第七夜
けれど、現実はそんなにぬるくはない。
細い弔問の声が村を覆い尽くす。
死病が、村を襲っていた。
大勢が、死んだ。
生きているものも、いまだ臥せって明日も知れぬものもいた。宗右衛門の妻も、その一人だった。
宗右衛門は無事だったが、心まではそうとはいかなかった。
妻の病状に合わせて精彩が欠けていく様子を、幼狐は不安に感じていた。徐々に、男は幼狐を見返らなくなった。
……まあ、当然だろうな、と幼狐は思った。
病床の妻に比べたら、幼狐を気にかけていられなくなるのも無理はない。家族が一番大事だ。幼狐だってわかっている。飼っているわけでもない野良一匹、捨て置かれるのは当たり前なのだ。
……さびしかった。
けれど、ここまで遊んでもらえたら、それでもう、十分じゃないのか、なんて。求めて叫ぶ心を押し込めて、遠くで憫笑するしか術はなかった。幼狐では、宗右衛門を助けることはできない。
それでも必死な様子の男を、幼狐は家の外から見つめていた。必死で看病をしていた男。
みんなも心配だったけれど、やはり幼狐の一番は宗右衛門だった。夜も寝ないで看病して、宗右衛門は大丈夫なんだろうか。
構ってもらえなくてもそれがどうしても気になって、毎日通った。
ある日、ようやく家から出てきた宗右衛門を幼狐は追いかけた。背中には空の魚籠。そして釣り竿。男について走りながら、幼狐は呼びかけた。
そうえ、そうえ、大丈夫?
宗右衛門は幼狐に気づかずに、一目散に川に向かった。
幼狐は男が怖かった。こんな風に殺気立った宗右衛門など、見たことがなかったから。外見は確かに少しばかり恐ろしい男だったけれど、心根ばかりはそうではないと、幼狐はよく知っていた。
そんな男が恐くて怖じ気づきながらも、幼狐は追う。
一心に川に釣り糸を垂れる男の傍に寄って、顔色をうかがう。
元気? そうえ、むりはしてない? そうえまで倒れてしまったら、どうしようもないんだよ。
「邪魔だ」
久々に投げかけられたのは、そんな冷たいつめたい言葉だった。鬱陶しげに振り払われ、幼狐は転がる。
頭を打ち付けてしまっても、宗右衛門は幼狐を気にしてはくれなかった。優しい手が、頭を撫でることは、もう。
呆然と、幼狐はひっくり返ったままだった。投げつけられた言葉は容赦なく仔どもをさいなんだ。言葉がどうして身体を裂かないのか、幼狐は不思議でならなかった。
「獣はいい、情も何も、ないだろう。きさんは何も考えずに生きていけるやも分からんが、人間は違う」
言葉の重さはどれほどだろう。これが同じ人から与えられるもの。その違いに愕然としながら、心ノ臓に肥大していくものを、抑え付けた。――痛い。
冬の、寒い日だった。
凍えて赤くなる手で、魚を釣り上げては苛立たしげに目を細め、乱暴な所作で宗右衛門は魚籠にそれを突っ込んだ。
幼狐は少し離れた場所から、その後ろ姿を眺めるしかなかった。
さびしい心を抱えながら。
邪険にされた日から、毎日。彼は朝早くから夜遅くまで、釣り糸を垂らした。
幼狐は毎日、いないものとして、扱われた。
優しくされたことを覚えている。撫でられた手の感触も、温度も。抱きあげられたときの、自分では見ることのできない視線の高さや。
しばらく前までは、当たり前にあったもの。
(もう、だめなのかな……)
幼狐は俯く。耳としっぽはしおれてしまって、立てる元気もない。
情がある。こころも。
宗右衛門は、それを知ってくれているはずだった。
泣けるものならば、泣きたかった。
(そーえ……)
「――――くそっ」
びくりと幼狐は躯を震わせた。
聞いたこともない、宗右衛門の悪態だった。
竿を握りしめたまま、ぐしゃくしゃと髪を掻きまわす。
途方もない苛立ちと絶望が幼狐に伝わる。幼狐は頭が真っ白になった。そんなそうえは、見たことがない。
(そう、え。そうえ、)
ふら、と幼狐は立ちあがった。ふらふらと近づく。
無理を、無理を、しないで。ねえ。そうえ。そうえがいなくなったら、おれはどうすればいいの。
(こっちを、みて)
ここままだと、あなたがどこかへ行ってしまう、気がするんだ……!
膝に前肢を置く。よじ登って、必死で訴える。
そうえ、そうえ。
頭の中は混乱していてただそれだけで。
気づいてほしい、一心だった。
そうえを喪ってしまう、その予感はどうしようもなく幼狐を怯えさせた。
「――退けっ」
弾き飛ばされ、もんどりうって何かに当たる。痛みで息が止まる。ばらばらとあたりに何かが散らばって、水面をたたくいくつもの重い音。
幼狐は呆然として、目を見開いていた。
ゆるり、まばたきひとつ。
あたりには死んだ魚が散らばっていた。にごった瞳が幼狐を見つめる。魚篭はない。ぷかぷかと、釣竿と一緒に流れていくのが、視界の端に小さく映った。
正面には、怒りを湛えた宗右衛門の顔。
「宗右衛門!」
色を失った細い声が、男を呼んだ。しわがれた声。幼狐から視線をはずし、ばっと彼は振り返る。
「あの子が……!」
老婆はそれ以上言葉に出せぬといった風情で顔を覆った。彼女は息子の嫁の、訃報を携えてきたのだった。
空気が凍りつくのを、幼狐は感じ取る。
振り返った宗右衛門が幼狐に向けた、凍てつくような激昂を。
きさんが、
音のない言葉が、幼狐を切り裂く。
きっと引き裂いた。今度こそ。
引き裂けなければ、どうして、
「どうして家に帰ってこなかったんだい!? あの子はお前を呼んでいたのに」
呆と、ぽつり零すように男は言った。
「……秋刀魚が、食べたいといっていただろう……?」
「そんなもの、いま取れないことくらいお前も知っていただろう……!?」
たまらず幼狐は、落ちるように川に飛び込んだ。
秋刀魚を、秋刀魚を、取らないと。早く。
――――でも。
ようやっと幼狐は思い知る。どれほどの罪を、自分が犯してしまったか。
此の身を賭しても、贖い切れないほどの、咎を。
――――どうしておれを引き裂けないんだ。
身を切るような冷たさの中、滴った雫が水面を叩いた。
幼狐を突き飛ばす一瞬前、宗右衛門が釣り上げたのは確かに、彼が求めていたものだったのだ。