普通の人々3
結局、河瀬は閉店近くまでテーブルを占領していた。長尾 由美は、彼の背中を店の外の通路まで見送った後に店内に戻った。先ほどまで二階で行われていた宴会の後片付けを、しなければならなかったからだ。そんな給仕としての仕事の時間は長く、そして辛かったが、給料は決して悪いものではなかった。
由美は、「おふく」の2階のさらに上の屋根裏部屋を借りて住んでいた。仕事を終えると棒で天井を突ききそこに開いた空間に梯子を立てかけて中に入るのである。
金銭的な理由ではなかった、夫の母親が病弱なために、目を離せなかったのが大きな理由だった。屋根裏とはいえ水周りはしっかりしていたし、近くを熱交換用のパイプが通っているために、程よく暖かいのも良かった。
ステーション内は、設計上は内部の温度は、一定になるように作られていたが、夜の時間帯になると、溜まった熱を赤外線として外部に放出している。それが、増築に増築を重ね、一部のエリアでは、熱を奪いすぎてしまっているのが常態化していた。ただ、たまたま、このエリアではその熱の通り道があった。
そもそも、ステーションのこの一角に日系人が多いのも、この配管の熱が温泉に丁度良いと、なんとなく集まってきたのが原因らしかった。この当たりは極めて貧しい者が多く、コンパートメントと呼ばれる部屋には、半畳のキッチンや洗面所はあってもお湯に浸かるようなバスルームもシャワーもない。
そのため、ステーション内で集まった熱を外部に放出するだけなのは勿体ないと、銭湯がいくつか作られる事になった。それを求めてより多くの日系人が集まるようになってしまったらしい。
屋根裏部屋は、静まり返っていた。敷きっぱなしの布団の傍には手製の粗末な仏壇があって、そこには夫の母親の遺影が飾ってあった。夫とその母と彼女でここまでは来たが、夫はギャンブルに手を出して、旅費を使い込んだ挙句に彼女と母の虎の子を奪ってどこかに逃走してしまったまま行方知らずだ。
子が出来なかったのが、今思えば幸いだっただろう、人頭税ではないが、子がいればその分の酸素税を払わなくてはならないのだから。いくら給与が良くても、酸素税の為にかなりきつい生活を余儀なくされただろう。
由美は、部屋を対角線に渡したロープにぶら下げてある下着やらタオルを手にとると、それを風呂敷に包んで細い梯子を降りて行った。そして店を出る間際に、暗くなった厨房に置いた折り詰めを手にした。
「おふく」を出ると、辺りには小さい飲食店が並びどれも、店じまいの準備をせわしなく行っていた。通路には、自分のコンパートメントに帰られなくなるほど酔いつぶれた男が店の壁に寄りかかって意味不明な言葉を吐き続けていた。
このステーションの重力は、遠心力ではなくグラビトンの制御によるもののために、その制御の及ぶ範囲ならばどこにでもステーションの増築が可能になっていた。そのためにあちらこちらに研究棟、居住棟、店舗棟、病院棟などが逐次追加された、その度に通路も作られたものだからステーション内は何処でも迷路状態であり、特に日本人が多いこの辺りは酷い。彼女も、最初にここに来たうちはボランティアから渡された地図だけが頼りだった。
銭湯は「燕湯」という名であった。間口から直ぐに男女に分かれる扉があり、その扉の向こうに脱衣所があった。昔ながらの番台が男女の脱衣所の間に作られているのも。古風さを出すという目的ではなく少ない面積を効率的に使う為だった。
「あら、由美ちゃん遅いじゃない」番台のおタネばあさんが言った。
「宴会が入ってねー、遅くまで帰らないんだもの、嫌になっちゃう。」といいながら、貨幣を一枚番台に置いた。
「ああ、柳澤組の打ち上げだってね。最近景気がいいのはあそこばっかりだよ」
「でも、それでお金が回ればこっちも万歳だからなんともいえないけどね。それに最後には棟梁からご祝儀が出たからちょっと嬉しいかな」
「本当に、やっこさんは気前がいいからねぇ、いっそどうだい、柳澤の息子の嫁になっちまえば」
「いやですよぉ、歳が12も下なんですよ」
「そこは、お前さんの器量でさ…」
「ばあさんしゃべってねぇで釣り」と男の脱衣所から大きな声がかかった
「はいはい、そんなに怒鳴られたんじゃ、旦那に破られた膜のほかに耳の膜まで破けちゃうよ」