
静花と似ていて、しかし凛とした印象。茶髪を纏めて、朗らかに笑っている。
妹想いの、優しくて、カッコ良くて、大好きなお姉ちゃん。
実家を出て行った後も、毎日電話していた。
「いつ? すぐ会える?」
『もうちょっと先にはなっちゃうけど』
「そう……」
『寂しそうな顔しないの。もう、本当に寂しん坊なんだから』
「だって……」
もうずっと会っていない。一人暮らしをするという話が出た時に、自分もついて行くってねだったくらいだ。
毎日の通話という妥協案で、静花はしぶしぶ了承した。
姉は困ったような、それでいて嬉しさの混じった表情を、画面越しに向けてくる。
『嬉しいけどさ、私がいなくなったらどうなっちゃうの?』
「ダメ。いなくならないで」
『ふふっ、はいはい。あ、そうだ。今度、紹介したいんだけど――』
「今すぐ別れて」
『違う違う。彼氏とかじゃないって。っていうか私、一生独身じゃなくちゃいけないの?』
「当然」
『即答しないでよ、怖いなぁ。前、言ってたでしょ? 拾ったって』
「拾った……? ああ、言ってたね。連れてくるの?」
『静花に似て、甘えん坊だからね』
「私の方がべったりだよ」
『そこ、張り合うところ? でもま、気が合うかもね』
姉妹の談笑は、一時間も続いた。
「お姉ちゃん……」
どこに行っちゃったんだ。
帰ってくるって言ってたのに。
どうして、行方不明になっちゃったんだ。
「ああ、やっといい顔になったね」
その囁きで現実に引き戻される。幼女は、人間のふりをした怪物は、既に眼前まで迫っていた。
頬を濡らす液体に気付く。捕食者の唾液だ。
それが涙のように頬を伝う。
寂しい。
姉と会えないことが、悲しすぎる。
どれだけ壊れていても、その気持ちだけは消えない。
「お姉ちゃん――!」
「ふふ、騒いでも――ぐぎゃっ」
耳を穿つような音がした。
何かが幼女の身体を吹き飛ばしたのだ。
髪が千切れたおかげで、静花は無事だった。
「――ようやく、見つけたぜ」
初めて、聞いた声。
なのに――姉の言葉が、再生される。
「大丈夫だよ。静花が呼んだらさ。私は絶対に駆けつけるから。何ができるかは、その時々に、よるけどね」
カシャン、という音が響いて何かが落下する。
立ち上がって音がした方を見ると、女性が立っていた。
古めかしい衣装だ。
アメリカの、古い映画に出てきそうな灰色のコートを纏っている。
頭部には西部劇のような同じ色の帽子。
だが、普通のハットとは決定的な差異があった。
その肌色と同じぐらいの強烈な違和感。
灰色の肌を持ち、頭部に耳と思しき膨らみがある女。
猫耳としっぽの生えた、人間の女性だ。
彼女は両手に黒色の、短銃身の散弾銃を構えていた。
ゲームや映画などで見るポンプアクション式のように思える。
女は静花の前を素通りして、幼女へと話しかけた。
「どれだけ探したと思ってやがる。洗いざらい吐いてもらおうか」
「お前――嫌な奴」
「質問してるのは俺だぜ?」
撃発。散弾が幼女の身体をズタズタに引き裂く……。
と思われたが、頑丈だった。効いているが致命傷ではない。
「眷属でも思ったより硬いな」
女は散弾銃をコッキング。シェルが排莢される。
三度散弾の直撃を受けても、幼女はまだ立っていた。
「タフな野郎だぜ」
どうやら幼女姿の怪物は、闇雲に銃を撃っても効かないらしい。
無敵なのだろうか? 現実にそんな概念が存在するのか?
いや、弾丸自体は効いている。身体は裂けて、血がこぼれている。
しかしその傷は修復されていた。
弱点と思しき心臓を穿っても、頭部を損傷させても、幼女は動いている。
まるで機械みたいだ。
そんな風に客観視して、不自然な点に気付いた。
(あの髪の毛……)
幼女は髪を複数に纏めて武器や移動手段にしている。
だが、その内の一つが地面へぺったりとくっついていた。
まるで気配を消しているように。
不意打ち用かとも思ったが、そんな様子はない。
女は幼女に散弾を撃ち込みながら接近している。
不意ならいつでも打てるはず。
それなのに攻撃をしない、ということは。
「何かが、ある……?」
だが何があるというのだ。それに、あったからといってどうなる。
何かあったとして、あの女の人は静花の言葉に耳を傾けるのか。
「弾も高えってのによ」
女が銃身の下部分にある装置を動かして、装填と排莢を続ける。
弾数が何発かは知らないが、弾切れは近いだろう。
にやり、と幼女が笑うのが見えた。弾切れを待っているのだ。
瞬時に腹は据わった。
「髪の毛!」
「あん?」
「あそこ!」
静花は地面に紛れようとしている髪の束を指した。
「なるほどな」
にんまりと笑う女。間髪入れずに幼女の足を撃つ。
千切れこそしないが、血が飛び散り、バランスを崩した。
迎撃のために迸る鋭利な髪束を、女はステップで器用に躱して。
「ここがお前の心臓か」
長い髪を踏みつけて、ショットガンを接射した。
身の毛がよだつような絶叫。
断末魔を上げて、幼女が地面に伏す。
「さて、教えろ。奴は――」
「――あなたは何を知ってるの!」
「おい」
女よりも早く静花は幼女に駆け寄る。なりふり構っていられない。
この子は何かを知っている。姉についての、何かを。
