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此の身ひとつの贖罪  作者: 赤坂壱
本編
7/10

第七夜



 けれど、現実はそんなにぬるくはない。


 細い弔問の声が村を覆い尽くす。


 死病が、村を襲っていた。


 大勢が、死んだ。


 生きているものも、いまだ臥せって明日も知れぬものもいた。宗右衛門の妻も、その一人だった。


 宗右衛門は無事だったが、心まではそうとはいかなかった。


 妻の病状に合わせて精彩が欠けていく様子を、幼狐は不安に感じていた。徐々に、男は幼狐を見返らなくなった。


 ……まあ、当然だろうな、と幼狐は思った。


 病床の妻に比べたら、幼狐を気にかけていられなくなるのも無理はない。家族が一番大事だ。幼狐だってわかっている。飼っているわけでもない野良一匹、捨て置かれるのは当たり前なのだ。


 ……さびしかった。


 けれど、ここまで遊んでもらえたら、それでもう、十分じゃないのか、なんて。求めて叫ぶ心を押し込めて、遠くで憫笑するしか術はなかった。幼狐では、宗右衛門を助けることはできない。


 それでも必死な様子の男を、幼狐は家の外から見つめていた。必死で看病をしていた男。


 みんなも心配だったけれど、やはり幼狐の一番は宗右衛門だった。夜も寝ないで看病して、宗右衛門は大丈夫なんだろうか。


 構ってもらえなくてもそれがどうしても気になって、毎日通った。


 ある日、ようやく家から出てきた宗右衛門を幼狐は追いかけた。背中には空の魚籠。そして釣り竿。男について走りながら、幼狐は呼びかけた。


 そうえ、そうえ、大丈夫?


 宗右衛門は幼狐に気づかずに、一目散に川に向かった。


 幼狐は男が怖かった。こんな風に殺気立った宗右衛門など、見たことがなかったから。外見は確かに少しばかり恐ろしい男だったけれど、心根ばかりはそうではないと、幼狐はよく知っていた。


 そんな男が恐くて怖じ気づきながらも、幼狐は追う。


 一心に川に釣り糸を垂れる男の傍に寄って、顔色をうかがう。


 元気? そうえ、むりはしてない? そうえまで倒れてしまったら、どうしようもないんだよ。




「邪魔だ」




 久々に投げかけられたのは、そんな冷たいつめたい言葉だった。鬱陶しげに振り払われ、幼狐は転がる。


 頭を打ち付けてしまっても、宗右衛門は幼狐を気にしてはくれなかった。優しい手が、頭を撫でることは、もう。


 呆然と、幼狐はひっくり返ったままだった。投げつけられた言葉は容赦なく仔どもをさいなんだ。言葉がどうして身体を裂かないのか、幼狐は不思議でならなかった。


「獣はいい、情も何も、ないだろう。きさんは何も考えずに生きていけるやも分からんが、人間は違う」


 言葉の重さはどれほどだろう。これが同じ人から与えられるもの。その違いに愕然としながら、心ノ臓に肥大していくものを、抑え付けた。――痛い。


 冬の、寒い日だった。


 凍えて赤くなる手で、魚を釣り上げては苛立たしげに目を細め、乱暴な所作で宗右衛門は魚籠にそれを突っ込んだ。


 幼狐は少し離れた場所から、その後ろ姿を眺めるしかなかった。


さびしい心を抱えながら。


 邪険にされた日から、毎日。彼は朝早くから夜遅くまで、釣り糸を垂らした。


 幼狐は毎日、いないものとして、扱われた。


 優しくされたことを覚えている。撫でられた手の感触も、温度も。抱きあげられたときの、自分では見ることのできない視線の高さや。


 しばらく前までは、当たり前にあったもの。


(もう、だめなのかな……)


 幼狐は俯く。耳としっぽはしおれてしまって、立てる元気もない。


 情がある。こころも。


 宗右衛門は、それを知ってくれているはずだった。


 泣けるものならば、泣きたかった。


(そーえ……)




「――――くそっ」




 びくりと幼狐は躯を震わせた。


 聞いたこともない、宗右衛門の悪態だった。


 竿を握りしめたまま、ぐしゃくしゃと髪を掻きまわす。


 途方もない苛立ちと絶望が幼狐に伝わる。幼狐は頭が真っ白になった。そんなそうえは、見たことがない。


(そう、え。そうえ、)


 ふら、と幼狐は立ちあがった。ふらふらと近づく。


 無理を、無理を、しないで。ねえ。そうえ。そうえがいなくなったら、おれはどうすればいいの。


(こっちを、みて)


 ここままだと、あなたがどこかへ行ってしまう、気がするんだ……!


 膝に前肢を置く。よじ登って、必死で訴える。


 そうえ、そうえ。


 頭の中は混乱していてただそれだけで。


 気づいてほしい、一心だった。


 そうえを喪ってしまう、その予感はどうしようもなく幼狐を怯えさせた。


「――退けっ」


 弾き飛ばされ、もんどりうって何かに当たる。痛みで息が止まる。ばらばらとあたりに何かが散らばって、水面をたたくいくつもの重い音。


 幼狐は呆然として、目を見開いていた。


 ゆるり、まばたきひとつ。


 あたりには死んだ魚が散らばっていた。にごった瞳が幼狐を見つめる。魚篭はない。ぷかぷかと、釣竿と一緒に流れていくのが、視界の端に小さく映った。


 正面には、怒りを湛えた宗右衛門の顔。




「宗右衛門!」




 色を失った細い声が、男を呼んだ。しわがれた声。幼狐から視線をはずし、ばっと彼は振り返る。


「あの子が……!」


 老婆はそれ以上言葉に出せぬといった風情で顔を覆った。彼女は息子の嫁の、訃報を携えてきたのだった。


 空気が凍りつくのを、幼狐は感じ取る。


 振り返った宗右衛門が幼狐に向けた、凍てつくような激昂を。


 きさんが、


 音のない言葉が、幼狐を切り裂く。


 きっと引き裂いた。今度こそ。


 引き裂けなければ、どうして、


「どうして家に帰ってこなかったんだい!? あの子はお前を呼んでいたのに」


 呆と、ぽつり零すように男は言った。


「……秋刀魚が、食べたいといっていただろう……?」


「そんなもの、いま取れないことくらいお前も知っていただろう……!?」


 たまらず幼狐は、落ちるように川に飛び込んだ。


 秋刀魚を、秋刀魚を、取らないと。早く。


 ――――でも。


 ようやっと幼狐は思い知る。どれほどの罪を、自分が犯してしまったか。


此の身を賭しても、贖い切れないほどの、咎を。


――――どうしておれを引き裂けないんだ。




身を切るような冷たさの中、滴った雫が水面を叩いた。


幼狐を突き飛ばす一瞬前、宗右衛門が釣り上げたのは確かに、彼が求めていたものだったのだ。



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