普通の人々4
ステーション内の冷媒として使われた水は、施設内を遍く巡り、熱交換器で加熱され、そして廃棄される寸前で、浴場の湯として人々の疲れを癒すために使われていた。大きな湯船には、ステーション内で暮らす人々が、ゆったりと浸かり、そしてカランから出る湯で丁寧に一日の垢を落としていた。
湯船の上の壁には富士の大きな絵が描かれていた。その山の麓には湖があり、幾艘もの帆船が白い帆を立てている。絵の一番隅には早川というサインがあった。
由美はその山を絵や写真でしか見たことがなかった。火星で生まれ、育ったものには、山といえばオリュンポスこそが最高の山といえた。そして大量の水がふんだんにある景色がいつも楽園の絵の様に思えた。乾いた惑星では、水は何時も貴重だった。体から出る採取可能な水分も全て浄水されて使用された。それでも、水は密閉された家屋のどこからとなく外に漏れてしまう。
定期的に落とされる、氷が主成分の宇宙塵を住民達は何時も待ち遠しく思っていたものだった。
あの乾いた大地で、優しい男に出会い、結婚しそして共働きながら人並みな生活をこつこつと築いてきた。
それがなんで、こんな所に来ることになってしまったのか、決して豊かでは無いにしろ、どうしてあのままの暮らしを続けられなかったと思うと、悔やんでも悔やみきれない。きっと夫もあそこまで堕落することもなかっただろう。
鉱脈の噂を信じ、一攫千金を狙って貯金を全てつぎ込んだ挙げ句の果てだ。思い出す度に、どこで道を違えたのだろうと後悔ばかりが、心の中を埋め尽くした。
遅い時間にもかかわらず銭湯には子連れの女性も居た。はしゃぐ子供を諌めたり、体を洗ってあげたり、大変だなぁと思いつつも、ふとその女性が羨ましくなっている自分に気が付いた。火星にいれば、今頃は自分も子供のひとりや二人もいて、近所付き合いも大変で、きっと疲れているだろうなと思う。でも、これほど寂しくはないだろう。
夫の母に死なれ、一人になってしまった最初の内は寂しかった。やがて一人でいる事の気軽さが気に入ったが、最近はまた寂しさが心に滲みるようになってきた。せめて、今からでもいいからまた一緒に暮らす相手が欲しかった。愚痴を言う相手、夢を語りあう相手が欲しかった。
仕事で気が張っている間はいい、しかしふと気が緩むと思わず涙が出そうになる時もあった。湯船で長湯をしながら、彼女はいつもそう思わずに居られなかった。
ありがとうねというおタネばあさんの声を背にして、燕湯を出ると、由美は真っ直ぐ帰らず、細く汚れた道をいくつも通り、幾つかの階段を下って、河瀬のコンパートメント
の扉を叩いた。
そして何時もの事のように、「はい」という声が中から聞こえた。ドアをあけると、中はベッド以外は何も無いような有様だった。この辺りの間取りでは4畳半一間と半畳のキッチンしかないのが普通だから荷物を置く余裕は無いに等しい、ベッドが置いてあるのは、その下を収納に使う為だった。
何時もながら殺風景だわと由美は思った。そして中に入ってリノリュームの床に小さいカーペットを敷いた所に座っている河瀬の前に折り詰めを置いた。
彼は、カーペットに胡坐で座ったまま、床にタブレットを置いて操作していた。
「はい、残りもので悪いけれど、食べないとまた倒れるわよ」
河瀬は、バツが悪そうにそれを手にとって
「何時もすみません」と頭を下げた。彼は職を失い残金だけで、生活をしていた頃、おふくの店内で、栄養失調と貧血で倒れた事があるのだった。にもかかわらず、茶漬け以外を口にしない彼が、なんとも不憫に思え、なんとなく、その頃から余り物で折り詰めを河瀬の部屋に運ぶ様になっていた。店の者からは、冷やかされもしたが、「勿体ないから」と、彼女はあっさりと言ってのけただけだった。
「余りものだから早く食べてね。」これも何時もの台詞だった。そして何時もならそのままそそくさと部屋を後にするのが常だった。しかし今夜は一呼吸おいてから由美はもう一声かけた。
「ねぇ、河瀬さん恋人居るの?」
河瀬は、由美の顔を見ながらいやと首を横に振った。
「こんな生活をしていたら無理さ」
「そうなんだぁ」由美は、ふっと居住まいを正して河瀬の正面を向くと正座をしたままいざりよった。
「ねぇ、私達、一緒にならない?」
河瀬にしてみれば晴天の霹靂のような告白だった。
由美には、多くの感謝もあるし、顔貌も悪くはない、しかし結婚相手とか恋人の相手にするという認識は全く無かった。なにより、手の届かない場所に居る女性の面影ばかりを追って過ごした日々が長すぎて、新たな恋に踏み出す事さえ出来ないような気持ちになっていた。
「こんな暮らしをしている男とかい?」
「そう、こんな暮らしをしている男がいいの、それに河瀬さんは、気の置けない人だからさ。」
思えば、河瀬が「おふく」に来るようになってからかなりの歳月が流れていた。河瀬が来れば決まって由美が配膳し、客が居なければ、同じテーブルについて、日々の愚痴とか夢とか話していたものだった。
河瀬といえば、自分から何かを話すという事が苦手なようで、ついつい何時も聞き役に回っていたので、それで由美も必要以上によく話し込んだ。それが由美には嬉しかった。
「しかし収入がさ…」河瀬は、いきなりな話だったので、できれば、即答は避けうやむやのままこの話しが、無くなってしまわないかと思った。独り暮らしが長すぎてとても同じ屋根の下で他人と暮らすことなど出来そうもない気もした。
「大丈夫、一人扶持は食えないけど二人扶持は食えるって言うしさ」由美はふっと河瀬の手を取った。
「その返事…待ってくれ」河瀬は、その手の厚みと暖かさを感じた。涼子の手とは違う働く者の手だ。その手を振り払うべきかどうか躊躇しながらも、そっと手を外した。
「ねぇ、私のこと嫌いじゃないよね?」由美は不安そうに訊いた
「ああ、ただそこまで考えたこともないからさ、先ずはもっと付き合ってからでもいいじゃないか?急いてやはり俺じゃダメって事もあるかもしれないじゃないか」
「ううん、きっとそんな事は無いと思う、でも河瀬さんが言うなら、待つから…」由美は、うなだれて部屋を出ていった。
河瀬は、気まずい思いをさせたかなと思いつつも折り詰めに手をつけ、そしてまたタブレットに向かった。時折、哀しげに去った由美の顔が脳裏を過ぎり、それを操作する手が妙に重く感じた。