そんな予感がした。
「俺の質問が先だ。おい、トツカミは」
「お姉ちゃんは!? どこなの!!」
二人に問われた幼女は、力なく笑う。
「あなたたち……バカだね」
そして、死体すら残さずに掻き消えた。
「くそっ、死にやがった」
「そん……な……」
ようやく手がかりを見つけたと思ったのに。
壊れているはずの心が、思った以上に拒否反応を示していた。
ふらついて、座り込む。
あの日より。あの時よりでは、ないけれど。
ショックを受けている。
「お前が割り込むから聞けなかったじゃねえか」
「…………ごめん、なさい」
「なんだよそのか細い謝罪は。もっとシャキシャキと……なんだ、怪我してんのか」
女はポーチから包帯を取り出して、静花の腕に巻き始める。
粗暴な口調だが、丁寧に対応してくれた。
血をだいぶ失ったからだろうか。ぼーっとしてきた。
また過去が追いかけてくる。姉の声音が。
「黒猫……?」
スマホに送信されていた画像には、一匹の黒猫が映っていた。
『そう。拾ったの。飼うことになって』
「なんで?」
『逆に聞きたいんだけど、どうして不機嫌になってるの?』
「……構ってくれなくなる」
『甘えん坊』
「妹は姉に甘えるものでしょ」
ベッドに座りながらそっぽを向く。嬉しそうな呆れ声が聞こえてきた。
「全くもう。けど、可愛いでしょ」
「それはまぁ」
真っ黒な体表。くりくりとした黄色い瞳に仏頂面の顔。
否定はしない。というか、かなり可愛い。
自身の立場を危ぶむくらいには、キュートだ。
と、画像を拡大して気付いた。
「傷がある」
『そうなの。この子、けんかっ早くてね』
「保護したんだ」
『その通り』
姉はかなりの世話焼きだ。困っている人を放っておけないタイプ。
人をダメにするタイプ、と常々思っているし、現在進行形でダメになりそうだ。
『でも、可愛いから』
「……名前は?」
『あ、言ってなかったね。名前は――』
「ノラだ。ノラ・キャット。みんなそう呼ぶ」
「……え?」
耳から聞こえて、驚く。
ノラ・キャットと名乗った女性は、こちらを訝しんできた。
「お前が聞いたんだろ」
「声に出てたんだ。そっか、ノラ・キャットさん……」
「ノラでいい。畏まった話し方はやめろ。癇に障る」
ノラは静花の包帯を巻き終えた。止血のおかげか、少し気分が良くなってきた。
思い込みかもしれないが。
至近距離で、その顔を見る。灰色の肌は、見慣れない。
人類の色に灰色はない。フィクションでしか見られない肌色だ。
緑色の瞳はじっとこちらを見つめてくる。
静花も視線を逸らさなかった。
「私は……柊静花」
「……そうか」
ノラが立ち上がった。立とうとしたが、うまく立てない。
「もう少し休んどけ」
「あの、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ」
「私のお姉ちゃん、知らない?」
「知らん」
「待って、名前は柊静音。本当に、知らない?」
ノラは静花に背を向ける。
「……知らねえさ」
「そっか……」
「お前は知ってるか?」
「さっきの子ども?」
「アレのどこが子どもだよ。……トツカミだ。その仲間」
「トツ、カミ?」
「知らねえか。だろうな」
会話が途切れた。ノラは幼女が掻き消えた箇所を確認する。
「やっぱり痕跡が欠片も残ってねえ。忌々しいが、あの情報屋の言う通りだ」
「探してるの?」
「あいつは絶対に逃しちゃいけねえ奴だ」
その声音からは執念のようなものを感じた。
何が何でも殺してやる、という殺意を。
元の状態であれば恐れていただろう。
「平然と、してるんだな」
「たぶん違う」
「違う?」
「壊れてる、から……」
平気なのではなく、パニックを起こせない。
自分で言うのもなんだが、手の掛からない壊れ方だとは思う。
病院に行った時に、自分とは異なる壊れ方をした人を見たことがある。
日常生活が送れるだけ、マシなのだ。傍から見れば、健常者に見えることすらあるのだから。
「そうか。じゃあ、遠慮しなくても構わないんだな?」
「構わないんじゃなくて、構えないんだよ」
「大して変わらねえよ」
ノラは座る静花の前に手を差し出す。
乏しい表情で見上げると、不敵な笑みを返してきた。
壊れて以降、静花に向けられたどの表情とも違う。
憐憫とも、悲哀とも。
「利害の一致って奴だ。俺はトツカミを探したい。だが、あいつとその仲間……眷属は滅多に姿を見せやがらねえ。おまけに変幻自在ときた。趣味じゃなくとも、やらなきゃならねえのさ。釣りをな」
「その……トツカミ、は、きっと姉のことを知っている。私は、お姉ちゃんを探したい。いいよ。私の魂は、綺麗で美味しいらしいから」
静花はノラの手を掴んで立ち上がる。
なぜだか、昔の記憶を思い出した。
転んだ自分を立ち上がらせてくれる姉の姿を。
「トツカミさえ見つけ出せば、万事解決する。俺が保証してやるぜ」
「根拠はあるの?」
「ただの勘だ」
「何それ。けど、私と同じだ」
「ああ?」
「私も、直感だよ。ノラを信じることにしたのは」
「気が合うな」
「そうかもね」
静花は静音を。
ノラはトツカミを探し求めて。
二人の旅が始まった。




