第六夜
罠にはとても注意した。あの男のような人だけではないと、幼狐はちゃんと知っていたから。
用心に用心を重ねて、ようやく拓けた人里におりる。畑の畦を駆けて、覚えていた男に匂いのする方へ。
だんだん近くなる、男の気配。
もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ逢える……!
そのときの幼狐には、彼に逢えない理由など、なにひとつ、なかった。
ただこころの思うまま、男の元へ走ればよかった。
「――っ!?」
身体にぶつかった重いものに、幼狐は悲鳴をあげた。目の前が赤く眩む。よろけてこけて、痛みをこらえ、怯えながらきょときょとと周囲を見回した。
そこで、幼狐は息を飲む。
――人が、たくさん。
人の子が幼狐の周りを遠巻きに囲って、石を構えていた。それを勢いよく振りかぶって、投げる、幼狐に向かって、飛んでくる。
狐だ狐だとはしゃぐ声。
無邪気な声に伴った実害が、幼狐の躯を痛めつける。逃げても子どもたちは追いかけてきて、恰好の獲物に夢中になっている。退屈な畑仕事をするよりも、そりゃあ、彼らは楽しいだろう。
けれど逃げる方の幼狐は必死だ。ただの石礫でしかなくっても、躯の小さな幼狐にしてみれば充分すぎるほどにそれは危うい。いつもは簡単に走りきる距離ですら、驚くほど心臓が早鐘を打って苦しかった。
「何してる?」
突然現れた壁に跳ね返って、幼狐はまたこけた。ばたばたと子どもたちの足音が近くなる。幼狐は青くなって、咄嗟にその壁に隠れた。探していた匂いが、濃くなった。
あれ? そう思うまもなく首根っこを掴まれ、空中に吊るされる。いきなりのことに心臓がこわばり、幼狐は固まったまま大人しく吊り上げられた。
そんな幼狐を壁はまじまじと見つめた。ほつれかかってはいるものの、大切な巻いてもらった布に視線が向く。
「……きさん、あのときの狐の子か?」
幼狐ははっとして顔を上げた。恐さはあっという間にどこかへ行って、あとはもう、嬉しさで息が詰まる。
あのときの男が、そこにいた。
躯をよじって男の手から逃れ、改めて飛びつく。
うれしいうれしいうれしいうれしい!
やっとあえた!
覚えていてくれた!!
「うわ!?」
男は幼狐の行動に驚いたようだったが、着物をかけ上がってするすると首もとになつく幼狐には、苦笑するしかないようだった。
「村には来るなといったろう?」
やわらかい声が、そう言った。
「食われるやもと言ったのに」
「宗右衛門!!」
遅れていた子どもたちが駆け寄ってくる。
「その狐、貸して!」
ぶわりと幼狐はしっぽの毛を逆立てた。冗談ではない、殺される。幼狐は必死で宗右衛門の着物に縋りついた。
宗右衛門は、そんな幼狐を奥襟を開いて懐に招き入れる。小さな躯を隠してしまい、彼は駄目だ、と子どもたちに首を振った。
「この仔は俺が拾った仔だ。お前たちに渡して、虐められるわけにはいかんな」
そんなあ、と口々に文句を言う子どもたちを、手を振って宗右衛門は追っ払う。
「散れ、散れ、まだ仕事の途中だっただろう? 父ちゃん母ちゃんに怒られるぞ」
「うわ、」
「ちょっとくらいいいじゃねえかぁ」
「けちんぼ!」
ぶちぶちと文句を言いつつ、それでも男の発した言葉は十分効果的だったのだろう。大勢いた子どもたちの気配が、徐々に遠ざかっていく。
そうしてようやく、男は着物の中の幼狐を覗きこんだ。
「恐いのは、いなくなったぞ」
促され、ごそごそ幼狐は着物の中からはい出した。
また、……助けられた。
ぼうっと幼狐は宗右衛門を見上げる。
「大丈夫か? 恐かったなあ」
ぐりぐり両手で顔をかき混ぜられる。
