1.東火宙軍
「…海の、匂いだ」
すぐそこに海を臨む港町、横浜。
春の日差しが海を暖める麗らかな日に、藍沢真は一人巨大なターミナルに立ち尽くしていた。
周りの人々は皆一様に黒い軍服に身を包み、忙しなくターミナルを行き来している。
真に目をくれる者などなかった。
(こんなに広いのに、案内板一つないなんて)
思わず溜息をつく。
なにせここーー東火宙軍横浜本部は、宙軍の核である司令部から宇宙船の開発施設、さらには精鋭である“Novas”の待機所まで揃った、日本有数の広大な宙軍基地なのである。
暇な者などあるわけもなし、立ち止まっているのは真と同じように右往左往する新入隊員だけだった。
三月上旬に行われた試験、真に東火宙軍Novas第九班への配属通達が届いたのは一週間前のことだった。
そして自分のコード入りの軍服を初めて目にしたのは昨日。
せめてもう少し早く届けられないものだろうか。
心の準備ができない。
だって、誰しもが一度は憧れる東火宙軍なのだ。
日本宙軍の中でも最も優秀な部隊。
その中でもNovasと言えば、日本最高峰の隊員が集う、言わばエリート集団である。
そんな東火の、しかもNovasへの配属。舞い上がらない者がいるだろうか。
「あの、すみません」
「悪いがもうすぐフライトなんだ。他の奴に聞いてくれないか」
先刻からこの繰り返しだ。
溜息が漏れるのも致し方ないだろう。
目的地に着くのはいつになることやら。
東火の任務は大きく分けて二つ。
一つは未知の惑星の探索だ。
二〇五四年に光速航行技術が探査機に持ち込まれて以来、世界は専ら惑星開拓の話で持ち切りだった。東火の前身である東火宇宙船開発機構も、惑星開拓のために立ち上げられた組織だ。
だがそれもほんの十年と少しの間だけの話。
間もなく加えられたのが、二つ目の任務、戦闘。
二〇六八年に開幕した第三次世界大戦、主とされた戦場は宇宙だった。
その戦いは長きに渡り、十年経った今でさえ決着はつけられていない。
日本は現状高い技術力が功を奏し、戦況を有利に運んでいる。だが、犠牲がないわけでもない。
二ヶ月に一度は小編隊がやられて帰ってくる。
しかし戦場が宇宙であるゆえ、市井の人々には戦時下であるという自覚は薄い。
犠牲になる可能性があると知りながらも、宙軍への入隊希望者は後を絶たないのだ。
『東火宙軍Novas第二班、ターミナル・ワンへ』
頭上でアナウンスが流れる。
どうやら小編隊が戦場へ飛ぶらしい。
第三次世界大戦の引き金となったのは、国籍不詳の戦闘機による某国の宇宙ステーション襲来だった。
その事件以前、各国には地上から三十八万四千四百キローーおおよそ地球から月までと同じ距離であるーーの範囲で宙域が定められていた。
問題の戦闘機はその宙域を侵害・襲撃したのだ。
大騒ぎになったのは言うまでもないが、さらにその戦闘機の仕様が各国を混乱に陥らせた。
戦闘機の翼に規定である国の識別徽章がなかったから。
その事件が封切りとなって始まった第三次世界大戦。
どの国も手を組むことなく、互いに宇宙を駆け回り、争う。
小国の大半は既に白旗を上げた。
日本の技術者の熱量は凄まじかった。
時は来た、今こそ日本の技術の力を、と最新戦闘機の開発を急ぎ、兵の足を作り上げたのだ。
その戦闘機たるや、最速かつ攻撃力にも長けていて、つまり世界最強だった。
そんな戦闘機を格好よく乗り回す宙軍に、戦場を知らない子供たちが憧れないわけもなかった。
真もまた、その一人である。
(まずい、時間が)
見上げた時計に示された時刻は指定の三分前を指している。
かと言って場所が分からなければ急ぎようもない。
憧れの勤務先に初日から遅刻など、笑えない。
(とりあえず、手当り次第に探すしかない)
真は時計から視線を正面へ戻し、目の前の渡り廊下へと駆け出した。
正面を向いて突き進めば、大抵のことはどうにかなるだろう。大雑把に見えて、案外誠実。
それが、藍沢真がこれまでに学んだ生き方であった。
東火宙軍Novasにはモットーが掲げられている。
『目の前に未知ある限り、嚆矢となれ。』
宇宙船開発機構時代から残されてきた言葉。
宇宙に夢馳せ入隊する少年少女たちは、この言葉を背負い、戦闘機に乗り込むのだ。
しかし彼らは、まだ本当の使命を知らない。
全てを覚ったNovasがプラネット・ナインへ飛び立つまで、あと数ヶ月。