宗右衛門の手は大きくて、すっぽりと幼狐の顔は隠れてしまった。んんう、幼狐は目を細めて喉を鳴らした。
「怪我はないか? まったく、こんな村の中に出てくるなんてなあ。殺されても文句は言えんぞ」
(それでもよくて、来たんだよ)
宗右衛門に、逢えたなら。
躯にできた傷だって、もうすっかり痛くない。
そうえもん、名前を口の中で言ってみて、幼狐は破顔する。
そうか、宗右衛門というのか。
難しい名前だ。けれど知れてうれしい。ひとつ覚えられてうれしい。
なつく幼狐に、男もまんざらではない顔で、笑っていた。
△△ △△ △△ △△
それから何年が経っただろう。
数え切れないほどの月日が過ぎた。
何度か村へと降りるたび、幼狐を襲う人の数は少なくなった。宗右衛門の飼い狐という風に、認識されたようだった。布で結んだ首輪を貰うと、いよいよ人はそう思った。
とても幸福な、日々を過ごした。
親も身よりもない、一人ぽっちの幼狐だったから、宗右衛門のことを父親か母親かのように、慕った。
宗右衛門が仕事に行くときでも、幼狐は着いていった。川釣り、畑仕事、もちろん狩猟にだって幼狐は着いていく。
宗右衛門は複雑そうな顔をしていたけれど、幼狐は気にしやしなかった。
だって、人とは、動物とは、そういうものだ。
何かを食って、生きている。
一年一年、そうして過ごした。
他愛のない日々を。
川釣りをする宗右衛門の傍で、幼狐はばしゃばしゃと水で遊ぶ。
ついでに餌を自分で捕らえて、ぶるぶると水気を振り払いながら岸に上がった。
こちらに掛けるな、と宗右衛門は笑う。そのくせ濡れっそぼった幼狐を撫でるのだから、矛盾している。
「大きくならないな、きさんは」
まふまふと魚を食んでいる幼狐の毛並みに指を指し入れながら、宗右衛門は嘆息した。
「相変わらず、仔狐だ。大きくならぬ、種でもあるまい?」
幼狐は食べるのを止め、小首を傾げた。
幼狐はあやかし狐。
動物よりも、人よりも、長い永い、時を生きる。
大きくならないわけではないけれど、それにはまだ随分と時間が必要だ。幼狐だって、早く人になれるくらい、大きくなりたい。
そうえと、言葉を交わしてみたい。
いまはまだ駄目だった。少しだって、変化できない。
「……不思議な仔だ。いつも、俺の言葉が分かるように振る舞うな」
だって、実際分かるのだもの。
何と言っているのか、どんな想いを籠めているのか。
そうえのことなら何でも知りたいから、男の全てに、全身全霊を掛けている。
幼狐が頷くので、宗右衛門は目を見張った。
わしわしと一層強く頭をかき交ぜられ、幼狐は目を瞑る。
「……お前が人であったらよかったのにな」
(……おれもそう思うよ、そうえ、)
伝えたいもどかしい想いを、幼狐はいつも抱えている。
でもいつか、あなたの願うようになるからと、その時の幼狐にはそれだけだった。
それまではただ、聞き役に徹するだけで。
でも幼狐はいい聞き役だった。くんくんと相槌を打って、静かに聞いて、分かるよ、大丈夫だよ、と短い気持ちだけを宗右衛門に伝える。
男は、幼狐にだけはなんでも話した。
ときには言葉にせずとも、分かりあえた。
だから宗右衛門は、妻を迎えるときだって、真っ先に幼狐に教えてくれた。
人でなくとも信頼されている事実がうれしかった。
祝言の日には花を。
夫婦となる二人に上げた。
宗右衛門の妻は、とても優しい女子だった。宗右衛門とともに大きくなった幼馴染。宗右衛門は老いた母と二人暮らしでそのほかには家族はなく、その母も家が華やぐと喜んでいた。女手が増えたことも、嬉しかったのだろう。
宗右衛門が笑っていた。
こんな日々が永遠であれと、幼狐は願った。